第5話 白雪さんの恩返し
――僕が白雪さんとファミリーレストランで出会ったのが数日前。もっと細かく言えば三日前。彼女の原稿を読んで感じた問題点、そしてその解消法を全て伝えたあと、少しの雑談タイムを取った。
原稿に集中していた時はあまり気にしなかったのだけれど、その時に改めて思った。本当に可愛いなこの子は――と。ひとつひとつの仕草もとても愛らしく、そして結構よく話す子でもあり、明るく素直な子。魅力的な子。よく笑い、笑顔が素敵な子。そんな子だということをよくよく感じた。
携帯番号の交換を望まれた僕ではあったけれど、さすがにそれは丁重にお断りした。漫画に関して教えるのはこれで最後と決めていたから。それが三日前。とても楽しい時間だった。ああ、時が戻ればいいのに、と。今さら思える程に。
と、いうわけで回想終わり。現在に戻ろう。現実に戻ろう。今の僕はというと、まあこんな感じである。
「クソッ……! こんな仕事、早く辞めてやる……!」
体中の筋肉が悲鳴を上げているのを感じながら、僕はようやくアパートの近くまで帰ってきた。疲労困憊。仕事帰りなのだ、肉体労働の。
「なんで僕みたいな貧弱な人間が、あんな重い荷物を運ばなきゃならないんだよ……適材適所って言葉を知らないのかよ、あの上司……」
とか文句を呟きながら、独り、夜の住宅街を歩く。秋は本当に日が沈むのが早い。今日はずっと屋内の倉庫で段ボールに入れられた重い荷物を運び続けていたのだけれど、外に出たらもう日が暮れていた。はあ……青空が見たい。
なんてことを考えながら夜空の下を歩く。ゾンビみたいに。まあ、今の僕なんて半分死んでいるようなものだし、ゾンビで間違いない。だけど秋の夜にゾンビは似合わないなあ。ゾンビの似合う季節なんて知らないけど。
「あ、夕飯買うの忘れた。まあいいや、今日もカップ麺で……」
一日八時間の肉体労働をしたご褒美がカップ麺。なんて侘びしい夕飯であり、なんて悲しい二十七才だろう。大学時代の友人は皆んな結婚してるというのに、僕は未だに独り身だし。人生虚しいったらありゃしないよ。
「癒やし……癒やしはどこだ? 僕のことを癒やしてくれる人はいないのか? 救いの女神は存在しないのか? 運命の出逢いって、なにさ。都市伝説なのか? それとも、このまま女っ気のない人生を送るのが僕の運命なのか?」
だったら嫌なんですけど。そんな運命、全力で拒否だ!
ちなみにどうでもいい、ほんとーにどうでもいい情報だけど、小林も独り身である。というかアイツ、仮にプロポーズするときがあったら、そのときも自分のことを『余』って言うのかな。『余と結婚するがいいのですよ』、とか言うのかな。お相手は自分のこと『
「ああ、お腹すいた……心も空いた、満たされたい……」
とぼとぼと、歩く。腐乱したゾンビが歩く。食料を欲しながら。救いの女神が現れる未来に期待しながら。あー、とにかく早く家に帰ってシャワー浴びたい。汗を流したい。サッパリしたいよ。
「あれ? 響さんじゃないですか」
秋の夜に似合う、鈴の音のように透明な声。
そんな透明感溢れるころころした声で、背後で僕の名前を呼ぶのが聞こえた。
「あ、キミ」
「やっぱり響さんだ!」
振り返ると、そこには浅緑色のブレザーをまとった制服姿の女の子。白雪麗さんがいた。手にはこの前と同じ、原稿の入ったプラスティック製のハードケースファイルを持っている。
白雪さんは僕の顔を見るなり、へらっと笑ってこちらにとことこ寄ってきた。あー、やっぱりこの笑顔はいい。とっても素敵。癒やされる。すっかり汚染されてしまっている僕の心に染みていく。
「す、救いの女神様!」
「え!? す、救いの女神様ですか!? どこですか!?」
ヤバい、つい言葉に出してしまった。白雪さんはキョロキョロと周りを見渡して、その女神様を探しているようだった。まあ普通、まさか自分のことを言われただなんて思わないわな。
「えーと、響さん? 女神様なんてどこにもいないですよ? 幻覚でも見たんですか? というか、どうしたんですか? 顔、死んでますよ?」
「あー……ちょっと仕事帰りでね。え、そんなに僕の顔、死んでる?」
「はい、死んでます。アンデッド系の顔してます」
うう、ちょっとグサリときた。心に刺さる。さすがにこんな可愛い子に言われたら、そりゃダメージを食らうというものだ。ストレートに言われたから余計に。それにしてもアンデッド系って……。
「そうだよね……。ちなみに目は? やっぱり死んだ魚のような目をしてる?」
「死んだ魚のような目ですか? んー、そうですね、そうかもしれません。でも死んだ魚は通り越して腐ってるのでなんとも」
僕はガクッと肩を落とした。そこまで言いますか白雪さんよ。この子、素直で正直だから、たぶんそれが真実なんだろうけどさ。
