隠された痕跡
「影山君、そろそろ起きたらどうだい?」
頭を軽くポンと叩かれる感覚で、知紘は目を覚ました。周囲からは嘲笑の声が飛び交い、軽蔑の視線が知紘を刺し、息苦しさを覚える。
「私の講義中に昼寝とは、君はなかなか度胸がいいですね」
おそるおそる顔を上げると、犯罪心理学の准教授、夏目雪生(なつめゆきお)が、言葉とは裏腹に知紘を見下ろしていた。若くして准教授となった夏目は、普段は穏やかだが、怒らせると怖いことで有名だ。今、知紘はその実体験をしている。夏目の視線には氷のような蔑みが宿っていた。
「すみません……」
「とりあえず出席にはしておきます。その代わり、講義の内容を書いたレポートを今日中に提出するように」
「えっ!」
「何か問題でも?」
「いえ、ありません……」
視線を机に戻すと、目の前にハンカチが手渡された。再び顔を上げると、「涙」と夏目が言った。手の甲で目を擦ると、指摘された通り涙が頬を伝っていた。
「そんなに強く擦ったら目を痛める。これを使いなさい」
先ほどの氷のような視線とは真逆で、温かみを感じる瞳に、少しばかり驚いていた。黙ったままハンカチを見つめていると、夏目はそっと机に置き、講義の終了を告げた。生徒たちが一斉に立ち上がった。その騒音が、これは現実世界だと知紘に告げていた。
さっきのは夢だったのだろうか。あまりにもリアルで、夢とは到底思えない。
考えを巡らせていると、突然左手首に激痛を感じ、身震いした。袖をあげると、手首の周りが青あざになっていた。いつ、どこで、どうやってぶつけたのだろうか。いや、誰かに掴まれた瞬間の恐怖が蘇る。夢の中での出来事が頭の中をちらつき、手首に残る感覚がそれを裏付けるようだった。
急に肩を叩かれ、思わず体を震わせた。
「ごめん、驚かして。なんかすごい深刻な顔してるから……。えっ、なにそのアザ?」
隣を見ると知紘の親友、矢島遼(やじまりょう)が心配そうな顔をしていた。アザが残った手首を見ようと、顔を近づけてくる。
「どしたのこれ?」
「わからない……起きたら、アザになってた」
「なんかすげぇ痛そうだし、顔色も悪いぞ」
アザのある手を優しく触れながら、遼は心配そうに続けた。
「医務室に行こうぜ、俺が付き添うから」
「だ、大丈夫だって。それにレポート書かなきゃだし……」
グイッと腕を持ち上げられ、自然と立ち上がった。
「なに言ってんだよ! レポートよりも知紘の方が大事だろ!」
遼の真剣な眼差しに、知紘はこくんと頷いた。
遼とは小学校からの幼馴染で、いつも知紘を気にかけてくれる。遼いわく、知紘はほっとけないタイプらしい。
医務室への道すがら、知紘は講義中に見た夢を遼に聞かせた。
オカルト好きな遼は、目を輝かせながら『それは前世の記憶に間違いない! 知紘が前世で英雄だったらかっこいいじゃん!』と力強く断言した。
かっこいいかは別として、前世の記憶――。非科学的で、果たして夢だけで判断して良いのだろうか。その反対に、自分が見た夢と手首についたアザをどう説明すればいいのだろうか。
遼と大学の廊下を歩きながら、窓の外を見ると秋晴れの空が広がっている。心がざわついているときは、一層のこと外へ飛び出して、何もかも忘れてしまいたくなる。
「そういえば知紘の誕生日ってもうすぐだよな? 今年はどうする? 海にでも行く?」
「えっ、あっ……海はちょっと」
「ごめん……さっき話してくれた夢だと、海に落ちて意識がなくなったんだよな……」
「……」
ごめんを繰り返す遼に「気にするな」とは言ったものの、夢のことが蘇る。横顔に遼の視線を感じながら、兄に謝りたいと思った気持ちは本当だ。冷たい海の感触が蘇り、恐怖が胸の奥から込み上げてきた。
「知紘は謝りたいんだろ?」
「えっ?」
「ほら、さっき言ってたじゃん、夢のこと」
黙ったまま頷いた。
「だから、探さない? そのおにーさんのこと」
「え、探すって。同じ時代とは限らないだろ?」
「あ、そう? でも気になるじゃん。じゃあ、レポート終わったら、事件のこと調べてみようぜ」
なぜかやる気満々の遼を見ていると、可笑しな気持ちになった。二人で顔を見合わせて笑った。知紘の心には、遼がいることへの感謝が溢れていた。
==
遼を図書館に残し、知紘は夏目准教授の研究室へレポートを持っていった。外はすでに陽が落ちて、キャンパスは人影も少なく、風が少し冷たい。足早に研究室へ向かいと、偶然にも先生が部屋から出てくるところだった。
「遅かったね。もう少し早く来ると思ってたよ」
「すみません!」
ポストに入れて帰るつもりだったが、せっかく来たのだからと部屋へ案内される。テーブルにつくよう促され、先生はお茶を淹れ始めた。
