第3話

 

 蛇蝎が、こういう俳号を名乗っているのは、若いころに精神を病んで、少し頭のおかしい女に突然求婚をして、「あんなに嫌いな人おらんねー!顔もきもい…」とか、さんざんにののしられて、トラウマになっていて、で、「蛇蝎のごとくに嫌う」という比喩の言葉を冠したのだ。


 そういう例は多々あり、二葉亭四迷は、「くたばってしまえ」とののしられたので、それを筆名にした。中村草田男も、「腐った男」といわれたのを俳号にしたらしい。つかこうへい氏の筆名は、「いつか公平」で、在日コリアンだったからだそうだ。


 トラウマをてこにして、創作に生かしているという作家は多い気がする。

 自分にとってもっとも切実な外傷体験、虐待とか、失恋、別離…そういう悲劇的な記憶は普遍的なものとして昇華されやすく、そうして切実なだけに共感や感動を訴えやすくなるのだと思う。「人生の如実な真実」が、表現、露呈されるのだと思う。

 ゲーテの「ウエルテル」しかり、テネシーウィリアムズの「欲望という名の電車」もそうである。


 蛇蝎が”穭田”を見物に?出かけた日は、秋の、ぽかぽかした「小春日和インディアンサマー」だった。

 駅を出て、4,5分歩くと、昔懐かしい、片田舎のありふれた田園風景が広がっていた。


 「寒風は吹きすさんでいるが…日差しは案外暖かいな。オレはあんまり秋が好きじゃないんだ。秋も冬も、陰気臭いし、死斑とか、加齢臭を連想するよ。三島みたいに50になる前に死にたいとか思っていたっけ… なにしろ死を連想させるようなもの は、避けたくなるのが人間の性だよな?」


 「でも、秋の寂しい感じを愛でる人もいるなあ、ワビ、サビとかもそういう懐古趣味というか、”もののあわれ”というのか…を称揚する老人趣味だな? エロスの逆にタナトスがあるとか、そういうことかな?」


 黙想にふけりながら、秋の苅田を歩いている蛇蝎氏は、ちょうどメガネに白い鼻下髭の、よく流布している志賀直哉のポートレイトを髣髴する感じだった。


 「ヴェルレーヌという昔の詩人の有名な一節、 ”秋の日のヴィオロンのため息の~”は、タイトルを「落葉」と、上田敏は翻訳してたけど、原題はもっとシンプルで、「秋の歌」といったらしい。「巷に雨の降るごとく わが心にも雨ぞ降る」というのもあった。「四季の歌」だと、秋を愛する人は心深き人、で、愛を語るハイネのような恋人、となっている。ハイネ?あんまり知らんなあ…」


 とりとめのない黙想を連綿と続けているうちに、昔読んだ「ユリシーズ」を連想していた。


 「実験小説の嚆矢・ユリシーズか…だから個人的なきわめてなんだか下世話でくだらない気もするテーマやから、かえって壮大な叙事詩のタイトルを皮肉っぽい感じで付けたんかな? ユングのいう補償作用というか、そういう精神の働きは無意識的になんにでもある気がするな? で、それが精神の健康には不可欠で、で、精神が病気の人は、治癒してくると、曼荼羅とか、水晶球みたいなイメージの夢を見るとかいう。元型で言うと、「完全なセルフ」にあたるシンメトリーで、整合的なイメージとか?そういうことかなあ…」


 穭田に、もう踏み込んでいて、露を含んだひこばえを踏みしめる感触は、懐かしい気がした。が、もとよりナンセンスな存在?の仇花だか仇草?だから、なんだかものさびしくてつまらない感興だった。

で、こう詠んだ。


<穭田を踏んで無意味な無常のみ>(蛇蝎)


「索漠とした気分は出ている感じやなあ?」メモ帳に書いて、独り言ちた。

「実存主義というのはたぶんこういう感覚で…ホンマわびしいなあ。」


<続く>

  

  

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