「それはそうと響さん。先日は、本当にお世話になりました。あれから私、響さんに教わったことを思い出しながら原稿を描いているんです。ちょっとずつではあるんですけど、少しは漫画らしくなってきたかなあって」
深々と礼儀正しくぺこりと頭を下げてから、白雪さんは嬉しそうに言った。
「そうなんだ。僕みたいな奴が白雪さんのお役に立てて良かったよ」
「でもですね……なんていうか、頭では理解してるんですけど、いざ原稿を描くとなると、どうしても上手くいかない部分もありまして……」
「そっか、でも焦らなくてもいいと思うよ。白雪さんはまだ若いんだから、可能性はあるから。それこそ無限大に。これからどんどん上手くなるって。それじゃ」
「あ! 待ってください!」
一分でも早くカップ麺をすすりたかった僕は、早々に話を切り上げ、白雪さんに背を向けて手を振って歩き出そうとしたら、呼び止められた。もっと白雪さんと話していたい気持ちはあるんだけれどね。
「どうしたの、白雪さん?」
「あの、この前のお礼がまだだったので。漫画を教えてくれたお礼です」
「ううん、お礼は言葉でさっきしてもらったよ。それじゃ」
「あー! ちょ、ちょっと、なんでそんなに早く帰りたがるんですか!」
「なんでって、この顔見れば分かるよね?」
「……ま、まあ分かります。顔が死んでますもんね」
「そう、顔は死んでる。心も死んでる。だからオジサンは少しでも早く家に帰って、疲れを癒やして、明日に備えなくちゃいけないんだ」
そんな時、空腹に耐えきれなくなった僕のお腹が『ぐうーーー』と鳴った。その音を聞いて、僕が早く家に帰りたがっている理由が分かったみたいで、口元に手を当ててくすくす笑い出した。
「あははっ、なんだ、響さんお腹空いてたんですね」
「仕方がないだろ、昼だって今日はコンビニのおにぎりひとつだけだったんだ」
「お、おにぎり一個!? そんなんじゃ体壊しちゃいますよ! あ、でもお家に帰ったら奥さんが手料理作って待ってくれてる、とかですか?」
「僕なんかに嫁さんがいるわけないだろ」
まあ、そりゃそうだよね。高校生からしたら僕みたいなオジサンはとっくに結婚していて当たり前くらいに思っているんだろう。しかしだな、現実はそう甘くないのだよ白雪くん。現実は、厳しい。お嫁さん? 何それ美味しいの?
「じゃあ一人暮らしなんですか?」
「そう、一人暮らし」
「家に帰ってご飯は?」
「ある。カップ麺が僕を今か今かと待ってくれている」
「カップ麺!? お昼もおにぎり一個だったんですよね? ダメですよそんな晩ご飯! も、もしかして響さんって貧乏――」
「さすがにそこまで貧乏じゃないよ! お金持ちではないけどさ、食費のない27歳とか悲しすぎるでしょ!」
「そ、そうですよね。失礼しました。でも、せめて自分で栄養のある晩ごはんを作ってくださいよ」
「いや、もうそんな体力残ってないし」
それを聞いて白雪さんは困り顔。腕を組んでうーんと唸り始めてしまった。それから、「仕方ないなあ」と声を漏らす。なんかダメダメな子供を見る母親みたいになってるぞ、白雪さん。え? 僕、そんなにダメな子? デキソコナイ?
「じゃあ私が作ってあげます!」
「え、作ってあげますって何を?」
「何をって、ご飯に決まってるじゃないですか。晩ご飯です。この前のお礼もちゃんとさせてほしいですし、ぜひ響さんの晩ご飯を作らせてください!」
言って、白雪さんは困り顔からニッコリとした笑顔に変わった。
え、本当に? いいの? こんな僕に晩ご飯を作ってくれるというの? やっぱり救いの女神様なの? もしくは天使?
あ、でも僕の家、散らかりっぱなしなんだけど。いや、そもそもこんな夜遅くに、こんなに可憐な女子高生を男の一人暮らしの家に上げていいものなのか? というのが、僕の常識サイドからの問いかけである。
だけど、空腹でお腹ペコペコの僕の本能サイドは心の中でこう叫んだ。
『ヒャッホーウ! 手料理! 久しぶりの手料理にありつけるぞー!!!』
うん、本能には抗えないね。
「行こう! 帰ろう、白雪さん! そして僕に晩ご飯を作ってくれ!」
「はい! お任せください! 私、こう見えてもお料理得意なんです!」
僕は先程までよりも足取り軽く、家路に向かった。
その隣を白雪さんが一緒に歩く。
秋の夜空には月が顔を出し、手料理に喜ぶ僕と、お礼ができそうで嬉しそうな白雪さんを照らす。夜の空気は少し冷たく、ひんやりとしていた。
だけど、心は少し温かかった。
『第5話 白雪さんの恩返し』
終わり
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