Wings to Fly…

瑞崎はる

第1話 【飛行艇と少年】

 北海上空。【シャハル弐号機】。乗組員二名。

 鬱屈とした鉛色の空は昏く厚く重苦しい。


 隣の大国【東エデン帝国】から屑鉄ガラクタとして下げ渡され、修理に修理を重ねて、ようやく飛ばせた旧式のオンボロ飛行艇は、日が翳り始めてから半刻は飛び続けている。そろそろ、燃料の残量が気になってくる頃合いだった。空軍の整備兵【アンジェ】は操縦桿を握る飛行兵【ルシェ】の背中に、ご機嫌を伺うようにおそるおそる声を掛ける。


「ルシェ君、そろそろ帰還しないかい?」


 所謂いわゆるエース操縦士パイロットのルシェは、アンジェより四つ年下の十五歳。花形の飛行部隊に所属し、階級を表す星は三つ。地味な整備部隊で星一つのアンジェより身分も地位も遥か上になる。兵隊の社会では星の数が全てだ。年齢よりも入隊時期よりも所属部隊や階級が物を言う。


「帰る? あの汚らしいごみ溜めにか?」


 ルシェは吐き捨てるように答える。彼の背中側にいるアンジェからは見えないが、くっきりした目鼻立ちの綺麗な顔をした少年は、不機嫌そうに眉を寄せ、形のいい唇を歪めているに違いない。


 …また、始まった。


 アンジェは心の中で呟き、小さくため息をつく。ルシェは空が好きだ。否、国が、軍隊が、人が、現状が…嫌いなだけかもしれない。かくいうアンジェも、これから帰ることになっている所が好きかどうかと問われると、決して好きではない。ルシェの方は死んだ母親をうっすら覚えているらしいが、アンジェは物心がつく前、自分でも覚えていない頃から、ずっと【ソドム共和国軍】にいる。家族を知らない。他の世界で生活したことがない。でも、ずっと息苦しさを感じている。


 ―――――此処ではない。何処か遠くへ。


 天才とうたわれた飛行少年ルシェに抜擢されて、一緒に空を飛ぶようになってから、その想いは否応なしに増していった。空は広い。空は美しい。そして、自由だ。でも…


「気持ちはわかる。でも、燃料が保たない。墜落するよ」


「クソッ」


 ルシェは続けざまに悪態をついたようだったが、何を言ったかまではわからない。それは周囲に立ち込める灰色の雲に呑まれて消えた。


「どうして人は鳥のように飛べないんだろう。俺にも翼があればいいのに」


 ひとしきり感情を吐き出した後、ルシェは静かにちた。ああ、そう。いつものことだ。俺たちの恒例。


「翼、欲しいよね」


 アンジェが少年兵の背中に向かって呟くと、そんなに大きな声ではなかったのに、ルシェの耳には届いたらしい。「俺、翼があれば何もいらない」と言った。


 ―――――純粋に。一途に。求める。空を。


 美しくも真摯な天使のような彼には、きっと白い翼が似合うだろう。翼をはためかせ、大空をどこまでも飛んで行くのだろう。一瞬、脳裏に浮かんだ突き抜けるような空の青と、白い鳥になった少年は泣きたくなるくらいに自由で…美しかった。




 ✴✴✴


 腹が減っては戦はできぬ。

 いや、違うか。とにかくガス欠では飛べない。

 燃料切れで墜落するおそらく数秒前に、二人を乗せた小さな飛行艇は海軍分屯基地前の海面に大きく弧を描き、ド派手に水飛沫を飛ばしながら着水することが出来た。


「あのさ、毎度のことなんだけど。ヒヤヒヤさせないでくれる?」


 飛行艇の底面が水の衝撃を感じるまで、全く生きた心地のしなかったアンジェは傍らの少年を睨んだ。燃料が0エンプティを超えてからというもの、アンジェはメーターを振り切った燃料フューエルゲージをただ祈るように見つめるしかなかった。


「大丈夫だって。スピード落ちてたけど、エンストしなかったろ」


 ルシェはニヤリと口端をつり上げて、悪びれる様子もなくのたまった。


 …は? 何を言う。


 そもそもエンストしてたらアンジェもルシェも、今、ここにいない。真っ逆さまに墜落して、あの世行きだ。アンジェは思わず「今すぐ死んで来い、この飛行オタクのアホウドリめ」という言葉が出かかったのを寸前で呑み込んだ。仮にも上官に向かって、無遠慮な罵詈雑言を浴びせるわけにはいかない。たとえ、ルシェ本人が「俺の方が年下だし、タメでいいって」と、二人の間で敬語は無しになった経緯があるとはいえ、さすがに容赦ない悪口まで許してくれないだろう。アンジェは仕方なく別の事柄で苦言を呈する。


