▼第五十五話「大神官の娘」メンネフェル大神殿編⑧




 大神官ドゥスウルトゥの命により、三十人の兵からなる一個小隊が、神殿内を歩き回るアヌビスらを追い出すべく出動した。位置は監視魔法によって捕捉されているので、動きはじつに迅速であった。まもなく、警備小隊は油屋の小僧二人を見つけた。


「お前たち、そこで何をしている!!」


 メジェドは足音を聞きつけて、葦ペンを急いで衣服の中に隠しているところだった。


「僕たち道に迷っちゃったんですよ。いや、本当に広くて立派な神殿ですね」とアヌビスがメジェドの身体を遮るように前に出て答えた。


 メジェドの魔法陣を描く手際の良さには、監視魔法で動きを追尾しているメンネフェル側も不審を抱けなかった。この監視魔法は気感の延長線上にあり、動きだけを感知しているので、わずかな時間立ち止まるだけでは、道に迷っているという言い訳を信じるしかないのだった。


「貴様ら、見ない顔だな。本当に油屋か?」

「重たい油壺をここまでかついで運んだんですよ、そう言われちゃあ心外ですよ」と葦ペンを隠し終えたメジェドも言った。


 小隊長がずい、と前に出て、二人を眺めた。二人の十二歳の少年は、堂々としていて、いまのところ不審な印象はない。


「実はな、俺の親戚も油を商っているのだ」と小隊長が言った。「お前たちに、油屋なら知っていて当然のことを聞こう。答えられなければ、その時は——わかるな?」

「——ええ、どうぞ」


 メジェドは生来の気弱さを演技によって必死に隠し、堂々と答えた。顔の柔和さはどうにか保ってはいるものの、首筋に緊張の汗をかいていた。アヌビスは、メジェドの頭脳を信じるしかない。うまくやってくれよ、と祈るような心持ちである。


「最近、アスワン地方からモリンガ油を入荷したと聞いたが、今年の出来栄えはどうだ? 例年と比べて何か違いはあるか?」


 あまりの専門的な質問に、アヌビスは、ついに終わった、と観念した。そして、左右をきょろきょろと見、兵士の隙をついてどのように脱出するか、頭を回転させだした。


 しかし、メジェドは逆に安堵の表情を浮かべた。

 こうなることを予期して、あらかじめ油に関する専門知識を詰め込んでおいてあったのだ。


「仰る通り、先日アスワンのモリンガ油を入荷いたしました。今年は例年よりも雨量が少なかったので、相場価格は上がっていましたが、品質自体は十分満足できるレベルです。例年とくらべても悪くありませんよ。後日、小隊長殿宛にお届けしましょうか? 女性への贈り物になさると、大変喜ばれますよ」

「ああ、ありがたい。妻に贈ってやるとしよう」


 メジェドの回答が見事に要点を抑えていたので、小隊長の疑念は雲散霧消した。

 そして警備小隊は二人を出口まで丁重に案内し、外に追い出した。


 が、二人はすでに目的を達したあとだった。


 神殿から十分に離れたところで、二人は穏身術で姿をくらました。

 それから人気のない通りに出て、アヌビスはメジェドの肩に腕を回し、メジェドの機転を褒め称えた。


「みんなが凄過ぎるからね、僕は足を引っ張らないように努力しただけだよ」

「謙遜が過ぎるって。お前だってすげえ奴だぞ?」

「ははは、アヌビスくんだけだよ、そう言ってくれるのは」


 メジェドは照れながら、アヌビスの誉め言葉を半分だけ真に受けた。



 そしていよいよ式典の当日となった。

 式典は、毎年欠かさずに行われている、ナイル河の氾濫を祝う式典である。


 言うまでもなく、ナイルの氾濫とは、巨大な災厄である。

 流域の家々を飲み込み、すべてを洗い流す、圧倒的な力だった。


 にもかかわらず、なぜ祝うのか。


 毎年、六月から九月にかけて、エチオピア高原で降った雨水が上流に流れ込むことで、ナイルは氾濫する。すると、この強力な水の流れが、栄養分の豊富な土を、氾濫とともに下流に運び届けるのである。


 物事はいいこと・わるいことの単純な二元論で語れるものではなく、ナイルの氾濫もまた、単に「災害」と呼んで片付けるには、あまりある恩恵があった。


 この氾濫によって運ばれるナイルの土がなければ、小麦などの農作物は育たないのだ。


 余談だが、後年、ギリシャ人のヘカタイオスが「エジプト人はパン食い人」と評するほど、エジプト人は薄い平焼きのパンを好んで食した。この薄いパンを彼らは「エイシ」と呼んだ。「命」という意味である。


 その「エイシ」をつくるための土壌をもたらしてくれるのがナイルの氾濫だった。

 だからこそ彼らは、酒と肉とで祝うのだ。



 式典の日、大神殿には深紅の垂れ幕がいくつも垂らされ、飾り立てられていた。

 さらに、荘厳な巨大な石の階段の両脇には、ひなげし、ヤグルマギク、ヒエンソウ、ヤナギラン、パピルスの花、睡蓮などの花々が装飾として置かれ、まさに天国への階段とでも呼びたくなるような、非日常的な美しさであった。


 そして、人民と兵士とに、焼いた肉や揚げた魚、パン、ビール、ひよこ豆をすり潰してペースト状にしたもの、それを丸めて団子にして揚げたもの、レタスときゅうりのサラダ、玉ねぎを焼いたものなど、さまざまなご馳走が分け与えられた。



