第7話 白雪さんのお願い

 本当に美味しかった、白雪さん手作りのチャーハンは。おかげさまで、僕は空腹を満たされ、心も満たされた。全ては救いの女神様である白雪さんのおかげだ。


 食べ終わったお皿を台所で洗い、その間にケトルでお湯を沸かす。晩ご飯を作ってくれただけではなく、部屋を片付けてくれたり、ダッシュで買い物に行ってくれた彼女のために、少しでもゆっくりしてもらおうとドリップ式のコーヒーを淹れたのだ。がしかし、白雪さんはコーヒーが飲めなかったのであった。


「苦っ! 響さん、苦いです! うー……大人はなんでこんな苦い飲み物を好んで飲むんだろ? コーラの方がずっと美味しいのに。う、やっぱり苦っ!」


 うーん、僕は何も入れないブラックコーヒー派だから、家には砂糖やらシロップは置いてないんだよなあ。


「その苦味が美味しいんだよ。というか、無理して飲まないでいいよ? 今から近くの自販機でコーラ買ってくるから」


「大丈夫です、頑張って飲みます。これを飲みきったら、私はもう大人の女です! そのためにも……って、苦っ! うー、やっぱり苦いよぅ……」


 やっぱり駄目なものは駄目なようだ。白雪さんは苦々しい顔をして、べーっと舌を出した。背伸びして大人の真似をしようとしている姿が可愛らしい。でも白雪さん、大人の女になりたいのか。さすがお年頃の女子高生。


「はははっ、やっぱりお子ちゃまの白雪さんにコーヒーは早すぎたか」


「お子ちゃまじゃないです、もう十七才なので。ところで」


 言って、白雪さんは部屋のぐるりを見渡す。


「部屋を片付けていて思ったんですけど、響さんってお酒飲まないんですか? お酒の類が見当たらなかったので。私のお父さんは毎朝飲んでるから、大人はそれが普通なのかと思ってました」


「うん、まあ話せば長くなるからあれだけど、僕はアルコールを飲まないようにしてて。というか白雪さんのお父さん、朝からお酒飲んでるの? ヤバくない?」


「あ、私のお父さん、夜勤で働いてるんです。だから朝、私が学校に行く頃にお仕事から帰ってきて、それで毎朝ビールを飲んですぐに寝ちゃうんです」


 なるほど夜勤なのか、それなら朝からアルコールを飲むのも納得。


 ちなみに何故、僕がアルコール類を飲まないようにしているのかというと、苦手なのだ。味は大好きなんだ。だけど酔う感覚が苦手になってきて。なんというか、酔うと感覚が鈍るじゃん? 判断力が低下するじゃん? それが嫌なんだよね、頭は常に回る状態にしておきたくて。


「ところで白雪さん? もう時間も結構遅いけど大丈夫? 明日も学校でしょ?」


「あ、それは大丈夫です。最近はいつも夜遅くまで漫画描いてますから。寝るのは夜中の三時くらいかな? だって私、若いですから。おじさんの響さんと違って」


「う……ま、まあ確かに僕は若くはないけど、おじさんって」


「いいじゃないですか、おじさんでも。私はおじさん大好きですよ? 年と経験を重ねているからこその魅力といいますか」


「そ、そうなの?」


「はい、そうです。だからおじさんであることに自信を持ってください。まあ、私は若いですけどねー。あははっ」


 うう……なんか白雪さんに遊ばれているような気が。


「若いから体力だけには自信があるんです。だからちょっとの夜ふかしくらい大丈夫なんです。フルマラソンだって楽勝なんですよ!」


「え!? うそ、本当! フルマラソンが楽勝って、それってスゴくない!?」


「はい、もちろん嘘ですけど」


 な、何故ゆえにそこで嘘をつく、白雪さんよ。


「響さんって信じやすいんですね。いつか悪い人達に騙されちゃいますよ?」


 何も言えない。言い返せない。確かに僕って人を簡単に信じてしまうんだ。だから詐欺に遭ったこともある。あの時はめちゃくちゃ騙し盗られたっけ。


「そ、それよりもですね、響さん。お疲れのところ非常に恐縮なのですが……」


 ちょっと小さくなりながら、白雪さんはリュックの中からB5サイズの用紙の束を取り出し、恐る恐る僕に差し出したのであった。……なんか察しがついたぞ。


「あ、あの! この前、響さんに教えてもらったことを参考にしてネームを切ったんです。良かったら、その……よ、よよ、読んでもらえませんでしょうか!」


 ほらね、やっぱり。ネームですよネーム。


 ちなみにネームというのは、簡単に言うと漫画の設計図みたいなものである。コマ割りからキャラクターの配置、セリフの位置などを鉛筆書きでさらさら描いたもの。描き方は作家さんそれぞれ違うけれど。で、それを読んでくれと白雪さんは言っているのだ。ネームかあ、正直読みたい。


