▼第十六話「入学第二試験・ホルスの怒り」
広大な運動場の様相は一変していた。魔法によって、大地だった部分が千尋の谷と化している。それは、底も見えぬほど、深い。
その恐ろしく深い谷のあちこちに、岩の柱が林立している。教官セルケトの言う足場とは、どうやらこの岩の柱のことらしい。
その谷の周囲に、球を撃ち出す砲台も所狭しと並べられていた。球に書いてある指示に従い、斬るか避けるかを見極めねばならない。
「谷の底に落ちた者は失格とする。幻術であるがゆえに、落ちても死にはしないが、恐怖感は本物だ。お前たちのいままでの鍛錬を存分に発揮せよ」
試験は、先の水晶玉試験を通過した者のうち、水晶を反応させるのが遅かった順に、十人ずつ受ける形式だった。
成績上位者は、先に試験を受ける者たちの動きを見て、対策を立てられる。チャクラ操作に秀でていたことの特典である。
谷の周囲には、落ちた少年や少女がまだ大半は残っていて、たむろしていた。
自分たちよりも優れている同世代の者がいかほどのものか、値踏みする気である。
「静粛に!」と教官セルケトが怒鳴った。衆目がセルケトに集まる。「これより試験を開始する。合格順九十一番から百番は位置につけ」
アヌビスは百番だったので、一番端に立つ。谷を見下ろすと、心胆に寒気が走った。
「アヌビス。これを試験だと思うな。いつもと同じ修練だと思え。わかったな」ラーが耳元で囁く。
試験用の刃先を潰した剣を構え、アヌビスはこくりと頷く。
「始めッ!!」とセルケトが号令した。
一斉に受験者たちが走り出した。アヌビスも駆け出す。が、そこで違和感を感じた。
「お、おかしいぞ!」
「なんだ、どうした!?」とラーが慌てふためいた。
「体が、軽過ぎる!!」
アヌビスは強く踏み出し過ぎていた。
いつもより、速度も高度も出過ぎていた——
「お、落ちるッッ!!」
「手を伸ばせ!!」とラーが叫ぶ。
アヌビスはすんでのところで身体をひねり、どうにか岩柱に手をかけた。間一髪である。
岩柱をよじ登り、はあはあと荒い息をしている。
(あっぶねえ。しかし、どうなっているんだ?)
そこに、球が来る。
斬と書かれた球を、アヌビスは斬り払った。
「あっぶねえええっ!!」
「はっはっは。第二位階に昇境したせいで、身体の動きに馴染んでないのか」ラーは哄笑した。「どうだ、全然違うだろう」
「言ってる場合か! このままじゃ試験に落ちる!!」アヌビスのなめらかな額から汗が流れ落ちる。
「最初から修練のつもりで、と言ったろう。そう焦るな。それに、力が大きくなれば、コントロールにもより精妙さが求められるものだ。これは緊張感のあるいい修練になるぞ」
やれやれ、とアヌビスはため息をつきながら、身体をひねって「避」の球を避ける。
「ゆっくりしてる場合じゃないぞ。速度を競うものではないとはいえ、積極性を見せなければな」
「わかってるよ!」
アヌビスは恐る恐る、岩柱から飛び跳ねた。そしてつぎの足場に着地すると、球を避け、斬った。
そして、次の足場へと踏み出す。
最初の内こそたどたどしい動きで、周囲から置かれていってしまっていたアヌビスだったが、徐々に勘を掴み、その差を埋めていった。
(なるほど、だいぶ飲み込めてきた)
いまやアヌビスは、自らの肉体を、完全に掌握していた。
そして、集中力が最大に達し、すべての物が、より細かく、より広く見えていた。
しなやかに飛び、岩場を渡っていく。そして、球もすべて的確に処理していた。
背面に目がついているかのように、球がよく見えている。向かってくる球を斬り払う太刀筋も鮮やかであった。
周囲の者たちは、たかが九十一番台の試験、とそこまで期待はしていなかったものの、想像以上の武芸であり、目の覚める思いでその動きに注目した。
「ほう、きれいな七星歩法だ」と試験を見ていたハウランが言った。「よほど師匠がいいのだろう、動きがなめらかで無駄がない」
