1章7話:翠ヶ淵樹海へ
逃げた。逃げた。逃げてしまった。逃げちゃった! あは、あはは、
「あは、あははははは、あははははははは!!! なんだなんだなぁーんだ! あは、ははは」
こんなにも清々しいなんて思わなかった。
忌々しい幼馴染、煩いクラスメイト、監獄のような学校、家族とは思ってない家族。後の問題は置いておいて、今この場には誰もいない。なんならいっそ街からも逃げ出してしまいたい。
あの場から『逃げ出せる』、という選択肢を取れたことで途端に今まで執着していた全てのものがどうでも良くなった。故に今はこう思う。
「もう、誰も信用したくない」
本当に誰も信用したくない。
だってニコラも海知も夏葉も、家族も、学校のみんなも教師も、街のみんなも、みんなみんなみんな、僕の意思なんて1ミリも考えていなかったのだから。
そう考えると一気に肩の力が抜けた気がした。今まで僕はなんでこんなことに気を使っていたんだろう。
「おやほの囮ちゃん今帰りかい? あれ、あの彼氏クンは一緒じゃないのかな、なはははっ、ナンチッテ」
「ちっ。煩い黙れマジで話しかけんな」
「え、えぇ!?」
毎度のように無駄に揶揄ってくる街のおじさん。いつもは世間体を気にして愛想笑いしかできなかったけど、今はそんなものどうでも良いから睨みつけて暴言も吐ける。
それにしても普段穏やか口調だったからか、結構効果抜群だった。これからも少しずつガラ悪くしていこうかな!
顔見知りばかりのこの街で生きていくのなら嫌でも人付き合いは大切だ。そしてその街はニコラが支配している。ならば彼女への叛逆はそのまま街での暮らし辛さに直結する。たった1人で街を敵に回したようなものだけど、やはり後悔はなかった。
ではこれからどうしようか、と言われると正直困ってしまうけどね。頼れる人も居ないし。頼れる人、味方、ねぇ。
「そういえば、あの声は何だったんだろう」
不思議な声だった。けれどあの声のお陰で僕は目を覚ますことが出来た。少なくとも僕にとって悪いものではない、と思いたい。
まぁとにかく今は1人になりたい。誰も来ないような場所に行って1人に。それには色々と準備をしなくては。
「げっ」
「あら」
そう思って家に帰ってすぐ荷物を纏めるつもりだったけど、残念ながら叔母に見つかってしまった。幸先が悪すぎる。
「おかえりほの囮ちゃん。ご飯は」
「部屋で食べます」
「そう? あ、ヨハンちゃんご飯食べるー?」
「うん!」
既に犀潟ヨハンは帰宅しているようだった。なんでこいついるの? 早くない?
「お兄ちゃんは?」
「僕は部屋で」
「えー! こないだみたいに一緒に食べよー! あと一緒に女装して写真撮ろ!」
「はっ」
セーラー服を着たヨハンに対して鼻で馬鹿にしたような態度をとって2階へと上がっていく。ていうかお兄ちゃんと呼ぶな気持ち悪い。そう呼んでいいのは妹(アイツ)だけだ。
「ちょっと、ほの囮ちゃん冷たいんじゃないかしら?」
「そーだよお兄ちゃ」
「あー煩い煩い」
部屋の扉を閉めた。
早速部屋に戻ってカーキ色の大きなリュックサックに念のため用意していた食料を詰め込んだ。後は好きなバンドのグッズとか、色んな日用品とかも詰めた。
「コレもいるね」
妹の写真。僕が生きる希望。
ーーそうだ。僕は妹の為にもニコラに負ける訳には行かないんだ。
その写真立ても詰めて窓から外へ出た。そのまま自転車で街を駆ける。
何処に行こうかな。自転車でいつも以上に風を切って走っていると、奥の方に例の場所が見えてきたので、僕の行き先はそこへ決まった。
『
日本有数の自殺スポットでガチヤバな心霊スポットでもある。勿論街の近くにそんな樹海は無い。有るのはその入り口に当たる山、翠ヶ淵山である。
この山から上手く進んでいくと、樹海の外れに出ることが出来るらしい。試した奴は居ないからよく分からないけど。
まぁそんな訳で北湊市は別名『樹海の入り口』などと言われてしまってる。
「雰囲気あるなぁ……」
ジメジメと暗い雰囲気を漂わせた樹木の傘が広い空を遮る山の入り口を見て、思わず呟いた。
ヒノキ、アカマツといった針葉樹とミズナラなどの広葉樹が混合した原生林が広がる翠ヶ淵山は、入り口の時点で非常に冷涼な気温でパーカーを持ってきて良かったなと感じる。
「うん、ここなら」
翠ヶ淵山なら誰も近寄らないから隠れ家には持ってこいだろう。強いて言えば山の中腹にある翠ヶ淵神社の人に見つかると面倒だからそこはさっさと通り過ぎてしまいたい。
登山道の入り口には小さな祠がある。その祠の前にチャリを止め、山へと入っていった。
山は思ったより登りやすかった。舗装された登山道を歩くこと15分程度で神社に到着。そこから更に細くなった道を奥へ奥へ進んでいく。
「自殺するつもりは無いけど、側から見たらそう見えるかな?」
随分奥まで進むと、何やら開けた場所に出た。村があった後、だろうか?
一応整備された墓地があり、その外れにはまた小さな細道があった。側の看板には真っ赤な文字で、
『この先、禁足地。入るべからず』
とある。
禁足地というと、通常人が立ち入っちゃいけない地域のことだ。北湊の外れの村々に伝わる伝承で、『山の神』が住むと言われる地域がある。そうか、此処がそうなのか。
そんな禁足地に対して、なんの躊躇いもなく僕は足を進めた。看板の奥、地面に落ちていたしめ縄を超えていく。
すると一瞬、何か森全体が震えるような感覚がした。けれどそれも本当に一瞬で、僕は気にせず進む。
この時の僕は多分狂気に飲まれていたんだと思う。身震いはすれど、街から逃げられるなら禁足地だって怖くなかった。何も気にせずどんどんどんどん奥へ奥へ進んで行って。
だから、この異様な雰囲気に最後の最後まで気付かなかったんだ。
「…………………………ぁ、ぇ?」
いい加減な経路で歩いていた結果、突如目の前の景色が大きく変わった。
視界には一面の『赤』が飛び込んでくる。
「なに、コレ……………………鳥居?」
僕の首の高さまである朱塗りの鳥居が当たり一面に立ち並んでいる。異様な光景。
何より、僕の上空の色は、真っ黒なクレヨンで塗りつぶされていた。それは夕方というにはあまりにも暗く、もうじきあたりが完全に闇に包まれることを直感的に悟った僕は、今この時になってようやく事態の深刻さに気づく。
「え、な、なんで夜!? ちょ、こんな山奥で夜って洒落にならない!」
慌てて周囲を見渡して焦燥感に駆られ走り出す。
しかし何処を見ても元の道などない。あたりはすっかり夜になっていて、僕は死の近づく音が聞こえた気がした。
「なんで、なんで、なんでッ! 暗い! 全然まだ夕方だったのに!」
何故気づかなかったのか。
それは、目の前の明るさの所為であったが、その明るさもよくよく見れば異様であった。
ポツポツと森の中に咲く赤い光。火が灯っていたような感覚に安心していたのだが、それは異様な程に群生する彼岸花であった。いわゆる幽霊花と呼ばれる真っ赤な植物に囲まれて、僕は強く、とても強く『死』を意識してしまった。
その意識は僕を1つの感情に塗りつぶす。逆に遅いくらいだったのだが、とにかく今頭の中は恐怖でいっぱいだった。
怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!!
