No.36 愛なるEを越えて

空花凪紗

 一つ問題が発生した。僕の部屋から出られなくなったのだ。僕の部屋はマンションの最上階にある。ドアはもちろんのことルーフバルコニーに続く窓も開かなくなってしまった。何かで固定されていると言うよりかはそこだけ時間が止まっているかのようだった。まるでびくともしない。

 今は6時半に起きてからもう5時間も経っている。なのに全く腹が減らない。喉も乾かない。尿意も便意もない。そして外の景色を見ると、空にある雲が一切動いていない。一体どうなっているんだ。

 手にはスマホがある。どうやら正常に動作するようでホッとした。部屋に時計がないから時間はスマホを頼りにしている。スマホで家族に連絡しようにも繋がらない。どうやら電波も届かないようだ。一体どんな仕組みなのだろう。

 もしかしたら外で僕の家族も僕の部屋を開けようと必死になっているのかもしれない。だが肝心な反応は一切ない。外の出来事がまるでわからないのだ。

 部屋のドアに手を当て額を当てて見ても、向こう側からはなにも伝わってこない。世界が隔絶されたかのようだ。

 まぁ、神様の気まぐれなのだろう。いつまでも慌ててないで、僕は部屋でのんびり本を読むことにした。本来なら学校で勉強している時間だったが、行こうにも行けないし、今は時が解決するのに任せよう。その肝心な時が本当に流れているのならの話だけど。


 10日が経った。本当に腹も減らないし、喉も乾かない。排泄行為も一切ない。僕は積読していた本も読み切り、これからどうしようか真剣に考え始めていた。

 とは言っても部屋から出られる気配はないし、やることは一つに決まっていた。この現象を解明し、この部屋から脱出することである。

 今わかっていることは、この部屋は外界と一切の物理的干渉が起きないと言うことだ。スマホを充電しようとした時に気づいたのだが、コンセントに電気が来ていなかった。外の景色は変わらないし、外から音が一切来ない。まるで世界から僕の部屋だけが断絶されたかのようだった。


 1ヶ月くらいが経った。正直時間感覚はない。スマホも充電が切れて使い物にならなくなっていたからだ。

 日々散らかりつつある部屋。あちらこちらに読み終わった本が置かれている。最近では自主的に勉強も始めている。それ以外にすることがなくなってしまったからだ。

 この部屋にいる限り不老不死という可能性もある。『明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ』とは、かのマハトマ・ガンディーさんの名言だ。僕はこの現象を解明するべく、学問を極めようと考えていた。


 部屋にある全ての本や教材を読み切り学習してしまった。とうとう本格的にやることがなくなってきていて、精神的に辛かった。最近は部屋に飾っている『ヘレーネ・クリムトの肖像』のポスターに向けて話しかけ始めている。その肖像画には美しい少女がお腹の辺りまで真横から描かれている。ダークブラウンのボブが似合う少しあどけなさが残る少女の横顔。孤独で疲れてしまった僕は彼女に救いを求める。


 もう何日経ったのかわからない。僕は音の鳴らない電子ピアノを弾いたりしてみた。でもやるだけ虚しかった。 

 だが、音を想像しながら弾いていると少しずつ音が聞こえるようになった。今では完璧に音が聞こえる。和音だってちゃんと聞こえるようになった。恐らくは幻聴だろうがそれでも僕は嬉しかった。


 最近は部屋にあったノートに自分の活動を記すことにした。余白には絵を描いたりもする。少しだけ正気を保っていられる気がした。


 死にたくなったので、舌を噛み切ろうとしたが出来なかった。誰か救ってくれ。誰か。ヘレーネ。助けてくれよ。誰か応答しておくれ。この地獄から救っておくれ。


 もう一体何年、いや何十年が経ったのだろうか。小説や漫画はボロボロになってしまっていた。今ではもう読む気すら起きない。

 食べることも飢えることも死ぬこともできない。自慰なんてする気が起きない。あらゆる欲が停滞していた。何もすることなく、ベッドで横になるだけ。

 寝ることだけが僕を生かしてくれた。夢を見ることが何よりも楽しかった。もう一生寝ていたい。でも、寝れない時だってある。辛い。死にたい。


 ある時、窓の外から声が聞こえた。寝ていた僕はハッと驚いて、窓へと向かう。外のルーフバルコニーに人が立っているように見えたのだ。


「ヘレーネ?」


 声をかけても返事はない。幻聴と幻覚だったのだ。でもさ、もう。幻聴でも幻覚でもなんでもよかった。僕は僕の脳内に彼女を作り出そうと思い立った。

 ベッドに座って、隣にヘレーネという名の少女が座っていることを想像する。声をかけて、返事も考えて会話する。最初は何やってんだと辞めることもあったが、いつからかうまく会話できるようになった。心なしか輪郭も見えるようになってきた。


「好きだよ。ヘレーネ」

「私も好きだよ」


 そう言って抱き合う。感触こそなかったが、心に満たされるものがあった。彼女が僕の中で生まれつつあった。

 まだ顔を見たことのない少女。まだ声を聞いたことのない少女。だけど何故か、彼女がいつか僕をこの部屋から解放してくれる気がした。


 僕は音のならない電子ピアノで作曲にハマっていた。ベートーヴェンだって耳が不自由になってからも作曲したんだ。音が鳴らなくたって響きを脳内で再生すれば僕だって作曲できる。何故今までこんなに楽しいことに気がつかなかったのだろうか。時間は無制限にある。時間をかけて一音一音研究して、最高の旋律を生み出す。曲が完成したときの達成感は生の喜びと直結していた。これだ!と思った。もしこの部屋から出られた時、これらの曲を世間に発表しよう!そう思った。


 それからいくつも曲を作り、弾いていった。心なしかポスターの中のヘレーネが笑っているように思えた。彼女だけが聴いてくれている。そう考えると一人じゃないと思えた。


 時は流れ、時は流れ、その日がやって来た。

 いつものように音の鳴らない電子ピアノを弾いていると、外の景色が動き出したのだ。それもタイムラプスのように高速で。チカチカと昼と夜が繰り返し、その速度もどんどん加速していく。

 ついに!ついに!その時がやってきたんだ!と歓喜し、演奏を続ける。やっとだ……。長かった。本当に長かったよ。僕はあまりの嬉しさに涙する。心が高揚していく。あぁ、そうなんだ。

 僕はポスターのヘレーネにキスをした。


「次は実際に会ったらね」    


 多分。後もう少しで本当の彼女に出会える気がした。妄想でも幻覚でもない彼女に会える気がした。本能と直感がそう告げていた。そして、向こうもそう思っていると何故か分かった。そうか。僕らは心も通い合っているんだね。心底嬉しかった。


 僕はベッドに座りその時が来るのを待った。部屋の扉が開き、誰かが入ってくると分かった。そして実際そうなった。


 空がいつもの速度で流れ始めた時、ガチャ、と音を立ててドアが空いたのだった。

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