第一章 浮遊

不穏な波

 大学2年生の影山知紘(かげやまちひろ)は、海で溺れかけたことがきっかけで、悪夢を見るようになった。


 深い眠りの中で体験するのは、奇妙な夢。自分ではない誰かの人生を追体験しているような感覚だが、その感情は確かに自分のものとして心に響いてくる。展開される出来事は、まるで遠い記憶のように自分を取り巻いていた。


 **


 知紘が振り返った瞬間、耳にしていた音――一人暮らしのアパートから聞こえる音が一瞬で消えた。何かが変わった。まるで、世界からすべての音が奪われたかのように。


 ――そして、目の前には見知らぬ双子が遊んでいた。


 二人は一卵性双生児で非常によく似ていたが、瞳の色は違っていた。


 兄は紫色の瞳、弟は琥珀色の瞳を持っていた。その神秘的な輝きに似た宝石がベビーベッドに飾ってあった。


 赤子の双子は、いつも手を繋いで寝ていた。特に弟は、兄が隣にいないとすぐに泣き出した。二人はまるで魂の片割れ同士のように、お互いを必要としていた。


 夢の中の双子は、3歳になった。


 兄は、その頃からすでに特別だった。集中力が高く、理解力も優れていて、幼稚園に入る前にはすでに読み書きを習得していた。彼の知的で神秘的な紫の瞳が、本のページを真剣に追っていた。


 それに対して、弟はのんびりとした性格だ。勉強は得意ではないが、人懐っこさが魅力だった。彼の太陽のように輝く琥珀の瞳が、母親や周囲の人々を惹きつけ、溢れんばかりの愛情を受けていた。


 二人が幼稚園に入ると、少しずつ変化が生じ始めた。兄は本を読むことに没頭し、一人で過ごす時間が増えていった。弟は友達と園庭で遊ぶことが多く、笑顔を振りまく存在だった。


 その光景を夢の中で見つめながら、知紘はなぜか弟の視点に引き込まれていった。


 ある日、弟は園庭で友達と遊びながら、ふと兄の姿を探した。兄はいつものように一人で本を読んでいた。その姿に少し寂しさを感じた弟は、兄に声をかけた。


 「一緒に外で遊ぼうよ!」


 何度も誘った末、兄はとうとう折れて、弟の手を取って園庭に出てきた。知紘はその瞬間、兄の表情から複雑な感情を垣間見た。兄としての優越感と、弟に付き合う煩わしさ。その両方が、紫の瞳を揺らしていた。


 双子は他の子供たちと隠れんぼを始めた。


 弟が鬼になり、兄と友達が隠れる。最初は楽しげに走り回っていた弟だったが、兄だけがどうしても見つからなかった。必死に兄を探し回り、ついに涙が溢れ泣き出した。その瞬間、木の上から兄が飛び降りてきて、弟の頭をそっと撫でて抱きしめた。


 「泣かなくていいよ。俺はここにいる」


 その言葉に、弟の心は温かくなり、涙を拭った。だが知紘は、兄の瞳に何かしらの影を感じ取った。それが何なのかは理解できなかったが、この出来事が双子の間に見えない壁を作ったのだと直感した。


 ある日、弟は兄の部屋に入り、机の上で何かを描いている姿を見つけた。


 大きな画用紙には、海辺の風景が広がっていた。しかし、兄の描く風景は弟の目には不思議に映った。真上から見た視点で描かれた絵は、弟自身が見たものとは異なっていた。


 兄が見ていない隙に、弟はクレヨンを手に取り、絵にそっと手を伸ばした。その海に自分の記憶を加えたかったのだ。だがその瞬間、兄の声が部屋に響いた。


 「何をしてるんだ!」


 怒りに満ちた声で、兄は弟を突き飛ばし、クレヨンを床に投げ捨てた。弟は勢い余って頭を床にぶつけ、泣き声をあげた。その音に驚いたのか、両親や使用人たちが駆けつけてきた。