走った。
目一杯走った。
舗装されてない道だが気にしない。行動しないと不安に押しつぶされそうになる。
死ぬつもりでこんな山に入ったんじゃない。全てから逃げたくて、でも自分の人生から逃げたいわけじゃない。
何かの植物で手を切り、何度も蔦や木の根に躓いて転んで、口の中に土が入ってきても、それでもそんなことが些細な事に思えるくらいに怖かった。兎に角体を動かす。
どれだけ走っただろう。
行けども行けども光は見えず、誰もいない。
それなのに人間じゃないナニカが大勢、こちらを眺めているようで気持ちが悪い。
視線。
視線。
視線。
ここは本当に現世なのか。僕は知らない間に死者の世界に迷い込んでしまったのではないか。それくらい、僕の周囲にはナニカが潜んでいる感覚がある。動物ならどれだけ良かったことか。熊や鹿なんて可愛いものじゃないか。
「はぁ、はぁ……」
何かから逃げるように走り続けて息も切れてきた。それでも足を止めたら闇に飲み込まれてしまいそうで立ち止まることも出来ない。
闇に飲まれれば死に飲まれ、そのまま消えてしまう。そんな強迫観念が僕を鞭打ち、既にボロボロで動かない脚を奮い立たせる。
あぁ、だめだ、視界が眩んできた。
「あっ」
間抜けな声が漏れると同時に、ふわっと浮遊する感覚を味わった。
闇の先を掴もうとするが、その手は空を切る。
ーー崖から転落したのだ。
「あっ、がぁっ、あぁっ、ぐっ」
急斜面をごろごろと転がり落ちる。
止めようとしたけど止まらない。とにかく斜面を転がって、気づくとそこもまた暗い山のどこかであった。
「ぁ、くぅ……いた……い」
そこまでの高さを落ちたわけじゃない。けど全身を打ちつけたダメージが大きく、なかなか起き上がれない。
軋む身体をなんとか起こそうとするが、やはり脚が酷く痛む。……折れたかもしれない。え、折れた? それならどうやって山を下る? いや、いやいやいや、待って、それは洒落にならないんだけど。
「誰か、誰か、誰かぁああああ!!!」
叫び声を上げながら空を見上げる。
するとその異様さがよくわかった。
月があまりにも大きすぎるのだ。山道の中で鳥居に囲まれた状況、急激に進んだ時間、彼岸花、大きすぎる月、全てが異様だ。
異様で、恐ろしい。
恐怖に立ち竦む僕にはそれらが鮮明に焼き付く。
そこはまるでこの世とは思えなくて、あぁ、きっと僕はもうこのまま死んでしまうのだと思ってしまうくらいには心が参ってしまっていた。
それからどれほどの時間そうしていただろう。
一通りの叫び声をあげてそれが全く意味をなしていないことを察してから、僕は何も行動しなくなった。
「あ、あはは……こんな終わり方……せっかく自分の人生を生きようって……あは、はは……」
世界は無情だ。
悲劇的な死を遂げた母も、意識の戻らない妹も、ひとりぼっちの僕も、こんなにも救われない。
ねぇ、神様とやらは本当にいるの? いるんだとしたら、どうか……どうか僕を……。
「助けて……」
そう呟いた瞬間、急激に怖気が襲いかかってくる。
月明かりに照らされた前方、常闇の樹海に月光が集中する場所があった。
「月がとても綺麗。ねぇ、そう思わない?」
その透き通る声に思わず目を見開く。
唖然と、何も言えずに座ったままの僕。そんな僕から月の光を遮って手を差し伸べてくる少女がいた。
仄かな月光によって光を帯びた少女は、暗闇に思考を支配されていた僕にとっては余りに神々しく映ってしまう。
だから自然と、言葉が漏れた。
「かみ、さま………………?」
そう。僕はこの日、僕にとっての息苦しい世界を完全に滅ぼしてくれた『かみさま』に出逢ったのだ。
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