プロローグ
この家は意外と頑丈そうだ、と彼は思った。
塗装の剥げたドアは音を鳴らすが、天井や床に致命的な欠陥は見られない。備え付けの家具にも埃はなかった。
彼はオイルランプを机に置き、椅子に深く腰掛ける。
初めて訪れた地は、彼の生まれ育った町よりもずっと人が多くて栄えていた。王都ほどではないにしても人混みに紛れて暮らすのに適している。
これから質素に生きなくてはいけない。でも寝床はあるし、庭には小さな畑も作れる。仕事も斡旋してもらった。使用人も一緒に来てくれた。至れり尽くせりで怖いくらいだ。
もともと彼は貧乏な家庭で育ったため生活の質に不満はない。
伯爵は『ここなら安心だ』と言った。
あの人の言うことなら本当だろう。隣の家の住人は伯爵の知人で、困った時は力になると言ってくれている。
だからといって不安が消える訳ではないけれど。
「ベンジャミン」
落ち着きのある声で名を呼ばれて、彼は顔を上げた。豊かな黒髪を下ろして簡易な服を着た女性がドアの前にいる。眠る準備が整ったようだ。
恋を知る前も、知ってからも変わらない彼女は、いつも穏やかに微笑んでいる。どこにいても同じだ。彼女は不安という存在自体を知らないかのように、悠然と立っていた。まだ16歳の彼女より自分の方が10も年上だというのに……、と情けない気持ちになってくる。
椅子に座る彼は、ゆったりと近づいてくる彼女へ縋るような視線を向けた。
「あら、そんな顔をしないで。大丈夫よ。大丈夫」
彼女の指が頭に触れた。慈しむように銀の髪を梳いていく。
「私のためにありがとう」
いつも彼女はそう言うけれど、結局は自分のためなのに、と僅かな罪悪感を彼は抱く。
彼女のそばにいることで、彼の欲はいつでも満たされている。
それ以上を望むことなど考えたこともない。
今はまだ。
『必ず待てよ。待ちさえすれば成功したも同然だ』
故郷にいる友人の声が脳裏に浮かぶ。
ひどく横暴な性格をしているあの男は、それでも彼にとっては優しい友人だった。
視線を下げれば、目の前に垂れる白い腕。そっと手を取り滑らかな甲を唇でなぞる。
「おやすみなさいお嬢様」
「おやすみなさい、ベンジャミン。良い夢を」
彼の額に柔らかく温かいものが触れた。
間近で顔を合わせると、彼女はまるで泣き出しそうな顔で、それでも口角を上げていた。いつもの悠然とした彼女はいない。椅子から立って小柄な体を抱き寄せれば震えが伝わってくる。
もう眠らなくちゃ、と腕の中でつぶやく声。
その声に従った彼は腕を解く。
芸術品のように美しい顔は、すでに微笑みを取り戻していた。
彼女はしっかりとした足取りでドアを開け、自分の寝室へと帰っていく。
まだ引き留めてはいけない。
またその時ではない。
自分は頼りない人間だ、と彼は自覚している。それでも決意は揺るがない。
友人の優しさと彼女の心がここにあるのだから。
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