Re/D アナザーワールド・ヴァンパイア

秋竹芥子

序章

星の夜/『彼』の終わり

 星を見る。


 名前の知らない綺羅星たちが視界一杯に輝いている。

 煌めきが作る夜の運河が、『彼』の視界に広がっていた。

 綺麗だ、と漠然と思った。


 光をずっと避けてきた。夜に出歩いても雲で覆い、月明かりの一筋だろうと降ろすことが許せなかった。

 けどこの一瞬だけは、星々に目を向けられた。

 陽が落ちたばかりの空は暗雲一つない。嵐が呼びよせる轟きもない。


 何もかも静かで、透明な夜の始まり。

 煩わしかった静寂が体を包む。僅かな光の一差しすら許せなかったのに、今は全てを受け入れられた。

 自分の喉元を裂いた傷口も、己の胸を貫いた短剣も。

 永遠と思っていた命が、尽きようとしているのも。


「ここまでだ、伯爵」


 頭上から声が聞こえて、『彼』は意識を動かした。

 静寂が終わる。星々の輝きが奪われる。轟々と音を立てて崩れ落ちる古城。敵の侵入を許さなかった城砦が走り回る炎によって燃え盛る。強風が火を運び、夜に似つかわしくない明かりを灯す。

 火が影を作る。倒れる『彼』を見下ろすように、老年の男が立っていた。


「おまえは負けた。この老ぼれと小さな勇気、そしてたった一つの命に敗れたんだ」


 火の粉が男の前を通り過ぎる。『彼』は火の後を追った。

 男の後ろには五人の人間がいた。その中には見知った顔の青年が、『彼』を強く睨みつける。


「おまえの妄念も、執念も、四百年間築いてきた血の山も。この城と共に全てが消え

る。おまえが無駄と嘲笑ったものが、長い長い夜に打ち克ったんだ」


 老年の男は膝を負った。手には銃が握られていたが、指を引き金にかけることはしなかった。その必要はもうないからだ。

 男は黙するように目を閉じ、深く息を吸う。


「眠れ吸血鬼ヴァンパイア。正しい死を受け入れる時だ」


 癪に障る言葉を静かに受け入れる。小狡い真似をしようにも、末端から消滅していく肉体では何をしても無駄だろう。

 掠れた呼吸をする中で、目だけを動かす。自分を打ち負かした影たちを見つめる。

 己を老ぼれという教授。命と引き換えに自分に止めを刺した勇者。友を悼む貴族と医師。若く滾る激情を瞳に宿す青年。


 そして。

 最後に残った女は、瞳を揺らしていた。

 青年に守られるように抱えられた彼女はじっと逸らさず、今にでも泣き出しそうな顔で『彼』を見つめている。

 まるでこの時を惜しむかのように。この別れを恨むかのように。消えてしまう『彼』を、忘れてしまわないように。


(……ああ)


『彼』は目を細め、彼女をじっと見つめる。


(終わりか、終わってしまうのか)


『彼』は手を伸ばそうとした。動かした瞬間、ひび割れて粉々になった。下半身が灰に還った体は、腕を上げることさえも許さなかった。

 終わり。頭の中で思い浮かぶ死。永遠に無いと思っていた夜明けが目の前まで迫っている。

 恐れはなかった。肉体が粉々になろうと魂が滅びようと、恐怖が入り込む余地はない。

 悔いはある。怒りもある。『彼』はまだ成し得ていない。生涯に成果はなく失敗だけが屍の山のように積み上がっただけ。

 故に『彼』の生きた年月は無価値だった。無様であって。徒労であって。無謀な悪足掻きであった。

 怒りが胸の内から湧き上がる。結局、自分は何も成し得なかった。

 だが。


(……だが、悪くはない)


 これでいい、と漠然と思う。

 不満はある。不条理に対して思うところもあるけれど。

 彼女が看取ってくれる。それだけで『彼』は充足していた。


(化物には、上等な結末だろうさ)


 ひび割れが進む。胸部が裂かれ首元までひびが浸食する。自分の命が終わる。不死の王が滅び去る。

 その前に、少しは鬱憤を晴らさないといけない。


「違う」


 掠れる声で『彼』は言う。


「私は、伯爵ではない」


 教授は目を見開いた。きっと教授は『彼』の言葉の真意を取り違えているだろうが、心地いいので言い直しはしない。


『彼』は純粋に、告げたいだけだ。

 自分の名を。流浪した果てに思いついた、己の名前を。


「私の名は────」


 そこまでだった。

 炎が爆ぜる。広がった炎は四百年の歴史をもつ古城に終止符を打った。

 それを追うように、『彼』も完全な灰となり、ほのかに温かい風に乗せられて消えていった。


 ……こうして、世間を俄かに騒がせた吸血騒動は、一人の教授と四人の勇敢な若者たちによって解決された。

 青年と伴侶の間に子供が生まれ、亡き友の名を授けられるのはまた別の話。

 結局のところ世間には、多数の死者を出した騒動の犯人は誰か分かっていない。直接関わった者たちも口を噤むだろう。

 本物の化け物がいた、と言ったところで信じてもらえないのだから。


 そう。これは、その化け物の物語。

 死んでしまった吸血鬼と、明日の物語。

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