ティーカップが目の前に置かれ、立ち上る湯気から紅茶の芳醇な香りが漂う。夏目先生が知紘のレポートをめくりながら、穏やかな口調で言った。
「これで単位を落とさずに済みましたね、影山知紘君」
その言葉に知紘はほっとするが、同時に背筋が少し寒くなる。レポートをテーブルの脇に置くと、先生は顔の前で手を組み、真っ直ぐに知紘の顔を見つめた。しかしその視線はどこか別の場所――まるで自分の背後に吸い込まれていくように感じた。振り向きたい衝動に駆られるが、冷たい空気が体を固め、動けなかった。
「……あと、先生から貸していただいたハンカチは洗ってお返しします」
「いい」
「え?」
「君に差し上げる、と言っているんだ」
「でも……」
「返さなくていいよ、気にしないで。いらなければ、捨ててしまっても……ふっ、冗談だよ」
「……あ、……はい」
「君の好きにするといい」
夏目先生はつかみどころのない人だ。それでも見た目は年相応に格好良く、女生徒の間で人気が高い。ハンカチを貸してくれたなんて知ったら、どんな目で見られるか分からない。
部屋に漂うほのかな茶葉の香が知紘の緊張を和らげたが、口の中はカラカラに乾いていた。紅茶を一口含むと、飲みやすい温かさが心をほぐしてくれる。
ちらりと夏目先生の手元を見ると、ティーカップの音もさせずに丁寧に持ち上げ、口元へと運んでいる。その仕草に知紘は釘付けになった。先生のすらりとした細くて長い指も綺麗だと思ってしまう。
先生の瞳が眼鏡越しにくるっと知紘を捉え、口元が弧を描いた。じっと見つめているのがバレて、少しバツが悪くなる。心臓の鼓動が早鐘を打つ。普段ならこんなに緊張しないのに、どうして今日は特別なのだろう。
「手首……大丈夫かい?」
袖を下ろすのを忘れたせいで、手首のアザが顕になっていた。
「え、あ、これ……」
まだアザの残っていた手首を、先生が優しく撫でる。その瞬間、知紘の背筋がゾクっと震えた。その動作に気づいた先生が、眼鏡越しに上目遣いで見てくる。知紘の手先がビリビリと痺れて、鼓動が早鐘を打つ。
「そういえば、今日の講義で――」
「すみませんでした!」
先生からの視線を逃れるように、知紘は額をテーブルにつくくらい頭を下げた。それにも関わらず、顎を指で持ち上げられると、目の前には先生の暖かな瞳があった。よく見ると彼の瞳は緋色で、妖艶なほど美しい。
「もう泣いてないんだね」
「……はい」
じっと見つめる瞳に、顔が火照り始める。胸の鼓動が強まり、呼吸が少し浅くなった。先生の視線に釘付けされ、まるでその場に閉じ込められたように感じる。
鼻先がふれるくらい顔が近い。心臓の鼓動が高鳴るのと同時に、廊下から自分の名前を呼ぶ遼の声が聞こえた。
「影山君は――」
「知紘! 迎えにきたぞー!」
ドアが勢いよく開き、遼が入ってきた。ナイスタイミング、と知紘は心の中でつぶやき、とっさに夏目先生と距離を取る。迎えに来てくれたことで、緊張していた肩の力が少し抜けた。
「あ、夏目先生! いらしたんですね。こんばんは」
「矢島君、ごきげんよう。ここは私の研究室だからね。君も遅くまで勉強かい? 熱心だね」
「えっ、まぁ……」
はぐらかす遼と、ふふっと笑いながら余裕のある夏目先生が対照的だ。そういえばさっき、先生は何を言おうとしていたのだろう。
「知紘、大丈夫か? なんか顔色悪いぞ」
考えごとをしていた知紘に、遼が心配そうに声をかけてくる。
「うん、大丈夫。ちょっと疲れていただけだよ」
「そっか、ならいいけど……」
遼は不安げな表情を残しつつも、それ以上は何も言わなかった。
「……じゃあ、夏目先生、僕はこれで失礼します。お茶、ご馳走様でした!」
「またお茶を飲みにおいで。待ってるよ」
おじぎをし、顔を伏せたまま、研究室を後にした。「待ってるよ」という言葉が胸に刺さる。さっき先生の顔が近くにあったことを思い出し、顔が熱くなってくるのを感じた。もしあのまま二人だけだったら、どうなっていたのだろう。考えまいとして、頭を横に何度も振った。
後ろでドアの閉まる音がして、駆け足で遼が近づいてきた。
「先生と何を話してたんだよ」
「別に……大したことじゃないよ」
「ふーん」
遼との会話を適当にこなしながら、廊下を歩いていく。今日はいろんなことがありすぎて、何も考えたくない。講義中に寝てしまい、奇妙な夢を見て、その夢の後にできたアザ。そしてなぜかいままた、夏目先生の視線が心の奥底に焼き付いて離れない。
知紘はこれから何か起こる予兆なのだろうかと漠然と思い、帰路へ急いだ。
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