 しかしなあ。もう漫画編集的なことは、この前で最後って決めたし。どうしよう。ここまで僕のために色々頑張ってくれたんだ。何かしらの形でお礼はしたいと思っていた。思っていたけれど……。


「というか、これからも漫画の指導をお願いしたいんです。できれば毎日。響さんにもっともっと、色んなことを教えてもらいたいんです。どうか、この通りです!」


 両手をパンッと合わせ、必死に懇願されてしまった。お礼はしたい。だけど漫画編集はしないと決意をしていて。一度決めたことは簡単にはひっくり返したくはない。


 僕は一度捨てたんだ、漫画編集は。だからやりたくもない力仕事をしているわけで。業界には正直、未練はある。未練たらたら。戻りたいのはやまやまなんだ。だけど……うーん、悩む。


「その代わりと言ってはなんですが、これから毎日、響さんの晩ご飯を作りに来ます! 家事もします、掃除もします! だから、どうかお願いします!!!!」


 なん、だと……?


「え? ちょ、ちょっと待って。お礼をしなければいけないのは僕の方だよ? なのに白雪さんが毎日、僕の家に来て晩ご飯を作ってくれるっていうの? あんなに美味しいご飯を、毎日? しかも家事まで?」


「はい! お仕事でお疲れのところ、体を休める貴重な時間を頂いてしまうわけですから、それくらいさせてください!」


「いや、それはさすがに申し訳ない……」


「私、料理や家事が大好きで苦にならないから大丈夫です! それよりも、漫画の描き方を教えてもらえる方がずっと嬉しいんです。だから!」


 僕の決意、簡単に崩れ去る。ジェンガかよ。確かにお礼は絶対にすると決めていた。でも、どちらかと言えば単純に、僕は白雪さんの手作りご飯をもっと食べたいと思ったのが実なところなのである。欲望には抗えない。


「そ、それなら教えてあげてもいいかなあ、なんて」


「本当ですか!!!!」


 白雪さんは目をキラキラと輝かせ、愛らしい笑顔を見せた。だってさ、美味しい手料理をこれから毎日食べられるんだよ? 侘びしいカップ麺の夕食とおさらばできるんだよ? 快諾する以外の選択肢なんてないじゃん。


 それに、白雪さんの喜びようを見ていると、僕のつまらない決意なんてどうでもいいかなって。そんなふうに、不思議と思えてしまった。


 未来のある若者の、漫画に対する情熱。いいなあ。おじさんは情熱なんてとうの昔に、どこかに捨ててきてしまったよ。


 でも、白雪さんと一緒にいると、僕も少しだけ、情熱を持って毎日を生きたあの日を思い出せそうな気がする。もう一度、『生』を感じられそうな気がする。


「よし! 響おじさんに任せなさい!」


「はい! ありがとうございます!!」


 うん、我ながら思う。本当に調子の良い奴だよ、僕って。


「うん、それじゃあさっそく。白雪さん、そのネームを見せてもらえるかな?」


「はい、お願いします! あ、でもその前に。明日は何が食べたいですか? それと、響さんの食べたいものを全部教えてほしいです」


「食べたいもの全部かあ。多すぎて悩むね。オムライスとかハンバーグとかスパゲティとかかな? で、明日の晩ご飯なんだけど、カレーが食べたいかな」


 それを聞いて、白雪さんは「うふふ」と笑った。あれ? 僕変なこと言った?


「響さんの食べたいものって、まるで子供みたいですね。もしかして、私より味覚がお子ちゃまなんじゃないですか? ふふ、なんか可愛い」


「コーヒーも飲めないのに生意気言うんじゃありません」


「あはは、それもそうですね」



 『第7話 白雪さんのお願い』

 終わり

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