第14話
平日のこの時間、二人揃うことなんてほぼ無い。
理由はどうあれ、今まで無かったことが起こっていた。
いつもと違う空気、外では人々が活発に動いているのに、二人だけ二人の世界で互いしか見えていない。
「ねえ碧」
「ん?」
電気を点けず、雲の切れ目からの光が部屋を薄暗く照らす。
翠は外を見渡せる窓に手を触れながら碧に問いかける。
「さっきの話、本当なのかしら?」
菫の言っていたことだ。
翠は今の立場に固執している。それは、大手老舗の令嬢である、水無月碧と吊り合うためだ。
「私が、今の地位を退いて、なにも無くなったとしても。碧と一緒にいられるのかしら?」
地位は関係無いと、菫は言っていた。
考えてみればそれは当然で、当たり前のことだ。
碧の実家が厳しいならまだしも、碧のことを自由にしてくれている。それに実家は翠のことも知っている。
一時期疎遠になってしまったが、それは仕方の無いことだ。もしなにか不都合があるのなら、こうして地位を得ていたとしても、碧と一緒に過ごすことはできなかったはずだ。
それなのに、翠はなにかに取り憑かれたように、碧に吊り合うようにと地位に固執していた。
「私はいたいと思う」
たとえ、実家になにか言われても、碧は翠といることを選ぶ。
「家がなんと言おうと、私は翠と一緒にいる。家だけじゃない。ほかの誰がなんと言おうと、私は翠と一緒にいる」
噓偽りの無い言葉。そう思わなければ、碧は禁忌を犯してまで翠を助けていない。
窓に手を添えて、振り返る翠の顔は、顔を覗かせた太陽の光のせいでよく見えない。見えないが、微笑んでいる気がした。
「本当? 私が、今の地位を無くしてもいてくれるの?」
「地位なんて関係無い。私は翠といたいから」
ピシッと、翠の手が着く窓ガラスに亀裂が入る。
危ない、そう思って一歩を踏み出す。それと同時に、そうか、と納得もしてしまう。
まさかこんな風に解ってしまうとは。菫がいなければ、碧はここまで到達できなかっただろう。
こんな単純なことすら、解ることができなかった。
この世界の翠はそうなるのも仕方が無い。だけど、外から来た碧はそうなってはいけなかったのだ。
「もし、私が碧の前から消えてしまっても、碧は私を追いかけてくれるの?」
「当然。どこへ行っても、絶対に翠を追いかけるし、離さない」
窓に手を着く翠の手に、自分の手を重ねる。
翠の体温を感じる。
「離さないよ」
碧がそう告げると、遂に窓ガラスが砕け、翠の身体が空に投げ出される。
落ちる直前の翠と目が合う。その目に恐怖は無く、試すような目を碧に向けている。
――こうなっても、碧は手を掴んでくれるの?
そう言われた気がした。
「当然!」
碧は躊躇わず、窓から飛び立つ。伸ばした翠の手を掴み、重力に逆らって落ちていく。
瞬く間に近づく地面、そんなことはどうでもいい。翠を抱きしめる、うるさい程心臓が鳴り、やがて鼓動が重なる。
なにかが砕ける音がした。近づいているはずの地面が消え、いつの間にか落ちているという感覚さえも無くなった。
その場で立っているのか浮いているのかは分からないが、碧は翠を見る。
翠の胸から輝く光が出てくる。その光は、碧と翠の間で漂う。
「これは……⁉」
この状況でこれは、間違いなく翠の喜の感情だろう。
これで正解だったのだ。翠を心の底から喜ばせる。
それは――翠と一緒にいるということ。なにがあっても、それを証明すること。
碧と翠の立場の差、碧と吊り合うことに固執した翠、菫に会うと言って不機嫌になる翠。そのどれも、翠が碧と一緒にいたいという願いからくるものだ。
ただ一緒にいる。それを見つけるために、まさか飛び降りるとは思わなかったが。
この世界の翠の過去はよく知らない。幼い頃、翠と別れた後、まったく繋がりが無かった。だから翠がなにを見て、どう育ったのかが分からない。一緒にいるといっても、言葉だけでは信用してもらうことができなかったというのは、今になって解った。
「碧」
光に目を奪われていた碧は、翠に呼ばれて顔を向ける。
翠の目には涙が今にも零れ落ちそうで、それでも上を向くことはせずに、真っ直ぐ碧を見つめてくれる。
「どうしたの?」
「ありがとう――」
翠の心を縛る茨は綺麗に無くなった。
たった一つの行動が、今まで翠の心を縛り続けていた茨を跡形も無く取り除いてくれた。
幼い頃からの人生。親から見放され、誰からも見向きされなかった。
友達だと思っていた人にはなぜか避けられる。そんな小さなことが続くうちに、翠の方から人を避けるようになる。話しかけられ、仲良くなっても自分で関係を壊す。この人は離れていかないのかと、試すためそんなことを繰り返してきた。
だけどそんな中、碧だけは当時から翠の隣にいてくれた。わざと嫌なことを言っても、嫌がることをしても、碧は笑って翠を許して、隣でいてくれたのだ。
そうしているうちに碧以外の人は、翠の周りからいなくなった。
しかし碧は中学への進学を期に、翠の隣ではない、手が届かない場所へ行ってしまった。
当時から、碧の家は凄く大きな、金持ちの家だというのは知っていた。だから仕方が無い。そう自分に言い聞かせて、それからの人生は一人で生きていた。
碧のまた会おうね、という言葉を支えに、いつかまた再開できることを信じて。
「私を捨てないでくれて――」
あの時から碧はなにも変わっていなかった。無駄なことをして、勝手に傷ついた。菫のおかげで見えていなかったものが見えた。
自分が心の底から求めていたものを与えられた。
これ以上無い喜び、心が軽い。
「私と、一緒にいてくれて!」
心からの笑みを向けられた碧は驚く。
感情の起伏に乏しい翠のこんな笑顔を初めて見た。それと連動するように、翠の喜の感情は、碧の下へやって来ては弾むように周りを回る。
こんな強い感情は、向けられると嬉しい。
碧は翠を抱きしめる。
心の底から喜んでくれた翠の身体は温かく心地いい。
翠の額に、自らの額も合わせて碧は誓う。
「ずっと一緒だよ! どんな世界でも、なにがあっても、私は翠と一緒にいる!」
世界を越えても、あなたを愛すと――。
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