▼第二十五話「玄明蝶丹」




 ニンエガラは最後にマスダルについて説明した。曰く、マスダルは放任主義であり、どこで何をしても自由だと言う。宿舎があてがわれるが、それも帰ってもいいし、帰らなくてもいいといったもので、本当に自由である。


 ラーがこのマスダルという学院を建設したとき、ひとつの思想があった。

 それは優秀な奴らにはカリキュラムなど不要だという考えだった。


——優秀な奴らは、自分の頭で考えて、自分で必要なものを見出し、自分で行動する。


 それがラーの持論である。


 だからこそ、テーベ中のエリートを集めるこのマスダルは、めちゃくちゃに放任主義の教育機関であった。

 ただ半年に一度、「試練と報酬」が存在するのみが唯一カリキュラムと呼べるもので、それもその試験のときに学院に戻ればよい。


 三年間のうち、半年に一度、各年の九月と三月の計六度の試験があり、それをすべて合格した者だけが、卒業生を名乗ることが出来る。

 試験の度に不合格者は振り落とされて行き、最終的には人数は少なくなっていく。


 カリキュラムは存在しないが、優秀な者が集まれば、自然、刺激を与えあい、影響を及ぼし合う。

 マスダルの利点はそのあたりにある。


 また、痒い所に手が届くような仕組みにもなっている。


 アヌビスのような庶民や、三流家門の貴族が入学してきたときに、希望するならば、ラーの創った各種の上乗武功を学ぶことが出来るのだ。

 特級武功・独門武功にも引けを取らないという評判であり、これがためにマスダルに入学を希望する者が後を絶たない。


 武功を教えるクラスは常設されていて、希望する者が時間に顔を出し、教えを乞うというシステムだった。

 師匠を得られるかは運次第だが、武功は努力で誰でも身に付けられる。


「というわけで、第一試験は九月に行う。試験内容は、体力だ。どんな武功も、基となる身体が重要だ。とにかく身体を鍛え、体力をつけるのだ。全員、合格するように」

「「「従ッッ!!!!」」」



 霊薬を受け取った二十四人は、それぞれ修練室に入り、霊薬を服薬することを許された。

 霊薬を飲み、運気調息を行っている間は無防備になる。だから、安全を期した環境で服用するのが常識であった。


 岩づくりの独房のような場所で、アヌビスは座禅を組み、木箱を手に取った。その黒い木箱を開けると、なかに玄明蝶丹が入っている。


「これで二つ目のチャクラを解放できるよな?」とアヌビスが聞いた。アヌビスには突然変異で三つのチャクラがあるが、まだそのうちの一つしか使えていない。

「何を言っている、そんなことをすれば身体が弾け飛んで死ぬぞ。なにしろ、身体が全然出来上がっていないからな」とラーは言う。いまはとにかく身体づくりをしなければならない。強大な力を使いこなすには、強大な体力と心が必要になる。それは、どんなに優秀な才能があろうとも変わらない。だからこそ、マスダルの第一試験は体力を測る。

「なんだ、つまんないの」

「だが、同輩たちとの差は多少は埋まるだろう。俺が薬効のすべてを有効活用する完璧な導引をしてやるからな」

「師父ぅ~」とアヌビスはこんなときだけラーに甘える姿を見せる。

「気色悪い、やめろ」


 その前に、とラーはアヌビスに胃の中のものをすべて吐き出すように指示した。


「なあ、どうしてもやらないとダメか?」

「胃が空の方が吸収効率がいいんだ。とくに内功を積み増す霊薬ならな。言っておくが、この玄明蝶丹は正しく服用すれば、物凄く効果があるのだぞ」

「やれやれ」とアヌビスは首を振った。そして、強くなるためなら仕方がない、と覚悟を決めた。


 そして、隅の木桶を手繰り寄せると、喉に手を突っ込んで吐いた。

 何も出なくなるまで吐いた後、水瓶の水で口をゆすいだ。


 不快感がとてつもないが、ともかくやるべきことはやった。


「さあ、それを口に含んで噛み続けろ」


 アヌビスは玄明蝶丹をひょいと口に入れた。そしてラーの指示に従い、それを飲み込まずに口の中で十五分のあいだ噛み続けた——味は最悪である。苦味とえぐみの詰め合わせであった。第一、脳が拒絶反応を起こしている。吐き出せ、と懸命に警報を鳴らしている。