「三才剣法もよく修練されているようですね」とセルケトが言った。「基本の武功ですが、それだけに練度もよくわかるというものです」
アヌビスは流麗な体捌きで、ついに前方集団に取り付いた。追い上げる速度は、エリート達を上回っている。
それを知った受験生たちは大いに焦った。(毛も生えてなさそうなガキが)と、侮っていたアヌビスが、自分たち以上の速度を出しているのだ。無理もない。
「クソッ、差を広げてやる!」と一人の少年が高く跳躍した。しかし、それは焦りから、自分の動き・流れを乱れているということに気が付いていない。彼は着地で岩場から足を踏み外し、谷の底に落下していった。
「おいおい、もう一人脱落かよ!」と野次る別の受験生も、避けるべき球に当たってしまった。他人に気を取られてのスリーアウト失格である。
アヌビスは一人、また一人、と抜いていった。
その心は、空である。
いまや、誰かと競争している意識など、アヌビスにはなかった。
ただただ、普段修練しているときと、まったく同じ心境だった。
七星歩法を踏み、剣を振るう。七星歩法を踏み、剣を振るう。
その繰り返しのなかにアヌビスは没入していた。
それを見て、歯ぎしりをする者があった。
「あいつ、たった一か月で何があった……!」
オシリスの遺児、ホルスである。
ホルスは、アヌビスの流水のような変幻自在の動きを見て、わなわなと震えていた。
彼の見立てでは、ひと月前のアヌビスは、ずぶの素人だったはずだ。
それだけに、この成長速度は、心胆寒からしめるほどの脅威であった。
いや、正確に言えば、プライドが許さなかった。
(俺は、一族のすべての期待を背負い、母イシスの課す、非人間的とも言える過酷な修練を、毎日毎日休むことなくやってきた。俺の人生は、誰よりも過酷なものだったと、俺は自信を持って言える。なのに、あいつはどうだ? 俺以上の修練をしているとでも言うのか?)
ホルスの視線を他所に、アヌビスは九十一番以下の組で先頭に立とうとしていた。
またしても、周囲はどよめいた。「あんな小さい子が先頭だって?」「あの動き、見たかよ」「ありゃ大したもんだ、武の申し子だ」「末が楽しみだなあ」「俺はあいつに賭けたぜ!!」「なんで?」「かわいいから」「男だろありゃ」
それを聞くにつけ、ホルスは苛立ちが増す一方だった。それはまったく許し難い状況だ。
あのような下賤の者が、なぜ、この選ばれた血筋の俺よりも成長速度が速いのだ。
――才能のないものに生きる価値はない。
不意に、母イシスの声が脳内で再生された。
ホルスは、母親の声を振り払うように頭を振った。
――お前は父の仇を討つことを生きる意味と心得よ。お前の人生とは、セトを殺すためにある。
ホルスは顔をしかめた。拳で自らの額を軽く何度か打つ。
母の声は、彼にとって恐怖や強迫観念のもとでしかない。
やさしさや安心など、庶民が母に当たり前に感じるそれとは、あまりにもかけ離れている。
(……俺の積み重ねた地獄の日々の重みが、あの者に劣るなど、絶対にあってはならん)
ホルスは幽鬼のような顔で、暗い闘気をひとり纏わせた。
そして、とある決心をする。
ホルスは
――アヌビスを不合格にした者には、オシリスの秘宝を与える。ただし、失敗しても口外はするな。イシスの力を思い出せ。
受験生たちは目を見合わせた。それはマスダルに入学するよりも、割のいい提案かもしれなかった。なんとなれば、その学院は、入学するのも難しいが、卒業するのは、もっと遥かに困難だったからだ。卒業生が一桁という年次も過去にはあった。
九十番台の自分たちなど、とどこか諦めの気持ちも芽生えていたところに、この提案である。
腹はすぐに決まった。
彼らは剣を構え、まっすぐ終着点に向かうのではなく、アヌビスに狙いを切り替えた。
そして、白刃をきらめかせ、岩場を飛んだ――。
「アヌビス!! 危ない、避けろッッ!!」
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます