トライアングル・ヴァニラ

雨虹みかん

始まりはバニラの香り

 12月の寒さに凍えながら、私はヘアアイロンで丁寧にセットした自慢のストレートヘアを手櫛で梳かす。高校生になって二度目の冬だ。下駄箱で上履きに履き替え、教室へと向かう。私は朝のしんとした廊下が好きだ。戸をがらりと開けると私は誰もいない教室に入る。

 今日も一番乗りだった。私は朝起きられない人の気持ちが分からない。朝起きられないというのは怠けだと思う。だから、いつも昼過ぎから登校するあいつは私をいつも苛立たせる。

 私は自分の席に辿り着くと桃色のマフラーの結び目を解き、椅子に腰かけた。すると机の中からふわりと甘いバニラが香った。私はこのバニラの香りを知らない。机を覗き込むとそこには一通の手紙が入っていた。

「健人君へ」

 私は封筒に書かれた、何度も心の中で呼んだことのある名前を見てごくりと唾を飲んだ。

「咲より」

 健人の席は私の隣だから、恐らく手紙を入れる机を間違えたのだろう。

 理性を失った私は、封筒が開かないように留められたハート型のシールをそっと剥がすと、中に入れられた便箋を取り出した。


 健人君へ

 寒い季節になりましたね。突然のお手紙ごめんなさい。健人君にどうしても伝えたいことがあります。

 いつも健人君のことを見ていました。そう、私は健人君に恋しています。健人君のことが好きなのです。

 健人君は真子ちゃんと席が隣でしょう。真子ちゃんが健人君に話しかける度、私は嫉妬という感情を覚えていました。そんなある日、私はある秘密を知ってしまったのです。それは、真子ちゃんが健人君のことが好きだということ。私は真子ちゃんが健人君に告白しているところを見ました。私は健人君のことが好きですから、健人君が真子ちゃんを振ったとき、正直ほっとしました。

 私であれば振り向いてもらえるとは思っていません。だけれども、ほんの少し思ってしまうのです。その想像は私の心臓の鼓動を加速させるのです。

 健人君の隣を歩けたらなあ、と。

 健人君のことが好きです。私とお付き合いしてくれませんか?

 私のインスタのユーザーネームを書いておきます。お返事待っています。

 咲より


 バニラの甘ったるく、べとついた香りが鼻をつく。あいつは健人のことが好きだったのか。手紙の全文を読み終えた瞬間、私の身体に不快な靄が広がっていくのが分かった。しかし、それと同時にあいつの秘密を握ったという背徳感も抱いていた。

 自分の行動に迷いはなかった。

 私は「健人」という名前でインスタの新しいアカウントを作った。健人はインスタをやっていないからばれることはないはずだ。

 インスタで手紙に書かれたユーザーネームを検索すると「咲」と書かれた、FF0人の鍵アカウントがでてきた。フォローリクエストを送るとすぐに承認され、フォローが返ってきた。

 あいつ、朝起きられないなんて嘘じゃん。やっぱり「ナマケモノ」だ。

 私は健人になりきってあいつにメッセージを送る。

「咲さん、手紙ありがとう」

 送信ボタンを押すのにためらいは一切なかった。

「僕も咲さんとお付き合いしたいです」「よろしくお願いします」

 すぐに既読がいた。

「健人君ありがとう」「これからよろしくね」

 ほんのりと吐き気を感じながらも、私があいつの恋の邪魔をしているという事実に口角が上がるのが分かった。

 ツイッターに「やはりナマケモノは嘘つきでした」と投稿すると私は自分のプロフィールに目を落とす。

「ナマケモノ観察日記」

 これはいじめじゃない。匿名だし、本人の目にも届かない。このアカウントのことは学校の誰も知らない。これは私だけの秘密の娯楽。

 画面をスクロールして今までの投稿を眺めていると、教室の戸が開く音がした。

「真子、おはよう」

「おはよ、健人。今日は早いんだね」

「朝の放送があるからね」

「いつもはギリギリに放送室来るくせに」

「今日はやる気出そうと思って」

「いつも出してくださーい」

 私と健人は放送部の部員で、木曜日の今日は私たちが校内放送の当番の日だ。この高校は朝と昼休み、そして放課後に放送部の部員が校内放送を流す。放送室が私が唯一健人と二人きりになれる場所。そして、放送部の活動は健人に振られた私が唯一許される「会う口実」だ。

 放送室の鍵を借りてくると、私は健人と放送室の中に入った。機材の独特な匂いが鼻をかすめる。音のしない、まるで外の世界から隔てられているようなこの空間が好きだ。

 私が朝の校内放送用の音楽を流すと健人がマイクに口を近づける。

「みなさんおはようございます。放送部が朝の校内放送をお送りします」

 健人の少し薄めの唇が開いたり閉じたりする動きに見とれてしまう。初めて健人と放送の当番になった日からずっと。健人の発する声は私を虜にさせた。しっとりと耳の中に浸透していく感じがとても心地よかった。心臓は、うるさかった。

 朝の校内放送が終わり、軽く片付けをすると私たちは放送室を後にした。

「俺、鍵返してくるから先に教室戻ってていいよ」

「ありがとう。じゃあ私ツイッター投稿しとくね」

 私も一緒に鍵返しに行きたい。その言葉を飲み込み、私は一人で教室へと向かった。放送部は毎朝ツイッターに何かしらの投稿をしている。私は「ナマケモノ観察日記」のアカウントから放送部のアカウントに切り替えると、今日の給食の時間に流すリクエスト曲の曲名を投稿した。

 投稿を終えると、インスタの通知が来た。咲からのメッセージだった。

「お手紙からバニラの香りがしたの、わかった?」

 私は甘ったるい香りを思い出しながら、健人になりきって返信をする。

「甘くて可愛らしい香りだったよ」「咲さんにぴったりだと思った」

「嬉しい」「健人君ありがと」

 うるうると目を潤ませている顔の絵文字とハートマークを駆使している咲のメッセージを見て、やはり咲は男に媚を売るのが上手いのだと感じた。

 しばらくすると健人が教室に戻ってきた。

「今日も咲さん来ないね」

 健人が斜め前のあいつの机に目を向け呟いた。

「寝坊じゃない?」

 私は、そんなことよりもさ、と話を逸らす。

「1、2時間目、自習らしいよ。テスト前だからって自習にしてくれるらしい」

「マジ? ナイスすぎる」

 席が隣同士の私たちはよく他愛もない会話を交わす。私はこの時間がずっと続けばいいのにと願う。しかし健人はそれを望んでいない。

 健人には、好きな人がいるらしい。


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