11

 スマホをポケットにしまい、玄関に入ると、正面にあるリビングで一息つく祖母が、「お茶飲むかい?」と急須を持ち上げる。


「あとで飲むよ。しぐれは?」

「しぐれちゃんは部屋へ行ったよ」


 朝晴はそのまま右手の廊下を進む。しぐれの部屋は一階にある。庭を望める東の部屋だ。


「しぐれ、ちょっといいか?」


 閉まるふすまに声をかける。


「何?」


 奥からつっけんどんな声が返ってくる。どうも、虫の居どころが悪そうだ。


「買ってきたんだろ? 俺にも見せてくれよ」

「なんで?」

「まだあんまりよく見てないからさ。なあ、ちょっとだけ」

「ちょっとだけだよ」


 仕方ないなぁ、とばかりの返事がかえってきたから、朝晴は「入るぞ」と声をかけ、ふすまを開ける。


 しぐれは車椅子を降り、ベッドの端に腰かけていた。ひざの上に、大きめの額縁がある。朝晴は床の上であぐらをかき、額の中をじっと見つめるしぐれを見上げる。


「八坂さんから聞いたよ。しぐれの気持ちをわかったような気になって、余計なこと言って申し訳なかったって謝ってたよ」


 単刀直入にそう切り出す。


「さっきの電話って、切り雨さん?」

「心配してかけてきたんだよ」

「そっか……」


 頼りなげな表情でつぶやく。


 しぐれだってわかってるのだ。家族以外の前ではいつも明るく振る舞っているのに、未央にあたってしまったのは、甘えが出たってことに。それは、彼女に気を許している証拠だろう。


「取り乱したりして、情けないよね……」

「俺だってさ、同じこと思ってるよ。しぐれが生きててくれてよかったってさ」


 事故の一報を受けたときは、珍しく動揺した。どんな状態であろうと、生きててくれと願ったものだ。さいわい、大きなケガはないと聞いて、心底ホッとした。立ち上がれないと知ったときは、代われるものなら代わりたいと思った。それはあたりまえに、誰だってそう思うことだ。


 未央は以前、知人を交通事故で亡くしたと言っていた。ただの勘だが、あれはきっと、かなり親しい知人の話だったに違いない。彼女は本心からしぐれを励まそうとしたのだろう。


 苦しそうにぎゅっと目を閉じるしぐれに、未央だって苦しいはずだと伝えるのは酷な気がして、朝晴は黙って見守る。


「……もうずっとだよ。少しもよくならない」


 ピクリとも動かない足先を見つめて、しぐれは声を絞り出す。


「一生、このまま動かないかもしれないのに、生きててよかったなんて言われたら、この苦しみなんか何にもわからないくせにって、憎らしくなって……」

「俺も、綺麗事を言ったな」


 生きててよかったと思うのは、こちら側の気持ちでしかない。しかし、誰もしぐれの気持ちを理解するなんてできないのだから、やはり、言えるのはそれだけだったのだ。


「お兄ちゃん……」


 しぐれは首を左右に振る。


「ほんとうに憎いわけじゃないよ。励ましてくれてるのはわかってる。素直に受け取れない自分が嫌だっただけ」


 未央だって、励ましを受け入れてほしいとまで思っていないだろう。思いを伝えただけだ。現に、言葉に乗せきれない思いは、作品を通じて、以前からしぐれには伝わっていたはずだ。だからこそ、しぐれは『名残の夕立』に魅了された。


 バイクを描いた切り絵に、しぐれは細い指を滑らせる。


「もう全部、いい思い出に変えようって覚悟して買ったのにね」


 ぽつりとつぶやく。


「そうだな」

「なんでかな。この切り絵を見てるとね、大丈夫だよって言われてるみたいな気持ちになるんだよね」


 しぐれの言いたいことはよくわかる。切り雨へ行くたびに体感する思いだ。未央の作品は優しさに満ちている。疲れていても、明日もがんばれるような気がするし、穏やかな気持ちにもなれる。


「これがあれば、何もかも全部、うまくいくような気がしたんだよ。だから余計に、手鼻をくじかれて腹が立ったんだ」


 悔しそうにしぐれは言う。


 わだちで立ち往生しかけたことにショックを受けていたと未央から聞いたが、一人では何もできない自分にいらだったのだろう。


「誰だってさ、すぐにはうまくいかないもんだよ」

「お兄ちゃんも?」

「もちろん。新しいことを始めるのは誰だって不安だし、勇気がいる」

「いっつも苦労してるように見えないじゃん」

「たまたま教員が向いててラッキーだったんだよ。まあでも、器用だからな、俺は」


 生きることに向き不向きがあるとしたら、俺は向いてる方だろう。しぐれはちょっと不器用だが、その分、周りに助けてもらえる才覚がある。だから、なんとかなるよと伝えたかったのだが、冗談に聞こえたのか、しぐれはあきれたように笑って、庭へと目を移す。


「名残の夕立ってさ、夏の終わりに降る雨なんだよね」

「ああ」


 清倉の夏は、ある日の雨を境に秋へと変わる。その時期はもうすぐそこまで来ているだろう。


「毎年、ちゃんと夏は終わるんだよね」

「そうだな」

「このタイトルには、つらいことは必ず終わるって意味があるのかなって思ってて」


 しみじみとしぐれは言う。


「八坂さんの作品は奥深いよな。そういう意味があってもおかしくないとは思う」


 優しくて物悲しい未央の作品を知れば知るほど、喜びは見つけられず、彼女が何に悲しむのか、知りたくなる。しかし、悲しみから立ちあがろうとする健気さも感じられるから、大丈夫だと思える。


「あれから、征也くんには?」


 朝晴は久しぶりにその名前を口にした。けんか別れしたわけではないと知っているが、しぐれが彼を許しているのかどうかわからなかったからだ。


「実はさ……、友だちを介して、連絡ほしいって言われてるけど、いいの、会わない」

「いいのか?」


 しぐれは悩むように少し沈黙したあと、ため息をつくように吐き出す。


「征也の生きてる世界に戻るのはきっと苦しいから、もういいんだ」


 事故から4年が経つ。今さら会っても、以前のような仲のいい恋人同士には戻れないだろう。だけれど、兄として、征也ならしぐれを幸せにしてくれるんじゃないかと希望を持って過ごしてきた。しぐれが彼との決別を決めたなら、何も言うことはないだろう。


「清倉に来たこと、後悔してないならいいよ」

「それはお兄ちゃんでしょ」

「俺は後悔なんてしてないさ」


 肩をすくめると、しぐれは意味ありげな目をする。


「切り雨さんに出会えたしね」

「なんだよ、それ」

「私はね、切り雨さんに会えてよかったよ」


 どこか吹っ切れたように言う。


「そうか」

「うん、そう。なんでだろうな。あの人は誠実な世界に住んでる感じがするからかな。初めて会ったときから、同じ世界に生きてみたいって、なんか思ったんだよね」


 別れた恋人よりも、あこがれる人に出会えたってことだろうか。身も心も美しい人。そういう言葉が似合う未央にあこがれを抱くのは不思議じゃない。


「なんとなくわかるよ」


 そう言うと、しぐれは茶化すように言う。


「わかるってなにー?」

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