第16話 いざ出勤……ばれてねぇよな!ACT1

ほのかに鼻腔をくすぐるかのように珈琲の香りがする。


この香りをかぎながら目覚めるのは何年振りのことなんだろうか。

「ねぇ、もう起きない? それともまだ寝ていたい?」

薄っすらぼやける視界に懐かしい顔が覗き込んでいた。……友香。


「……うーん。まだ寝ていたい」

「そうなんだ。でも今日はものすごくいい天気なんだよ。早く起きないと今日一日と言うものを台無しにしてしまうかもしれないよ」

にっこりとほほ笑む彼女の顔を……。


そして気づく。もう友香は俺の前にはいないことを。


次第に視界がはっきりとしてくる。俺の目には繭の顔がまじかに映っていた。

「繭!」

「もうどうしたの? 早く起きないと会社遅刻しちゃうでしょ。珈琲もう出来ているよ」


俺が寝ているうちに繭は朝食の準備をしてくれていたらしい。言っておくが繭は俺の部屋に寝泊まりはしていない。ちゃんと自分の部屋で寝ている。一緒に夜を共にすることはない。これは暗黙の決まり事である。


じゃぁどうやってこの俺の部屋に入ったのか?

それは昨日のことである。


「あのさ山田さん」

「なんだよ」


「山田さんて朝何時くらいに起きるの?」

「うーん、そうだなぁ。7時くらいかなぁ」

「7時? それで会社間に合うの?」

「まぁ、顔洗って着替えてそのまま家出るだけだからな」

「朝食は?」


「まぁ、食わねぇな。会社行ってから缶コーヒー飲むけどそれが朝飯かわりかもな」

「駄目じゃん。朝ご飯はちゃんと食べないと! 私作るからちゃんと食べて行って」

「食べてって、俺が起きてからじゃ間に合わねぇじゃんか……」


「それじゃもっと早起きして」


「いやいや朝のあの時間は至福の時間じゃないか出来ることならもっと寝ていたいんだよ俺は」

「うーーーーーん困ったなぁ。じゃぁさぁ、ここの合いかぎ作ってくれない?」


「合いかぎ?」

「そう合いかぎ。私用の合いかぎ。それで私ここに来て朝食作って山田さんの事を起こしてあげるから」


そこまでしてもらわなくても。食事を作ってくれるという約束は俺の中では夕食のことだけだと言う思いであったが、繭は違っていたようだ。

「朝は大変じゃないか?」

「別に。私も朝食食べて行くし。ついでだよ」

繭は当たり前のように言う。


合いかぎねぇ。そう思いながら俺はリュックに忍ばせている大家からもらったこの部屋のカギを取り出した。


「しょうがねぇなぁ。それじゃ、作りに行くか」

なくした部屋のカギにはお気に入りのキャラのキーホルダーにつけていた。ガチャガチャ5回目で手に入れたものだった。手元にあるカギにはハズレキャラのキーホルダーをすでにつけていた。そのカギを繭は目にすると。


「あれぇ? そのキーホルダ―」

「どうした?」

「ちょっと待っててね」そう言って急いで自分の部屋に戻っていった。


戻ってきた繭の手には……俺がなくしたこの部屋のかぎ。俺のお気に入りのキャラのキーホルダーが付いたカギがあった。


「あ、それって」

「……やっぱりそうだったんだ」

「なんでお前が持っているんだよ」

「公園で山田さんが倒れた時、拾っておいて……忘れていた」


マジかよ! すぐに渡してくれれば俺……玄関前野宿て、あんなさむくてむなしいおもいなんかしなくたって良かったんじゃねぇのか。

「あはは、……ごめんね」そう言って繭はかぎを俺に手渡した。


一応確認のため鍵穴に差し込んで見ると見事にロックがかかり、ロックが解除された。間違いなく俺の部屋のかぎだ。

なんかもう笑うしかないなこりゃ。


と言う事で、もう一個のカギを繭に渡す事になった。

「大家には内緒だぞ」


「うん、分かってる。でさ、はいこれ私の部屋のスペアキー。私だけがもらっているのも不公平だし……山田さんの事は信じているから……下着あさったりしないって」

いや、そうじゃねぇだろ。もっとそのなんかあるだろ。とは思ったが口に出して言うことはなかった。


「じゃぁもしお前が、かぎなくした時の保険で俺が預かっておく」

「うん、それでいいよ」

お互いかぎの交換をしたわけだ。

そして朝、繭は朝食を作り俺を起こしてくれているという訳だ。


「ねぇ、早く起きて。もう6時半だよ」

「分かったよ。起きるよ」そう言って俺は繭に促されるまま布団から起き上がった。

「おはよう、山田さん」と笑顔で繭は俺に言う。その笑顔は朝日のようにまぶしかった。


そして、朝食を食べ終え会社に向かう準備をしている時だ。

「あ、そうそう山田さん」と繭が何かを思い出したかのように言う。


「なんだよ?」と俺が聞くと……。

「私ね、朝ご飯にだし巻き卵を作ったの」

食卓には卵焼きが乗っかっていた。


「山田さんてさぁ卵焼き、甘い派? それとも甘くない派? どっち」

「俺は断然甘い派だ」

「そうだよねぇ。卵焼き甘くないと美味しくないよねぇ。よかったぁ。この卵焼きお弁当にも入っているから」

お弁当? もしかして繭弁当まで作ってあるのか?


「はいこれが山田さんの分。そしてこっちが私の分」

大きめの弁当箱と少しこじんまりとした弁当箱が並べられた。


「繭今日は出かけるのか?」

「うん、学校にね。転校の手続きとかなんかあるんだよ。学校はさ春休み中に全部手続き終わらせたいらしいから。いかなくちゃ」

転校……そうかそう言う事情もあるんだなここに引っ越してきたのにも。

いろいろと複雑な事情と言うものが絡み合っていそうだ。あんまり詮索はしないでおこう。


「ああ、新学期からはまた2年生の始めっからだよぉ! しょうがないか」

2年生? 確か繭って18歳になったて言っていたけど。18歳なら3年生じゃないのか?


転校に加えてもう一度2年生て言うのは……これこそ訳ありだろ。

このことは聞かない方がいいだろうと思っていたが俺の口はもう一人の人格を持っているのかもしれない。


「繭、18歳のお前がどうして2年生なんだ。3年生の間違いじゃないのか?」

「あははは、そこ突くんだ山田さん。まぁ別にいいけどさぁ。私前の学校でちょっと不登校時期があってさ。出席日数足りなくなくなちゃったんだぁ。それに転校だし、心機一転、新たにまた2年生やることにしたんだよ。まぁそう言うことで私は18歳の高校2年の女子高生なのです」


「はぁ、そうなんですか」

「そうなんです」


ここまできっぱりと言われるともう何も返す言葉はねぇな。

もう黙っていた方がいい感じだろう。


「ま、そう言うことで私は学校に行ってくるから。後よろしくね」

そう言って繭は俺の頬にキスをした。


「な、なにすんだ!」と俺は繭に言うが繭はすました顔で玄関に向かう。

「えへへ、行ってきまーす」と言って手を振って俺の前から去って行った。


そんな姿を見送る俺……もうなんなんだよあいつ!  朝からキスなんかしやがって!  


そして俺は会社に行く準備を始めたのだった。


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