「うう、おえっ……。は、吐きそうだ!! マジで食べちゃいけないものの味がする!!」アヌビスは目に涙を溜めている。よほど辛いのだろう。

「良薬は口に苦し。この行程のあるなしで薬効の吸収が違うのだ。ホルスに勝ちたいなら我慢しろ」


 アヌビスははっと顔つきが変わり、まるで怒ったような顔をしてもっふもっふと丹薬を咀嚼した。

 ホルスに勝ちたい一心で、脳の危険信号すら無視できた。


(絶対、勝つ)


「そろそろいいぞ、飲み込め」

「やっとか!!」


 アヌビスはその声を聞くや否や、ごくり、とそれを胃に流し込んだ。一秒でも速く嚥下したいと待ちわびていたのだ。その苦味の塊が食道を通っていく感触は、不愉快そのものであった。


「よし、あとは神炎錬魄訣の口訣を唱え続けろ。俺が背後から導引する」

「わかった」


 アヌビスは心中で口訣を唱えた。すると、すぐに胃の辺りが熱を持ち始めた。霊薬が反応している。


「このまま二時間、運気調息し続けろ。やれるな?」

「朝までだってしてやるよ!」

「その意気だ」


 実際、それは非常な集中力を要するもので、常人にはかなり厳しいはずだが、アヌビスはそれを苦にしていない。

 精神的な力の操作が、けた外れにうまいのだった。


(公称では三年分の内功が得られるが、下手に服用すれば半年分しか得られぬこともある。逆に、極限まで薬効を活かし切れれば、三年分よりもはるかに多くの効果が得られるのだ。アヌビスのセンスと、俺の手腕があれば、たやすい)



 そして、二時間が経過した。アヌビスは運気調息を終え、座禅を崩してどさっと身体を横たえた。しんどそうではあったが、確かな手ごたえのある顔をしている。


「内功、増えたよな……!」汗まみれでアヌビスは言った。

「ああ、しめて五年分だ」

「うおおおおおッッ!!!!」アヌビスは天を掴んで雄叫びをあげた。


 アーヤマカンのたった一か月間で三年分の内功を蓄積したときにもラーは内心驚いていたが、今回の五年分はそれに匹敵する。

 無論、ラーの助力があってのものとはいえ、アヌビス自身の才覚の成果でもある。


 アヌビスの内功は八年分となり、これで幼少期から修練してきたものとの差が、縮まった。

 十二歳で内功八年なら、四歳から修練してきたのと同じだけの内功である。十分すぎる。

 無論、高位貴族や王族なら、一族の有望株に霊薬を飲ませているので、とてつもない差はあるのだが。


 それでも、差が着実に埋まった。


 修為も第二位階の二成に達した。今朝第二位階に達したばかりだから、驚くばかりの進歩である。そもそも武功を覚えて一か月で第二位階というのが、異様な速さなのだが。


 ちなみに大の大人でも第二位階、第三位階止まりの者は珍しくない。武の世界は才能がモノを言う。それは肉体云々よりも悟性の差が出るからだ。


 だからこそ師の導きが重要となる。心構えを見せ、教え、理解させ、実践させることが、新たな境地に至らせることとなるのだ。


 アヌビスは暗い岩室で仰向けに寝転び、笑った。


「ところでな、俺が導けるのはここまでだ」とラーがぽつりと言った。

「どういうことだ?」

「さっきニンエガラ学長も言っていただろう。ここは放任主義なんだ。お前も自分の頭で考えて行動する時期が来た」

「つまり、第一試験までに何をするか、俺が決めろってこと?」

「そうだ」

「失敗したらどうするんだ?」

「そこだよ」とラーは言った。「師匠はな、弟子に失敗をさせてやらねばならんのだ。目の前に障害があるからといって、これを取り除いてやっていては、そいつは使い物にならなくなってしまう。自分の頭で考えられず、いつでも誰かに答えや正解を聞いて回るだけの無能になってしまう。だがな、答えや正解のない、混沌とした場所がこの世界なのだ。そんなありもしない正解に縋ろうとする生き方は、視野が狭くなってしまうし、場合によっては人に簡単に騙されたり利用されたりしてしまう。俺はな、お前にはそうなってほしくない」


 アヌビスは前世で散々に苦労しているし、失敗も限りなくしていた。だからその轍を踏む心配はない。


 とはいえ、この一か月間、ラーの言うことに唯諾々と……いや、反抗もしつつだったが、従っていて、楽だったことは確かだ。

 これに慣れてしまったら、他人の支持を仰ぐ生き方しかできなくなってしまうだろうことは、アヌビスにも理解できた。


「なあ、相談くらいはしてもいいんだろ?」

「当たり前だ。なんでも聞け。だが決断するのはお前だ」

「ああ、それがいい」


(つづく)

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