タンスの中で黒猫は笑う
黒猫の旅人
第1話
タンスには取っ手がある。引くと、たくさんの物が入っている。きっと、風呂場のタンスにはたくさんの服が敷き詰められているのだろう。それなのに、ぼくは何も知らなかった。ずっと、妻に任せていたから。ぼくは洗濯もしないし、掃除をしていなかった。
ぼくは全てを妻に頼っていた。
それなのに、昨日、彼女は旅行に出かけてしまった。
「旅行は一週間ぐらいよ」
と、妻は言っていた。
否定をすることもできなかった。
ぼくはそれを受け入れていることにした。
◇
今日、二日目になる。
朝がやってくる。
洗面台で蛇口をひねると、顔を洗うことにした。
やはり、服を着替えなくてはならない。仕事があるからだ。きっと、タンスの二段目にタオルがあるはずである。取っ手を引っ張ることにした。タンスを開けると、何故か、そこには黒猫が眠っていた。
うわっ、猫じゃないか、と、とっさに声を出してしまった。
猫が飛び出して、部屋を歩いていた。
ぼくは猫を見つめながら、体を震わせてしまった。どうしてこんな場所に猫がいるのだろう。ぼくは猫が苦手である。蕁麻疹が浮かんでいた。いままで、妻が猫を飼っているなんて知らなかった。
きっと、妻は隠していたのだろう。
ただ、どうして旅行へ連れていかなかったのだろうか。いや、ぼくがタンスを開けるなんて、彼女は想像できなかったのかもしれない。家事なんてしたことがなかったし、タンスだって開けることすらなかった。
毎日、ぼくは妻の意見に従っていた。
すると、以前から、妻は猫をタンスに隠していたに違いないと思っていた。そう思ってみたけど、ぼくは困ってしまった。ぼくは猫は苦手である。捕まえることなんて、できるはずがなかった。タンスからタオルを取り出すことができなくて、洗顔した濡れた顔を拭うこともしないで、慌てて二階に駆け上がってしまっていた。
どうしたらいいのだろうか…。
一階には猫が歩いている。
ぼくは時計を見つめていた。とっさに、自分の部屋に戻ってきたけど、すぐにでも会社に行かなくてはならなかった。
ぼくは階段を下りることにした。
キッチンまで来ると、猫は尻尾を振りながら、テーブルの下を歩いていた。それを見ると、ぼくは不快になっていた。
彼女は猫を飼っていた。
毎日、ぼくが会社に行ってから、猫は家の中を歩いていたことだろう。信じたくはなかった。しかし、それは事実でしかなかった。ぼくはキッチンのドアを閉めると、居間にある背広を取って、急いで着替えることにした。体がそわそわしていた。背広になると、遅刻しそうな振りをしながら、ぼくは自分の家を出ることにした。もう、自分の家にいたくはなかった。
電車に乗ると、ぼくの体は震えていた。
心臓の動悸が治まることはなかった。自分の家のことを考えていた。あの猫をどうするべきだろうか。追い出してしまいたい。しかし、そんなことをしたら、妻は怒るはずである。いや、そんなことはできるはずがない。妻に連絡をするべきかもしれない。なのに、妻は携帯を持っていなかった。現代において、
会社に到着しても、冷静ではなかった。
仕事をしていると、別の部署にいる同僚の声が聞こえてきた。
ぼくの前にやってくる。
「君、結婚をしていたんだってね。まったく知らなかったよ…」
と言っていた。
確かに、ぼくは女性にもてなかった。
同僚からしたら、ぼくが結婚をしているなんて信じることができないらしい。
だから、こんな話をしてくるのだろう。
「ああ、話をしていなかったからね~」
と、ぼくは言った。
ぼくは冷静になろうとしていた。
それよりも黒猫のことである。
全然、同僚に嫌味を言われても、ぼくは平気であった。だから、同僚に関わるつもりはなかった。それなのに、同僚は暇であるらしく、妻のことを質問していた。まったく面倒なことである。デスクのパソコンを動かしながら、同僚と話をしていた。30分が過ぎて、やっと、同僚がいなくなっていた。
椅子にもたれながら、黒猫のことを考えていた。
妻がいたとしたら、黒猫の対応をしてくれるかもしれない。しかし、一週間は戻ってこない。そう思うと、自分の家に帰りたくなかった。それでも、夜の8時を過ぎると、ぼくは自分の家に戻ることにした。
革靴をコツコツと音させながら、商店街にあるスーパーで総菜を買うことにした。料理をできないから、仕方のないことだろう。それに、家には黒猫がいるのである。ああ、妻に文句を言いたくなってきた。しかし、妻は携帯電話を持っていないのだから、連絡をすることもできなかった。そう思いながら、駅前を歩いていると、会社の後輩であるY君の姿を見つけていた。
Y君の姿を見ると、ぼくは笑顔になっていた。
「やあ、Yくんじゃないか」
とっさに、ぼくは手を上げていた。
不思議なものである。
いつもであったら、挨拶をすることもない。親しげなふりをして、Y君と話をすることにした。これも黒猫のせいである。彼であったら、黒猫を退治してくれるかもしれない。
「先輩、どうしたんですか?」
「ああ、今日は、妻が旅行に出かけていてね。暇になっているんだよ。もしも、君が暇であったら、ぼくの家に来ないかと思ってね」
「珍しいことですね…」
「まったくだね。どうかな。来れるかい?」
「そう言われても…」
そう言うと、Y君は時計を見つめていた。それから、時間がありませんから、今日は無理だと思います、と言っていた。ぼくは会社に、仲の良い同僚などいなかった。頼りになる人間でもない。きっと、当然のことだろう。Y君は後輩でありながら、ぼくを見下してすらいるのかもしれない。なのに、怒ることすらできなかった。わかったよ、と言うと、ぼくは駅に戻ることにした。
電車に乗って、自分の家に戻ることにした。
真っ暗な場所から、駅のホームに電車が走りこんでくる。最後まで、悩んではいた。だけど、ぼくは電車に乗り込むことにした。
普段と変わらず、いつものように電車は走り出していた。
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