壱原 一

 

未明、暗い台所でタンブラーに珈琲を淹れる。


靴を履き、家を出て、窮屈に寄せ集まった民家の路地を、萎れた鉢植えや、錆びた郵便受けや、微風に揺れる電線などを後目に進む。やがて閑散と開けた防波堤沿いの道へ突き当たる。


ざあんざあんと寄せ返すさざなみの音を傍らに、潮と生き物のにおいが混ざる湿った海風を受けながら、暫く進むと階段があって、下りて浜へ至る。


ずっと左手の方向に、長らく波に洗われて角の取れた消波ブロックの一群。右手には迫り出した崖が緩やかな傾斜を描き、岩礁から海中へと没している。


巨大な流木に腰掛けて、タンブラーを砂浜へ軽く捻じ込んで据え、開いた膝の上に肘を預けて背を丸める。


眼前は夜が明ける寸前の茫洋とした海である。


普段は大きな犬を連れた小柄な老爺と居合わせる。


人懐っこく気の良い犬が、はあはあ息を上げ、ばさばさ尻尾を振り、満面の笑みで駆けて来るのを迎え受け、撫でて掻き回してやる。


老爺がとぼとぼ追い付いて、離れた所で目礼未満の視線を交わし、おう・・ともうむ・・とも付かない濁った唸り声ひとつで忠実な犬を呼び寄せる。


犬は途端に耳と尾を浮かせ、一目散に駆け戻り、またすぐ先へ跳び駆けて行く。その後を老爺がついて行くのを視界の端に見送る。


今朝は見当たらない。


犬と老爺を期待して浜を見回した先で、崖と岩礁を擁する右手側に、子供が1人立っていると気付く。


両手の指に満たない年の頃だろう。


波打ち際でこちらへ向き、右腕を真っ直ぐ水平に掲げ、海洋の彼方を指差してどうやら笑っている。


明け方のぼんやりと青黒い光量の中に、小ざっぱりと刈られた短髪と、寛いで垂れ下がった眉、小高く引き上げられた頬や、からりと開いた大口から覗く歯や舌などの、生き生きした部分ぶぶんを夜空の名残の星のように煌めかせ、彫像の如く佇立している。


今にも腹をぐっと力ませて、声の限りに何か叫びそうな笑顔だが、何も言わず、瞬きもせず、呼吸の身動ぎすら窺わせない静止の下、ただ海を指差している。


誘われて先を見る。ざあんざあんと波が寄せ返す穏やかな海原が広がっている。


丁度ぽつりと水平線に眩い光点が穿たれ、切り裂いて、割り開くように、燦爛たる朝日が昇り始める。


急激な光量に目を細め、再び浜へ目を戻すと、徐々に半身を照らされゆく子供は、無造作に扱われて縒れたり褪せたりしてくたびれた、けれど洗濯だけはきっちりされている風情の、ありふれた服を着ている様子が明らかになってゆく。


靴はない。


よほど腕白な性分なのか、日焼けしてつやつや光る手足には、虫刺されや擦り傷や打ち身の痕が幾らか点在している。


着古されたTシャツの胸元に、転んで口の中を切ったのか、あるいは鼻を打ったのか、飛散した少量の血液が染みて酸化した跡があった。


盛秋を超えた時季である。


この早朝の涼気の中、ひとり、何も持たず、半袖半ズボンに裸足で、あの子は何をしているのだろう。


寒くないのだろうか。


明々と昇る太陽が子供を照らし出すに連れ、姿は益々瞭然と、顔だけに影が差してゆく。


黒い翳りの奥で、大きく開いて笑う口から、剥き出される歯列ばかりが白々と光っている。


一昨日、激しい嵐が過ぎ、昨日は浜へ行かなかった。


風が吹き荒れ、雨が降り打ち、波がざんぶと逆巻いて浜の遍くを搔き洗い、懐に抱えている数ある物の一掴みを、至る所へ撒いて行った。


うちの一つがこの子では。


老爺は昨日も浜へ来て、いま浜に居るこの子に会い、それで今朝こないのではないか。


遠洋の底から煽られ浮き、運び流されて打ち上げられ、居た所、来た方、戻る方、これから一緒に行く所を指し示しているのではないか。


訳もなくそうに違いないと思え、俄に堪らなくなり逃げた。


起きて活動し始める路地の合間をひた歩き、見慣れた我が家の玄関に縋る。鍵を掛け忘れていたらしい不注意に、この時ばかりは快哉して扉を開けて滑り込む。


抜かりなく確実に鍵を掛け、息を吐いて靴を脱いでいると、台所でごんと音がする。


顔を上げ、玄関から垣間見えるシンクに、浜へ忘れたタンブラーが底部に砂を纏わせて置かれているのを目撃する。


シンクの前面の窓から、杲々こうこうと朝日が差し込んで、のっぺりしたビニールの床の上に、周りの物の影を落としている。


そこに人影が紛れている。


台所の引き戸の向こう、シンク横の調理台の前に、十に満たない子供ほどの、小柄な人体が立っていると分かる。


右腕を真っ直ぐ水平に掲げ、まさに逃げて来た道の更に彼方を指している。


真新しく焼き付いた笑顔が脳裏にまざまざ再生され、その幻像と目が合って、ぐっと喉が詰まる。


生き物のにおいが混ざる湿った海風が鼻を突く。


息を浅くし、後ずさり、痺れる片腕を背に回し、扉のノブを掴んで回す。


確実に掛けた鍵が鳴る。


潮騒が聞こえる。



終.

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壱原 一 @Hajime1HARA

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