第33話 気づいてしまった距離
キッチンから漂う野菜を炒める音と香りが部屋を満たしていた。繭はエプロンをつけ、手際よく具材を炒めている。浩太はその横で、少し離れた場所から眺めるだけだったが、その姿には自然と目が引き寄せられる。
「浩太さん、もうちょっとこっち来て手伝ってよ!」と、繭が振り向いて声をかけた。
「お前、俺に任せたら逆にキッチンが汚れるだろ。」浩太は肩をすくめながら答える。
「そんなことないよ!浩太さんがいるだけで、なんだか料理がもっと楽しくなるんだよね。」繭はにっこりと笑い、フライパンを軽く揺らして具材を転がした。その笑顔が、やけに眩しく思えた。
「…またそうやっておだてて、何か企んでるんだろ。」浩太は小さく笑いながら、カウンターに寄りかかった。だが、その一瞬の会話の中でも、自分の中に湧き上がる感情を抑えきれないでいた。
繭の無邪気さは、ただの隣人としての距離感を超えて、自分に踏み込んできているように感じられた。彼女の声、仕草、どんな瞬間でもその存在が鮮やかに心に染み込んでいくのだ。
「浩太さん?」突然、繭が手を止めてこちらをじっと見ていることに気づき、浩太は不意を突かれたように目をそらした。
「なんだよ。」とぎこちなく問い返す。
「今日はなんか変だね。大丈夫?」繭は心配そうな表情を浮かべる。その姿に、浩太は胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。
「…何も変じゃない。お前が余計なことを気にしすぎてるだけだ。」浩太はそう言いながらも、心の中では違うことを考えていた。
繭が自分の生活に入り込むことで、どれだけ自分が救われているのか。その明るさと無邪気さが、自分にとってどんなに大きな存在なのか。浩太はそれを認めるのが怖かったのだ。
「そっか。まあ、浩太さんがそう言うなら、いっか!」と繭は再び笑顔に戻り、料理を続けた。その姿を見ながら、浩太は一つ深いため息をついた。
「もしかして俺って…」浩太は言葉に出すことはなく、その思考を途中で打ち切った。彼女を見つめる瞳の奥に宿る感情が、自分でも理解できないほどに大きくなっているのを感じながら。
浩太は黙って料理を続ける繭をちらりと見た。無邪気な表情、鼻歌を歌いながら野菜を炒める姿。何気ない日常の光景のはずなのに、それがいつの間にか彼にとって特別なものに変わっていることに気づいていた。
彼女が最初に勝手に部屋に入り込んできたときは、ただ面倒な隣人だと思った。それが今では、繭の存在が部屋の空気そのものを変えてしまうほどにまでなっている。
「浩太さん?」繭の声が現実に引き戻した。「なんかぼーっとしてるけど、大丈夫?」
「ああ、なんでもない。」浩太は慌てて答えたが、彼の胸の中では繭に対する自分の気持ちが再び膨らんでいた。
「へー、なんでもないわりに、すごく考え込んでる顔してたけど。」と繭が覗き込むように言う。その言葉に、浩太は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「お前の料理がちゃんと食べられるか心配してただけだ。」とぶっきらぼうに返したが、それが完全なごまかしであることは自分が一番よく分かっていた。
繭は笑いながら「もう!失礼なこと言うな~!」と返し、料理を完成させた。「ほら、食べてみて!今日も浩太さんを元気にするスペシャルメニューだよ!」
浩太はその皿を見つめながら、小さくため息をついた。「お前に振り回されるのは本当に疲れるな。」そう言いながらも、口元には自然と笑みがこぼれていた。
ふと、彼は思った。繭はただの手のかかる隣人ではなく、自分の心を癒してくれる存在だと。日々の疲れや孤独感を、その無邪気な笑顔で和らげてくれる。もしかすると――浩太の胸の内に、言葉にできない感情が静かに芽生えていくのを感じた。
「本当にお前は、困った奴だな。」そう呟く浩太の声は、どこか柔らかかった。その声に気づいたのか、繭は得意げに笑った。「でしょ!でも浩太さん、私がいないとやっぱり寂しいんじゃない?」
「どうだろうな。」浩太は肩をすくめながらも、心の中ではその言葉を否定できなかった。
そして、静かな部屋に二人の何気ないやり取りが響き、浩太の心の中で繭の存在がますます大きなものになっていくのだった。
浩太は、ソファに腰を下ろしながらふと考えていた。繭が彼の部屋で楽しそうに笑っているその声が、どれほどこの空間を彩っているか。最初は単に手のかかる女子高生というだけの存在だった。自由奔放で、時には勝手に振る舞う彼女の姿に、戸惑いや疲れを感じていたのも事実だ。
だが、彼女がいない部屋を想像すると、その静けさが妙に重く感じられることに気づく。繭の元気な声が、この部屋にどれだけの明るさをもたらしているのか。彼の心の中で、彼女の存在が欠かせないものになっているのを、徐々に受け入れざるを得なかった。
「浩太さん?」繭がソファの向かい側に座りながら、こちらを見つめていた。「さっきから黙ってるけど、何か考えごと?」
「いや、別に。ただ…お前、本当に賑やかな奴だなと思ってただけだ。」浩太はなるべく平静を装いながら答えた。
繭はニコッと笑い、「賑やかなのは良いことだよ!浩太さん、静かなの嫌いでしょ?」とあっけらかんと言った。その無邪気な言葉が、浩太の胸にじんわりと染みた。
嫌いというわけじゃない。ただ、繭がいる部屋の静かではない空間が、いつの間にか自然だと感じている。心のどこかで、繭の存在に甘えている自分がいるのだと、浩太は自覚していた。
「本当にお前は、不思議な奴だな。」浩太はポツリと呟いた。
「え?何それ、褒めてるの?」繭が目を丸くして尋ねる。その姿が、なんとも愛らしく思える自分に驚きながら、浩太は微笑みを浮かべた。
「どうだろうな。ただ…まあ、お前がいても悪くないってことだ。」照れ隠しのようにぶっきらぼうに言うが、その言葉の裏には、彼にとって繭の存在がどれだけ特別なものかが隠されていた。
繭がいることで、浩太の生活には色がついていた。繭が部屋にいるだけで、その空間が生き生きとしたものになる。彼女の笑顔や無邪気な言葉が、自分をどれだけ救っているのか。浩太は、そんな自分に初めて気がついたのだった。
繭の存在とは、ただの隣人ではない。彼女は浩太にとって、疲れた日々の中で心を軽くしてくれる小さな光のような存在だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます