煤けた大地/失意の河と歓喜

 燃え殻の匂いが鼻を擽る。

 結界によって隔離されていたにも関わらず、周辺は焼き爛れ、倒木した木々は灰を作り、包まるように火が燻る。


 既にこの森は樹海とは呼べない。中心から広がる焦土は深緑を一切の区別なく狩り、罅割れた地面が残る更地と化した。


 渇き切った、地獄だけが広がる。


 爆心地の中央で、『彼』は立ち尽くしていた。

 変異していた右腕は元に戻り、小さく震えている。掌を力強く握り、奥歯を噛み締めた。


 眉間に皺が寄り、息を吸い込む。

 先刻までの愉悦に満ちた凶悪な笑みは、『彼』から消えていた。

 代わりに宿るのは、怒り。

 視界の先にいる者への、絶望の憤り。


「────なんだ。これは、一体なんだ」

『彼』は歩き出した。抑えきれないとばかりに、力強く足を叩きつけて。

 視界にいるのは、丸みを帯びた影一つ。

 マエロドが両膝をつく。怯え切った死体漁りは、灰色の何かに縋り付くように隠れている。


 先程まで『彼』と対峙していた、花の勇者に。

 ……『彼』が矛を叩きつける瞬間、勇者はただ一人突貫した。左手に剣を携え、『彼』の喉笛を貫かんと飛翔したのだ。

 あるいは、刺し違えることになっても『彼』を討てたかもしれない。祝福を帯びた剣に貫かれたら、今度こそ『彼』は死んでいた。


 だが。

 彼女の意思とは関係なく、マエロドは糸を引き戻した。

 思考も矜持も放り投げた男は、ただ自分が生き残る選択をした。

 親愛を抱いていた人の亡骸を、盾にすることを。


 ……確かに、調律を施した勇者の肉体は生前時と変わらない。肉体の強度は人の比ではなく、たとえ如何なる攻撃にも一撃は耐えられる。

 マエロドはだからこそ、咄嗟に勇者の体を引き戻し、己の盾としたのだ。

 利口な選択だと、誰もが思うだろう。


 けど、『彼』は。

 目の前の敵は、それを唾棄し、魔術師に失望の蔑視を送っていた。


「く、来るなぁっ!」


 灰の塊となった勇者の骸を、マエロドは手放した。塊は倒れ、崩れた灰は風と共に散っていく。

 もうあの勇者の遺骸は文字通り姿形もない。

 いるのは、無様な醜態を晒す人形使いだけ。


「なんだ……何なんだこの結末は! 貴様も、己すら在ればいいというか! 我が身が惜しいか! この俗物の恥知らずめが!」

「黙れぇ! 化け物め、怪物め! 近寄るなああぁぁあ!」


 情けなく喚くマエロドに、影が覆い被さる。

『彼』の冷めた視線が、哀れな男を見下ろした。


「もういい。おまえは喰わん。血が腐る」


 目を見開くマエロドに『彼』は言う。


「おまえの死因は圧死だ。潰れて逝け」

「ま、待っ────!」


 静止する言葉よりも先に、『彼』の方が早かった。

 マエロドの顔を正面から蹴り、そのまま踏み潰した。

 飛散する。頭蓋骨の破片に付着した脳肉や、萎んだ眼球が四方八方に飛んでいく。耳や口から溢れた油混じりの血が地面に広がるが、『彼』はつまらなそうに眺めるだけだった。


 顔を失った頭から、足を引き抜く。血や肉がこびりついた足をそのままにして、顔を歪めた。


「何たる体たらく。意気を挫かれた程度で折れるとは、惰弱にも程がある」


 背を向け、歩き出す『彼』。

 月のない夜に風が通る。チリチリと皮が剥がれるような熱が体の内側に燻る。

 吐いた息が、白く出て夜に溶けていく。


(……いっそのこと、このまま滅ぼしに行くか)


 心中で吐露した言葉はあまりにも無鉄砲で無計画。

 だがそれを可か否であれば、前者であった。

 一夜にして一国を落とすなど、今の『彼』なら容易だった。


 そんなことをしても得はないと知っている。

 これは、単なる八つ当たりだ。

 失望による苛立ちを、抱えて消えない燻りを、どこかで霧散させたい。そんな迅る感情を、『彼』は抑えきれなかった。


 逡巡し、足を向ける────その瞬間。

 微かに鼻をつく臭いが、風に乗ってくる。

 魚が腐ったかのような腐臭が微かに漂う。通常では嗅ぎ慣れない、放置された死肉特有のもの。


「仕留め損なったか?」


 言って、頭を振った。屍体を操る術師はもういない。有象無象の屍が意思を持たずに動くのも考えられない。

 では、これはなんだ。

『彼』は臭いがする方へ飛んだ。再び蝙蝠の群れとなり、焼き払われた樹海を後にする。


 飛んでいる最中、『彼』は考える。一体自分は、何故こんな些事に時をかける。

 胸の中の憤怒も冷めず、消化不良の苛立ちが体を支配しているのに。

 ……この、得体の知れない昂りは何なのだ。


 風に逆らい向かったのは、風上……北西の開けた空間だった。

 蝙蝠が集まり、『彼』が地に降り立つ。

 水の撥ねる音が、夜に奏でられる。


 幅の広い大きなかわが、静寂の中で唯一音を奏でる。流水のせせらぎは、遠い場所で戦音が轟いたとは思えないほど穏やかだった。


 土を踏み、川縁まで歩く。長く続く川の上には橋は架かっておらず、こちらからは対岸を眺めることしかできない。

 だからこそ、が何なのか、理解できた。


「────はっ。あははははははは!」


 最初は、小さく吹き出す程度。段々とそれは、大きな狂笑に変わっていく。


「そうかそうか! そういうことか! 驕っていた。傲慢だったのは私の方だ!」


 腹を抱え大声で言う。まるで、誰かの悪戯がツボに入ったかのように。


「巡り合わせにしては出来過ぎで、神の戯れにしては悪辣極まる。嗚呼! しかしそんなことはどうでもいいのだ!」


 歓喜に胸を躍らせる。もはや、先刻まで抱いていた憤りは消えていた。

 眼前の光景に目を打たれ、胸中は嬉しさで張り裂けそうになる。

 一頻り笑い袋が収まったところで、『彼』は呟く。


「では、今一度舞い戻ろう」


 再び身体を蝙蝠化させる『彼』は言う。


「待っていてくれたまえ、我が君」


 蝙蝠が飛ぶ。天高く、運河を渡って。

『彼』が去った川岸には、依然とせせらぎだけが演奏される。

 その川の向かい側では、『彼』の見ていた光景が夜に並ぶ。


 ……戦場を知らない川の辺りで、血が流れる。

 天を劈く鋭利な林。針葉樹の如く聳えるソレは杭であり、先端から何かが通されている。


 人の亡骸。戦場から逃げた兵士たちが、阿鼻叫喚の表情を浮かべ、貫かれている。

 見張りもいなければ啄む鳥もいない。ただ晒されるために施された処刑場。

 死体から溢れる血生臭い腐臭は風に乗り、杭の群生林に立たれた戦旗が揺れる。


 その戦旗には……赤い竜の姿が施されていた。

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