第1話

1話 緑の公主様


 ――朝からなにやら騒がしい。この後宮のはずれの恒春宮にも途切れ途切れに女官たちのさざめくような声が今日はやたらと聞こえて来る。萌麗は補修もされずに放置され崩れかけている壁から外をそっと覗いた。


「まあ、人がこんなにたくさん早朝から忙しそうに」


 萌麗は壁から手を放して、庭に戻った。そんな萌麗の耳に微かな音がする。振り向いた先には一株の牡丹があった。


「あ……良かった。咲いたのね」


 他の株よりも少し遅れて育ち、水やりを工夫したり日陰を作ったりと苦労した牡丹がようやく咲いたのだ。萌麗は枯れずによく咲いた、と嬉しくなった。この恒春宮は粗末でボロボロであるが、中庭はおそらく後宮のどの宮よりも素晴らしいものだった。これらの木や花を育てたのは萌麗である。


 ここは稀の国。大陸一の大帝国である。そしてこの国の皇帝の住まう宮殿……の後宮の外れの恒春宮。冷宮か、と見間違えるくらい寂れたその建物に住んでいるのは、半分存在を忘れられている先帝の十三番目の末子の公主、楊萌麗ようほうれいである。


「さあお水をどうぞ」


 かつて寵姫であった母はすでになく、後ろ盾もない彼女を人々が思い出す時は正式な名でも雅称でも無く『緑の公主様』と呼ばれている。なぜなら今年十六歳の彼女はこの素晴らしい庭にも負けぬ、ぬばたまの黒髪、梅のつぼみのような唇をしているのに、普段から飾り気のない服装で年がら年中土いじりばかりしていたからだ。


「公主様! またそのような薄着でお庭に!」


 咲いたばかりの牡丹を眺めていた萌麗は、その大声に振り向いた。そこにいるのはこの恒春宮でただひとりの女官、陽梅ようばいである。


「大丈夫よ。こんなところ、誰もこないわ」

「そうじゃありません。風邪ひきますよ」


 陽梅は羽織り物を持ってとてとてと駆けてきた。


「陽梅も難儀よね。こんなあばら屋みたいな宮にたった一人配属されて。他の宮なら沢山女官がいるでしょうし」

「嫌みな先輩や同輩が居ないというのも悪くないですよ。まあそうお思いなら、早く部屋へ戻ってください」

「ええ」


 元々ここには母の代から居た年老いた女官が一人いた。彼女が引退したあとにやって来たのは女官になりたての陽梅だった。年の頃は萌麗より三つ下くらいである。元気で明るい陽梅を萌麗は内心妹のように思っていた。


「朝から随分と外が騒がしいわ」

「当り前です! 今日は天帝の使者が来られるのですから」

「あら……今日だったかしら」

「そうですよ。公主様も晩の宴に呼ばれているのですから準備をいたしませんと」

「晩の宴でしょ……今は朝よ」


 萌麗がそう言うと、陽梅は深く深くため息をついた。


「宴には着飾ってお化粧もしませんと……ただでさえ日頃のお手入れがですね……」

「はいはい。とにかく朝餉にしましょう。お腹すいたわ」


 くどくどと陽梅のお説教が始まる前に、萌麗はそう言って椅子に座った。


「ああ、そうでした。用意して参ります」


 陽梅が厨に向かった後、萌麗は一人この大騒ぎの始まりのことを思い返していた。宮中の広場に突然稲光が落ち、そこにいたのは自らを龍人と名乗る少年であった。その少年は天帝が地上に落としたものを探す為にこの国に使者を使わすと言って消えた。それがひと月前。天帝を祖神として祀るこの国で天帝の使いが来るとは大事である。


「神たる天帝の使者が参るとは吉兆、宮中をあげて到来を祝い、使者どのを厚くもてなすこと」


 この事態にそう皇太后がお触れを出した。しかし萌麗は知っている。そうおふれが出たのは、皇太后の横に常にいる東方朔とかいう怪しげな道士の耳打ちによってのことだと。


「あれが来てからだわ。全てがおかしくなったのは……」


 稀は大陸の大国である。煩わしきは北方の異民族であった。その戦勝祈願にいつのまにかいたのがその道士である。以来、戦は連戦連勝。そこまでは良かったのだが、気が付けば皇太后が政治の実権を握り、萌麗の異母兄にあたる皇帝はお飾りの存在となっていたのだ。


「そう思っても私は何も出来ない……か……」


 萌麗は子供の頃、何度か兄……今の皇帝と遊んで貰ったことがある。まだ、父も母も存命の頃だ。当時の第一王子であった彼は聡明な少年だったと記憶している。


「なのにいつもあんなにぼんやりして……どうしてしまったのかしら」


 そう思っても立場の弱い萌麗は何も言い出すことが出来なかった。自分には後ろ盾が何も無い。母は元は女官で、その美しさから父に見初められ妃獱に取り立てられたのだ。そうして生まれた萌麗であったが、先帝の父の亡き後はなんの力も無かった。うるさく言えばどこか遠くの国にでも嫁がされるのがオチである。


「お母様……私は役立たずね」


 萌麗は部屋に飾ってある、母の形見の琥珀の宝玉に語りかけた。語りかけたところで、どうにかならないものか、と萌麗はそう願うことしか出来なかった。

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