タンスの中で黒猫は笑う

黒猫の旅人

第1話

 タンスには取っ手がある。引くと、たくさんの物が入っている。きっと、風呂場のタンスにはたくさんの服が敷き詰められているのだろう。それなのに、ぼくは何も知らなかった。ずっと、妻に任せていたから。ぼくは洗濯もしないし、掃除をしていなかった。



 ぼくは全てを妻に頼っていた。

 それなのに、昨日、彼女は旅行に出かけてしまった。



「旅行は一週間ぐらいよ」

 と、妻は言っていた。


 

 否定をすることもできなかった。

 ぼくはそれを受け入れていることにした。






 今日、二日目になる。

 

 朝がやってくる。

 洗面台で蛇口をひねると、顔を洗うことにした。



 やはり、服を着替えなくてはならない。仕事があるからだ。きっと、タンスの二段目にタオルがあるはずである。取っ手を引っ張ることにした。タンスを開けると、何故か、そこには黒猫が眠っていた。


 うわっ、猫じゃないか、と、とっさに声を出してしまった。

 猫が飛び出して、部屋を歩いていた。


 ぼくは猫を見つめながら、体を震わせてしまった。どうしてこんな場所に猫がいるのだろう。ぼくは猫が苦手である。蕁麻疹が浮かんでいた。いままで、妻が猫を飼っているなんて知らなかった。



 きっと、妻は隠していたのだろう。



 ただ、どうして旅行へ連れていかなかったのだろうか。いや、ぼくがタンスを開けるなんて、彼女は想像できなかったのかもしれない。家事なんてしたことがなかったし、タンスだって開けることすらなかった。



 毎日、ぼくは妻の意見に従っていた。



 すると、以前から、妻は猫をタンスに隠していたに違いないと思っていた。そう思ってみたけど、ぼくは困ってしまった。ぼくは猫は苦手である。捕まえることなんて、できるはずがなかった。タンスからタオルを取り出すことができなくて、洗顔した濡れた顔を拭うこともしないで、慌てて二階に駆け上がってしまっていた。


 

 どうしたらいいのだろうか…。



 一階には猫が歩いている。



 ぼくは時計を見つめていた。とっさに、自分の部屋に戻ってきたけど、すぐにでも会社に行かなくてはならなかった。



 ぼくは階段を下りることにした。

 


 キッチンまで来ると、猫は尻尾を振りながら、テーブルの下を歩いていた。それを見ると、ぼくは不快になっていた。



 彼女は猫を飼っていた。



 毎日、ぼくが会社に行ってから、猫は家の中を歩いていたことだろう。信じたくはなかった。しかし、それは事実でしかなかった。ぼくはキッチンのドアを閉めると、居間にある背広を取って、急いで着替えることにした。体がそわそわしていた。背広になると、遅刻しそうな振りをしながら、ぼくは自分の家を出ることにした。もう、自分の家にいたくはなかった。



 電車に乗ると、ぼくの体は震えていた。



 心臓の動悸が治まることはなかった。自分の家のことを考えていた。あの猫をどうするべきだろうか。追い出してしまいたい。しかし、そんなことをしたら、妻は怒るはずである。いや、そんなことはできるはずがない。妻に連絡をするべきかもしれない。なのに、妻は携帯を持っていなかった。現代において、稀有けうな存在である。それが妻であった。だから、どうすることもできなかった。なので、ぼくが悩んでいた。



 会社に到着しても、冷静ではなかった。

 仕事をしていると、別の部署にいる同僚の声が聞こえてきた。

 ぼくの前にやってくる。


「君、結婚をしていたんだってね。まったく知らなかったよ…」

 と言っていた。


 確かに、ぼくは女性にもてなかった。

 同僚からしたら、ぼくが結婚をしているなんて信じることができないらしい。

 だから、こんな話をしてくるのだろう。




「ああ、話をしていなかったからね~」

 と、ぼくは言った。


 ぼくは冷静になろうとしていた。



 それよりも黒猫のことである。


 全然、同僚に嫌味を言われても、ぼくは平気であった。だから、同僚に関わるつもりはなかった。それなのに、同僚は暇であるらしく、妻のことを質問していた。まったく面倒なことである。デスクのパソコンを動かしながら、同僚と話をしていた。30分が過ぎて、やっと、同僚がいなくなっていた。



 椅子にもたれながら、黒猫のことを考えていた。



 妻がいたとしたら、黒猫の対応をしてくれるかもしれない。しかし、一週間は戻ってこない。そう思うと、自分の家に帰りたくなかった。それでも、夜の8時を過ぎると、ぼくは自分の家に戻ることにした。


 革靴をコツコツと音させながら、商店街にあるスーパーで総菜を買うことにした。料理をできないから、仕方のないことだろう。それに、家には黒猫がいるのである。ああ、妻に文句を言いたくなってきた。しかし、妻は携帯電話を持っていないのだから、連絡をすることもできなかった。そう思いながら、駅前を歩いていると、会社の後輩であるY君の姿を見つけていた。


 Y君の姿を見ると、ぼくは笑顔になっていた。



「やあ、Yくんじゃないか」

 とっさに、ぼくは手を上げていた。



 不思議なものである。



 いつもであったら、挨拶をすることもない。親しげなふりをして、Y君と話をすることにした。これも黒猫のせいである。彼であったら、黒猫を退治してくれるかもしれない。



「先輩、どうしたんですか?」


「ああ、今日は、妻が旅行に出かけていてね。暇になっているんだよ。もしも、君が暇であったら、ぼくの家に来ないかと思ってね」


「珍しいことですね…」


「まったくだね。どうかな。来れるかい?」


「そう言われても…」



 そう言うと、Y君は時計を見つめていた。それから、時間がありませんから、今日は無理だと思います、と言っていた。ぼくは会社に、仲の良い同僚などいなかった。頼りになる人間でもない。きっと、当然のことだろう。Y君は後輩でありながら、ぼくを見下してすらいるのかもしれない。なのに、怒ることすらできなかった。わかったよ、と言うと、ぼくは駅に戻ることにした。



 電車に乗って、自分の家に戻ることにした。

 真っ暗な場所から、駅のホームに電車が走りこんでくる。最後まで、悩んではいた。だけど、ぼくは電車に乗り込むことにした。



 普段と変わらず、いつものように電車は走り出していた。

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