 兄は涙を流す弟に向かって冷たく言い放った。


 「お前なんて大嫌いだ!」


 弟はその言葉にショックを受け、泣きながら叫び返した。


 「僕だって、お前なんて大嫌いだ!」


 だが、弟の胸の中にはすぐに後悔の念が湧き上がった。兄を傷つけるつもりはなかったのに。知紘は夢の中で、その感情が自分の心にも強く響いてくるのを感じた。


 その後、双子は会話を交わすことなく、距離を置くようになった。


 弟が兄の部屋に入っても、すぐに追い出された。食事の席でも兄は先に立ち去り、弟を待つことはなかった。幼稚園でも、双子の間にはかつてのような親密さが失われていった。


 その変化を見ていた大人たちは、悲しそうな顔をしていた。どうにかして、二人を仲直りさせようとしていた。


 しかし、双子の六歳の誕生日が近づいていたある日、いきなり夢の世界は暗転した。


 知紘は、暗い淵に落ちていった。助けを呼ぼうにも声が出ない。そして何かが自分に近づいてくる感覚があった。次の瞬間、何かが起こる——。


 **


「わぁ!」


 知紘は突如ベッドの上で身を起こした。


 息が荒く、額には汗が浮かんでいた。かつて体験したことのない不思議な感情が胸に渦巻いていた。まるで、見知らぬ誰かの人生を垣間見たかのように。


 「今のは……一体?」


 夢と現実の境に迷いながら、再びベッドに横たわり、眠りに落ちた。


 **


 夢の世界は暗闇に包まれていた。


 薄暗く冷たい床の上で、双子は目を覚ました。家で寝ていたはずなのに、周囲は見知らぬ場所だった。


 兄は状況を把握しようとしているのか、冷静に周囲を見回していた。弟は潮の香りが漂っているのに気がついた。ふとパジャマのポケットに手を入れると、そこには赤ん坊の頃から持っていた宝石――アメトリンのお守りが入っていた。母親がくれたそのお守りは、幼い頃から「これを持っていれば何があっても守ってくれる」と教えられていた。


 「大丈夫か?」


 兄の声は落ち着いていた。いつぶりだろう、優しく話しかけられたのは。弟の胸には安堵が広がり、同時にこれまで抑えていた恐怖が襲ってきた。


 「僕……こわい」


 泣きそうになる弟を、兄は優しく抱きしめた。頬にキスをし「心配するな」と言った。涙は止まり、兄の温もりで救われた気持ちになった。


 「うん、大丈夫。○%♯は?」


 「俺も大丈夫」


 二人は自由に動けることを確認し、周囲を調べ始めた。


 この部屋の天井は低く、無機質な壁に囲まれていた。閉塞感を覚えるほどに狭く、ほこりっぽい空気が漂う。鍵のかかった木の扉。家具と呼べるのもは一切ない。ふと壁の上部にある小さな窓から、わずかな光が差し込んでいるのに気づいた。弟が兄の肩に乗って窓を覗こうとた。しかし、光が眩しすぎて何も見えない。


 兄の問いに、弟は首を振る。


 「何も見えないよ」


 双子は静かに囁き合った。


 その時、扉の鍵穴の回る音が響いた。とっさに兄は弟に目で合図し、双子は急いで床に伏せた。寝たふりをしながら、部屋に入ってくる足音に耳をすませた。男たちの低い声で会話が始まった。


 「坊ちゃんたちはまだ寝てんのか?」


 「さっさと連れ出せ!」


 「手足を縛ったほうがいいんじゃないか?」


 「傷つけるわけには、いかねえだろう」


 息を潜めていたが、兄が不覚にも小さくうめいてしまった。それに気づいた一人が、兄を乱暴に引っ張り上げた。


 「このガキ、起きてるぞ!」


 その瞬間、兄は弟に向かって叫んだ。


 「逃げろ!」


 弟は飛び起き、扉へと駆け出した。しかし部屋の外で、別の男に捕まり、再び狭い部屋に引き戻された。兄は怒りを滲ませた目で弟を捕まえた男を見つめ、苦しげに声を絞り出した。


 「……あんた……どうして。あんた※@∃♪だろ?」


 弟は驚いて、男を見上げた。双子が知っている人だった。いつも優しく接してくれていた人が、今、冷たい眼差しで双子を見下ろしている。その変貌ぶりに弟は恐怖を感じた。


 「理由を訊いてどうする?」


 男は嘲笑を浮かべながら続けた。


 「君たちが邪魔なんだよ」


 「弟は関係ない! 俺だけを連れていけ!」


 兄の声は冷静だった。大人を相手に取引を提案する。自分が家を継いだら、財産をすべて男に譲るという内容だった。


 「お前……さすがだな、天才児」


 男は満足そうに笑いながら仰け反った。


 兄は隙を見逃さなかった。男の脛を蹴り上げた。痛みに呻く声を振り払うように、兄は弟の手を引っ張りながら、全速力で走り出した。


 双子は狭い廊下を走り抜ける。兄は周囲の物を倒し、敵の進行を阻むように必死に立ち回った。その姿はまるでテレビで見たヒーローのようで、頼もしく感じた。


 「先に行け!」


 兄の叫び声に応じて、扉に向かって駆け抜けた。外に出られるかもしれない——そう思った瞬間、足が空中に浮いた。


 「えっ?」


 突然の感覚に、意識は混乱した。目の前に広がるのは青空。しかし、その青空はすぐに水面に覆われ、体は深い海の中へと落ちていった。


 目の前の光が次第に遠ざかる。兄と一緒に泳いだ夏の日が頭をよぎった。兄が描いた絵を思い出す。


 そうだ、あの事を謝らなくちゃ!


 息苦しい中、ポケットの中からお守りを取り出した。淡く光を放つ石に、心の中で祈った。


 「お願い……もう一度会いたい……一緒にいたい……」


 その言葉を最後に、弟は静かに意識を手放した。


 **


 知紘の名前を呼ぶ声が聞こえ、突然、現実が叩きつけるように戻ってきた。


 まぶたをうっすら開けると、冷たい汗が額を伝っていた。腕を掴んでいた手の感覚がまだ残っている。


 本当にここは、現実なのだろうか。

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