第2話

一章 1  電脳世界のウラシマ


 視界はクリアだった。いや、クリアすぎるというべきか。空気感、というのか遠方のボケ感が不自然な気がするけれど、注意して見なければ気にならない。

(うわあ。本当の世界と変わらないとまでは行かないけれど、これは……)

 そんなことを思うほどに、実感のある世界。電脳世界というにはあまりに普通な、知らないどこかの駅前風景。駅前のバスターミナルの屋上は庭園になっていて、花壇の真ん中には花時計まである。

 カラフルな花々の模様のパターンが少ないことにさえ目をつぶれば、すごくリアルだった。

「あ、いたいた。お兄ちゃん、こっちだよ」

 声のほうに振り向くと、義妹の比奈子が手を振っている。その頭上に知人、家族を示すアイコンが表示されていなければ現実世界とほとんど区別がつかない。

 仕事についた年齢にふさわしい、ビジネス向けのスーツ。女性らしい優美なラインを演出しつつも、明るいグレーの布地がきりっとした印象だ。肩から提げるバッグの大きさがいかにもビジネスだった。

(うお、デキる美女、ktkr)

 自分でも馬鹿なことを考えていると思うが、そんなことを考えて意識を逸らさないと、目の前の女性に圧倒されてしまいそう。

 八歳年下のはずの比奈子が二十歳。少年の時間は十八歳のまま止まっているので、義妹より年下になってしまったことになる。

(眼鏡、すっごい似合ってるけど……昔はかけてなかったのに)

 知的な落ち着いた印象を演出している眼鏡はフレームが主張しないデザインだけれど、逆にかすかに着色されたレンズがメガネっ娘を強調している。

 栗色の髪は後ろで結ってすっきりと軽快にまとめている。ちょっと気弱で、繊細な顔立ちの少女はキリリとしたビジネスウーマンになってしまっていて。

(ぼくなんかより……大人なんだな……比奈子……)

 視線に気づいたのか、こちらを向いた大きな目が嬉しそうに細められた瞬間、眩しいくらいの笑顔が浮かんだ。

「どうしたの? お兄ちゃん。見とれちゃった?」

「お、おう。すっげー綺麗になったなー、て思ってさ」

 自分とほとんど背の高さが変わらないほどに成長した彼女の姿には違和感を禁じ得ないけれど、にこにこ、というよりはにぱにぱ、という感じの、邪気のない笑顔は記憶のままだった。黙っていれば清楚な、繊細な感じの美少女なのに、笑うといきなり締まりがなくなるのが比奈子たった。

「ホント? 嬉しいけど、お兄ちゃんおだてるの上手だからなー」

「いや、マジ綺麗だと思うぞ。うん」

 これは本心だった。首をかしげてこっちを見ている義妹に微笑みかけてやると、ようやく本気度が伝わったらしい。

「あ……」

 鳶色の瞳が大きく丸くなった。色白なので目元のあたりが赤くなったのがわかる。こんなところも昔のままだった。

「うふふー。がんばったかいがあったなー」

 胸の前でぎゅっと手を握りしめる様子が少女のようだった。そうすると、昔の細っこい身体からは信じられないほどに女性らしく発達した胸のふくらみが強調されて、思わず視線をそらしてしまった。

「がんばったの?」

「そりゃそうよ。アバターだって手をかけてあるもの」

 メガネをケースに入れて、バッグにしまうとふんふーん、と一瞬だけの鼻歌。口元も緩んで幸せそうな得意顔は、懐かしい記憶の中での笑顔と同じだ。

「それじゃあ、行こう。お兄ちゃん」

「メガネはなくていいの?」

 病室で彼女のことがわからなかった原因の一つは、眼鏡だ。久が人工冬眠に入る前の義妹はまだ眼鏡をかけていなかった。

「電脳世界じゃ必要ないもの。ファッションでする人もいるけど」

「そりゃそうか」

「くすくすっ。それじゃあ会場に向かうよ」

「ああ、頼むよ」

「はあい」

 清楚な、大人しげな顔に、妙に締まりのない笑い顔。普通にしていればかなりの美女のはずなのに、笑い顔の無警戒さは子供のころと変わらない。

(やっぱ……ヒナなんだなー)