「だいぶ前からエンジンは変な音してたし、機体だってガタガタ震えてたよね」


「アハッ。やっぱ気づいてたか。いや、でも、あれはまだ限界って感じじゃなかった。武者震い程度のガタガタだったから、もうちょい行けるかな、って」


 もはや言っている意味がわからない。機器の一つ一つ、部品の一つ一つをを目で見て、触って確認し、寸分の狂いがないように精密に仕上げるアンジェに対し、理屈ではなく研ぎ澄まされた感覚と勘を頼りに機体を制御するルシェは水と油のように性質が異なる。思わず大きなため息をついたアンジェを見て、ルシェは「スマン。空が名残惜しくて。つい」と、とうに隠せていない本音を漏らしてきた。


「この機体はボロいから、エンスト前に空中分解するかもしれないよ」


「俺、飛びながら死ねるなら本望」


「僕も一緒に天に召されるんだってば、このバカ」


 勢いで歯に衣着せぬ言い方をしてしまったが、ルシェは何故か嬉しそうにしていた。こうやって素直に笑っていると、この爆撃王の異名を持つ恐るべき天才少年は年齢よりもずっと幼く見える。アンジェはそんなルシェを大切に想っていた。弟のように。雛鳥のように。



 アンジェは無駄口を切り上げると、休む間もなく海上に停めたシャハル弐号機の整備に取りかかる。とにかく、古くて危なっかしいエンジンがどうなっているかが心配だった。一方のルシェは義務付けられている幹部への報告には行かず、手持ち無沙汰な様子で、すぐ近くの砂浜に腰を下ろして、アンジェの仕事ぶりをぼーっと眺めていた。


「ここで油売ってていいのかい?」


 アンジェが問うと、ルシェは聞こえなかったふりをした。


「報告が遅れるとお叱りを受けるよ」


「…」


 都合が悪くなると、ルシェはだんまりを決め込む。二人の今回の任務は単機での偵察だった。飛ぶことにかけては右に出る者のいないルシェは、爆撃も偵察もお手のものだ。派手な爆撃任務は何機撃ち落としたかで注目を集めて騒がれるが、偵察はアンジェと二人だけで淡々とこなす地味な任務だ。けれど、ルシェは爆撃よりも偵察の方を好んで引き受けている。


 …ま、偵察の方が危なくないからな。


 戦果に貢献した兵士として脚光を浴び、出世し、幹部へ登り詰めることを目指す者も多いが、整備兵であるアンジェの技能は出世向きではない。それに、アンジェは痛い目や苦しい目に遭うのは真っ平御免だった。しかし、ルシェは危険で難しい任務をこなし、華々しい成果を挙げた最年少の幹部候補として、何度も名前が挙がっている。それにも関わらず、どうも出世コースを避けているふしがあった。


 …命が惜しいような性格ではなさそうだけど…?


 アンジェにルシェの考えはわからない。ただ、ルシェの容姿と若さをかんがみれば、おそらく出世するには必ず通らなければならない道がある。ルシェの潔癖で自由な性格からすると、力で屈服させられるのが我慢ならないのかもしれない。しかし、そこを通り過ぎて幹部にさえなってしまえば、苦労することはなくなる。アンジェはルシェにはさっさと幹部に登り詰めて欲しいとさえ思っていた。


 …幹部と親しければ、何かと便宜を図ってもらえる。


 以前、アンジェは懇意になった幹部のお陰で、星一つへと昇格させて貰えた。星無しと星持ちでは、食べ物も部屋も扱いも何もかもが違ってくる。まぁ、多少の人権無視と搾取に目をつぶることはあったが、親を亡くし、金も力も才もない子供が生き延びることが出来たのなら、まだマシな方か。何せ、この国は神の見捨てた頽廃の地。悪と欲の代名詞【ソドム】なのだから。


 …奴はもう死んだけどさ。


 その幹部に何があったかは知らない。まぁ、敵国と殺り合うだけではなく、国内でも争いは起こる。幹部や政治家同士での血腥い権力交代や下剋上もよくあることらしい。古今東西、国が、人種が、宗教が違っていてもいなくとも、人が集えば上下優劣を競い、利権を奪い合う。戦争はどこにでも起きる。そんなものだ。

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