第41話 年寄りにとっては、10年や20年なんか最近なのさ
分厚い雲が、少しずつ引いてゆく。雲の切れ間から差し込む光が、収穫間近の麦の穂を照らし、雨粒がきらめく。
村の居酒屋では、主人がウイスキーを片手に常連客と談笑していた。居酒屋は昼間から営業しているが、鐘が15時を告げたばかりの今は、居酒屋にとっては休憩みたいな時間帯だ。
「先程は、祖父が失礼しました」
「あんた、さっきのじいさん
シモン卿を引き取りに来たのはリカとミシェルだったから、居酒屋の主人はアルベールに会っていなかった。
「詫びの品は、後日用意します。取り急ぎ、謝罪をと思いまして」
「いやいやいや、品なんて、いいんだよ。失礼なんて思っちゃいねえしよ」
「面白いじいさんだったな」
まだ居座る常連客からも、シモン卿は迷惑どころか好印象だった。
「シモン卿は、お喋りなさったんですか?」
「お、リカ嬢、突っ込むなあ。あのじいさん、口数は少ないが喋りは美味かったぜ。服が上品だったから、やっぱり貴族だったんだな。きっと、人と会って喋ることが多かったんだな」
居酒屋の主人は、営業中に一杯やるようないい加減な人だが、観察眼は鋭い。
「祖父は、何を話していましたか? 若い頃の話とかは?」
「若い頃のことは覚えてないって言ってたな。ポルトマーレの話題のとき、友人の話をしてくれた。ほら、結構有名な話があるだろう、石を積み上げて宮殿とやらを建てようとした郵便配達員の。あの人と友達だったらしい。身分を気にしなくて良いから、気楽だったんだと。最近、あの人に手紙を出したと言っていたな」
ポルトマーレにいた、宮殿を建てようとした郵便配達員の話を、リカも聞いたことがある。冤罪で警察に捕まったとき、留置場にいた女性が話してくれた。彼女は、アリス・ジョルジュ。郵便配達員は、彼女の父親だという。アリス・ジョルジュの口ぶりでは、その父親が亡くなったのは、20年近く前だ。
「年寄りにとっては、10年や20年なんか最近なのさ」
常連客が、グラス片手に気分良さそうに笑う。
「じゃあ、シモン卿は、ここ1年くらいの出来事は話していましたか?」
「1年くらい……この辺の別荘に引っ越してきたときの話はしてたぜ。末の孫に迷惑をかけて申し訳ないって」
「……お祖父様」
アルベールが袖で目頭を拭った。
「ちょっと、アル。感動してる場合じゃないって。ご主人、ありがとうございました。またシモン卿がお見えになることがあれば、お話を聞いてあげて下さい」
「もちろんさ。リカ嬢、あのじいさんの身内みたいじゃねえか。あれか、坊ちゃんと結婚でもするのか?」
「けっ……結婚!?」
リカが戸惑ってしまうと、アルベールが涙目のまま、さらりと答えた。
「婚約しました」
主人も常連客も一瞬黙り、沸いたように騒ぎ出す。
「おふたりさん、やるじゃねえか!」
「詫びの品なんか、要らねえ! 結婚祝いに持っていきな!」
「まだ結婚じゃないです!」
アルベールの訂正は、耳に入っていない。ワインボトルや酒のつまみ用のチーズ、ナッツ、燻製の肉を持たされ、賑々しく退店を見送られた。
「リカ、ごめん。失言した」
「でも、婚約したことを隠す必要もないよ」
「責任を取って、婚約します」
「……もう、してんだろ」
珍しく黙ったままだったミシェルが、ようやく口を開いた。
森に向かう道の前でアルベールと別れ、リカとミシェルは自宅に向かう。ジャンも、結局使わなかった傘と居酒屋で持たされた結婚祝いを持って着いてきた。
「何だか、懐かしいです。あのときは、滞在の痕跡を残さないように、なるべく人と関わらない生活をしていましたから」
「そうだったね。ジャン、今日は少しくらい休んでいってよ」
「アンジェリカ、すみません。お言葉に甘えます」
「ミシェル、ハーブティー淹れたいから、乾燥ハーブもらうよ」
「姉貴よ、言いたいことはわかるが、乾燥ハーブは脱法の響きがするぜ」
ミシェルは、饒舌になっても舌が回っていない。今日はミシェルにしてはかなりの距離を歩いた。健脚のリカには大したことがないが、杖を使うミシェルは疲れてしまう距離だ。
リカが湯を沸かしてハーブティーを淹れ、居間の
「それ、ローラン殿下のだよね」
「ええ。持って逃げるのが難しく、勝手に家の前に置かせてもらいました。結局、捕まってしまいましたが」
「その話、あいつから聞いた。姉貴の耳に入れても構わないと」
「そうなんだね。ジャン、これからは堂々とうちに来てよ」
「ありがとうございます、アンジェリカ」
「え、姉貴、俺のこと無視?」
ミシェルの話は聞いていたが、ローラン殿下に何があったのか気にはなっているが、根掘り葉掘り聞くような分別のない性格だと思われたくない。
ジャンが帰ってから、ミシェルから話を聞いた。
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