 見違えるほどに大きく綺麗になっても、やっぱり変わらない。それに安心すると同時に、自分が変わっていないことに居心地の悪さを感じる。

 ぱっ、と手が差し出された。期待に満ちた表情に苦笑しながらその手をにぎる。昔とは全然高さは違うけれど、柔らかな感触は心地よい。「嬉しいな。夢みたいだよぉ。お兄ちゃんは?」

「あ、ああ。もちろん嬉しいさ」

 遺伝性の、非常に例が少ない病気ということで、原因や治療法がわからないままふさいでいたころを思い出す。こうして、たとえ電脳空間であろうとも普通に出歩けるようになるなんて思ってもみなかった。「夢みたい、か」

 地面を踏む感覚、足音。ほとんど現実と変わらない。

「すごいな、電脳空間。現実と変わらない気がする」

「くすくすっ。そうね。でも、現実のお兄ちゃんは病院にいるんだよ」

「ああ。頭じゃわかっているけど。なかなかなぁ」

 電脳世界への接続は初めてだ。治療と平行して接続手術もされていたため、最低限の研修で電脳世界への接続、『ダイブ』が可能になっていた。

「こうして見ていると本物みたいだけど、触れられないし」

 手を伸ばしてみたけれど、花壇の花には手を触れられない。その下の地面は固く、土ではなくコンクリートみたいだ。

「触りたいなら、設定を変えないとだめだよ。重くなるけど」

「触れるの? どこの設定?」

 自分の頭上に意識を向けると、メニューが開かれた。設定、電脳空間設定のメニューの奥にあることは想像がつく。

「体験のメニューの自然環境のところを詳細に設定するの」

「へえ……なるほど。ここだな」

 詳細の上にも二段階ほど設定があるが、開発者専用と書かれたボタンがグレーアウトしていた。

 詳細のボタンを押した一瞬の後、視界がグレードアップした。具体的にどこが、とは言えないけれど、何かくっきりとした気がする。目を近づけると、なるほどおしべやめしべなどもはっきりわかる。データが高解像度化されたらしい。

 触ると、茎の弾力とかすかな冷たさが伝わってくる。

「花を折ってもいい? 」

「できるけど、悪事ポイントがついちゃうよ」

「悪事ポイントって何?」

「マナーのよい人、悪い人がわかるようになっているの」

「ふーん」

 花から手を離した久は設定をもとに戻した。特に動作が遅くなった感じはないけれど、必要がなければデータは小さい方がいい。

「ええとね、こんな感じだよ」

 比奈子の眼前のメニューにポップアップしてウインドウが表示される。そこには花壇の花を手折った様子が動画で再生され、同時に文章も表示されている。面白いのは、花を摘むとその花を手にもてるのに、折ったはずの花がなくならないことだ。

「なるほど、花を折るとその花を入手できるけど、花壇の花はなくならないんだね」

「うん。クールタイムゲージがゼロになるまで花が摘めなくなって、あと花は特にアクションがなければじきに消えちゃうよ」

 ほかにも、細かい情報がある。現在の場所が公共施設、都市公園であるためであり、これが自然公園であれば花を摘んでも悪事ポイント……正確にはアライメントゲージが増減したりはしないらしい。

 よく見てみると、ビルの窓や家の壁、模様などに繰り返しが多く、データを節約しようとしていることがわかる。三次元データの上に貼り付けられた『テクスチャ』のパターンはそれほど多くないため、繰り返しがわかってしまうわけだ。

「ちょっと待って、試してみたいことがある」

 もう一度設定を詳細にしてみると、パターンが気にならなくなった。花や植木に同じものがなくなり、雲も同じものがなくなっているみたいだ。

(詳細にするとフラクタルでパターンを作るんだ。なるほど)

 自然な画像を生成することのできるフラクタル型プログラムが実用化されたのは随分前だが、リアルタイムでこれほどの高精細な画像を生成しているのは驚きだ。

「お兄ちゃんは相変わらず設定マニアだなー」

 比奈子がくすくす笑っている。

「設定は大事なんだぞ。うん。だいたいわかった」

 各種設定は、できるかぎり把握しておくのが久の主義だ。プログラミングなどはまずは現状、つまり設定を把握できなければお話にならない。

「それじゃあ、お兄ちゃん。体験設定を通常にしてくれる?」

「ああ。はい、設定したよ」

 比奈子のアイコン表示がめまぐるしく変わった。アクション表示が設定、グループ、勧誘と変化し、目の前に『北見比奈子からグループに誘われました。はい・いいえ』が表示される。

 『はい』を選択すると、二人の間に薄い光の帯のようなものが表示される。これがグループの表示らしい。

「自動グループの標準にしてね。それじゃ、移動しようか」

 追加メニューで自動グループをオンを選択するといくつかのメニューが選べるようになった。パートナー、仕事、家族、親子、友人などだ。

 比奈子の頭上のアイコンにリーダーを示すマークが追加された。

「ボタンを押したら移動するから、拒否しないでね」

「ああ、わかった」

 駅舎に向かう比奈子のあとを自動でついていくのは奇妙な感覚だった。オンラインゲームであったような気もするが、電脳世界での自動移動は歩いている感覚もあるだけに不思議な感覚だ。

「個々が転送ゲート。どこでもドアみたいな感じね」

 駅舎のエレベーターと思ったら、転送プラットフォームと表示されている。見た目はビルにあるエレベーターにそっくりだ。

 ボタンを押して中に入り、ドアの開閉ボタンを押す。そうすると、内部の行き先表示がプルダウン表示で一気に広がった。

「それじゃ、行くよ」

 細い指先が選択したのは、財団日本支部。ここで親しい人たちがお祝いしてくれるのだそうだ。久の眼前に承認を求めるウインドウが出たので承認ボタンを押す。

 電子音と、一瞬の暗転の後、扉が開くと、塀で囲まれた公共建築物のようなイメージの建物の目の前にいた。エレベータのような転送プラットフォームから出た少年が振り返ると、大きな電話ボックスのような、エレベータ入り口のような建物が道路からいきなり立っている。「お兄ちゃん、行くよー」

「お、おう」

 足を速めて比奈子に並ぶ。横目で見る彼女は記憶の中では肩ほどの身長で、手足は細くて折れてしまいそうだったのに。今の義妹は女性としては背が高い方で、体つきも女性らしく発達している。

(本当に綺麗になった、な)

 ネットからさらった知識をもとに、横目で比奈子のアバターを観察する。かなり精細なデータで、本人の再現度はとても高いようだ。さすがに本人の肌の透明感というか、肌質までは再現されていないが彼女の繊細な印象は十分に再現されている。

 もともと顔立ちの整った女の子だったが、成長した彼女は兄より大人になっていて。

(アバターの技術もすごく、進んだんだなあ。本当に)

 今のアバターは二人とも現実の自分をもとにした標準データだ。これは本人確認などのためもあって、必ず作成することが義務づけられている。ただし、アバターは基本的にはどんなものを使ってもよいので、男性が女性型のアバターを使ったり、女性が男性のアバターを、大人が子供のアバターを使うことも問題ない。

 実際、アバターとしてファンタジーの魔法使いそのものや軍服姿を選択する人もいる。ただし、標準以外のアバターの場合はそれを示すアイコンが表示される。

 それでも、かなりの人が標準アバターを利用しているのが実情だった。イベントの時などは手軽なコスプレとして使えるので怪獣、ヒーローの博覧会のようにカオスになるのがお約束らしい。

(ふう。アバターだとわかっていても、ドキッとするなあ)

 少年の慣性も十代のまま止まっている。綺麗な女性と並んで歩いているというだけで心臓がバクバクと反応してしまう。

(ヒナがこんなに綺麗になったのもびっくりだけど……)

 久は、目が覚めてからのことを思い返していた。怒濤の二週間だった。時間をかけてのリハビリは、筋力などを維持する処置があったため、心配するほどではなかったけれど。やはり今浦島太郎というわけで、覚醒直後は大混乱の連続だった──。

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