 人々がぞろぞろとメンネフェル大神殿に向かう頃、アヌビスは、拠点としているメンネフェル迎賓館の一室で、朝からディラに磨き上げられていた。


 アヌビスはまず朝一番に水浴びをし、体中の垢を念入りに落とした。それから全身に化粧水を塗りたくった。これはディラのコレクションのうちでも、非常に高い品である。それをばしゃばしゃと浴びるようにアヌビスが使い、ディラは目くじらを立てて怒った。

 その後、オリーブオイルと各種ハーブを混ぜた乳液を全身に塗ると、アヌビスの褐色の肌は、琥珀のような透明感にあふれた。


 そして、ディラが腕によりをかけ、アヌビスに化粧を施した。


「まだ? もういいだろ?」アヌビスはじっと我慢しているのが苦手な性質だった。

「馬鹿め、まだほんの手始めに過ぎんのだぞ。メイクを笑うものはメイクに泣くのだ、我慢せよ」

「なんだよその格言」

「黙っていろ、マスカラがダマになる」


 化粧が終わると、ディラはアヌビスに赤いドレスを着せた。


 それは、どこぞから盗み出したのか、当時は非常に貴重な、同重量の金よりも高価な絹で仕立てたものであり、やわらかな光沢にあふれ、アヌビスの気品をより一層引き立てた。

 その姿は、美の女神イシュタルですら霞むのではないかと思われるほどの、眩いばかりの美しさであった。

 髪も正装にふさわしく結いあげ、アヌビス生来の気品が、遺憾なく発揮されている。首元には金の首飾り、耳には真珠のイヤリング、腕には金の腕輪をつけており、どこの令嬢にも見劣りしない、貴婦人の出で立ちである。


「メンネフェルは今日、真の美というものを体感するだろう。彼らが、『いままで自分は何を見ていたのか、はじめて目が開いたようだ』と混乱するさまが目に浮かぶ……。ああ、自分が恐ろしい。もはや、これは美の兵器。そんなものを作り出してしまった自分の罪深さにおののくよ」ディラはアヌビスの出来に満足し、陶酔しながら自画自賛した。

「大げさだなあ」

「なんとでも言うがいい、この作戦は成功したも同然だからな。さあ、舞台の幕が上がるぞ」



 メンネフェル美少女大賞は、連綿と続く、歴史ある賞であった。元々は貴族の子息たちが、よい婿・嫁を見繕うための顔見せの場であったが、いまは一般市民にも門戸が開かれている。が、それは建前で、実際は、平民でも金持ちなら出場権を賄賂で買える、という程度にしか開かれていない。


 しかし、審査そのものは厳正である。

 審査員の投票と、一般の見物客の投票とで決まるものだからだ。


 メンネフェル大神殿の一角が控室となっていて、そこに総勢十人の美少女たちが集まっていた。

 アヌビスとメジェドを除く八人は、良血であり、財産もあり、なにより美貌を持っていた。メンネフェルでも指折りの少女たちである。


 メジェドは周りを見渡して、顔が青ざめた。自分は何をいい気になってここまでのこのことやってきてしまったんだろう。彼女たちが相手じゃ、とても勝ち目がない——


「アヌビアさま、私、帰りたいです……。こんな方々が相手では、とても勝ち目が……」と白い絹のドレスを着たメジェドが、小声でアヌビスに耳打ちした。

「あら、メジェディア。何言ってるの、大丈夫よ。あなたほどきれいな子は、ここにいないもの」


 アヌビスはメジェドを励ますつもりでそう言ったのだったが、それにしては声が大き過ぎた。

 八人が、一斉にアヌビスとメジェドを、ぎろり、と睨んだ。物凄い視線の圧である。彼女たちは権力者の娘であり、このように軽く扱われては、プライドに障るのだ。


「あらあら、随分な仰りようじゃない? あなた、どこの方?」と一人の少女が、意地の悪い声色で言った。

「俺のことか? あ、いや、私のことですか?」

「あなた、いま『俺』って言った?」

「失礼しました、じつはヌビアから来たもので、まだこちらの言葉には慣れていませんの」


 アヌビスは危うく男言葉で喧嘩を買ってしまうところだったが、慌てて誤魔化した。


「あんたたちの国って礼儀を知らないのね。私たちを差し置いて、その子が一番きれいだなんて、失礼じゃない?」

「だって事実ですもの」ぬけぬけとアヌビスが言った。

「あら、本当に文化が違うのね。こういうときは謝るものよ? まあいいわ。投票ですべてがわかるでしょう。申し遅れました、私はサリス。あの大神官ドゥスウルトゥの娘よ。あなたに格の違いを思い知らせてあげましょう」


 ドゥスウルトゥの娘サリスは、鳶が鷹を産んだのか、または母親がよほどの美人だったのか、まずまず美形だった。華奢な身体をした十四歳程度の年齢であり、家柄も財産も申し分なく、どんな家に嫁いでも恥ずかしくない、メンネフェル一級の美少女である。


 しかし、ふだんインプトを間近に見ているアヌビスにとっては、サリス程度の美貌では大した感動もない。


「楽しみですわ」とアヌビスは不敵な笑みを浮かべて、その挑戦を買った。


(つづく)

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