第2部 「あたしたちの未来」
第26話 プロローグ
5月の連休明け、お昼休みの6年1組の教室。
水野絵里奈は、落ちていたゴミをひろって、立ち上がった。ふと壁を見上げる。
「あれ?」
壁一面に、クラス全員の作文がはってある。
朝見たときは気づかなかった。なぜかひとつだけスペースが空いている。きのうまで、そこには絵里奈の作文がはってあったはずだ。背中がひやりと冷たい。
ゆっくりとあたりを見まわした。
教室のすみに置いてあるゴミ箱に目がとまる。引き寄せられるようにゴミ箱の中をのぞきこんだ。
思った通り、ぐしゃぐしゃの原稿用紙がすてられていた。
絵里奈はそろりと手を伸ばして、原稿用紙を手でつまみだし、かわりにさっきひろったゴミをすてた。
原稿用紙を広げる。
1学期のはじめに、国語の授業で絵里奈が書いた作文。題名は、6年1組全員同じ、「わたしの未来」だ。
「わたしの未来」 水野絵里奈
わたしの未来の夢は、世界の、まずしい人たちを助けることです。
わたしがおいしいご飯を食べているときに、地球のうらがわには、どろ水を飲んでがまんしている子どもがいます。わたしが温かいシャワーをあびて、きれいなベッドで寝ているときに、きたなくて冷たい下水道の中で、くらしている子どもがいます。わたしが学校で勉強しているときに、まずしくて薬が買えずに、病気で苦しんでいる子どもたちがいます。
世界中のすべての子どもが、お腹いっぱい食べて、幸せになれるように、わたしは大人になったら、赤十字か、国連で働きたいです。
一生懸命勉強して、がんばって、かならず夢をかなえたいと思います。
未来のわたしは、まずしい人たちのために、働いているはずです。
絵里奈は、自分の席にもどって、机の上にぐしゃぐしゃの作文を広げた。
お昼休みの教室では、女子は数人ずつかたまっておしゃべりしている。開けはなした窓からの日ざしがまぶしい。校庭で、男子が遊ぶ声が聞こえてくる。
指先がこわばって冷たい。手の平に、ぎゅっぎゅっと力をいれて、作文のしわをのばす。
だれも絵里奈を見ていない。話しかけてこない。絵里奈もだれにも話しかけない。
いつもと同じ6年1組の教室。
絵里奈は、広げた作文を、教室の後ろのかべにはり直した。しわのついた作文を、少しはなれて見上げる。
くるっと背を向け、すぐに教室を出て、職員室に向かった。
階段を駆け下りて、廊下を大またで、ずんずん歩く。
歩くうちに、だんだんお腹の中が熱くなってきた。
職員室をノックして、いきおいよくドアを開けた。
6年1組の担任の鈴木先生の席は、左のおくにある。絵里奈は職員室の机の間を、まっすぐに歩いて行った。
鈴木先生の席にクラスの女子が2人来ていた。絵里奈が来たことに気づくと、さっと席をはなれていく。手に、お菓子の小さな袋を持っているのが見えた。
鈴木先生が絵里奈に顔を向けた。
「あたしの作文が、ゴミ箱に捨ててありました!」
絵里奈の言葉に、鈴木先生は一瞬、まゆを寄せて、顔をそむけた。
「だれが捨てたのかもわからないんだろう。とにかく、帰りの会でみんなに言っておくから」
先生は、これで話は終わったというふうに、机に向き直った。机の上に、さっきの子たちが持っていたのと同じ、お菓子の袋が置いてある。職員室ではお菓子を食べてもいいのかもしれない。でも、あの子たちは、手に持って職員室を出て行った。
「先生、教室ではお菓子は禁止です」
絵里奈の言葉に、鈴木先生は下を向いたまま、小さく舌打ちした。
そのままなにも返事がない。絵里奈は、しばらくその場に立っていた。
すると鈴木先生が、いらただしげな顔で、手ではらいのけた。
「もう話は終わりだから。教室にもどれ」
意味がわからない。話はぜんぜん終わってない。でも、これ以上ここにいても、どうにもならないということだけは、絵里奈にもわかった。
教室にもどった絵里奈は、だまって自分の席にすわった。だれも絵里奈を見ない。だれも絵里奈に話しかけてこない。……いつもどおりに。
足元に、だれかがすてた紙くずが落ちているのが目に入った。ひろおうと思ったけれど、体が動かない。
その瞬間、とつぜん、わかった。
——ここに、あたしは必要ないんだ。
当番も日直も掃除も一生懸命やってきた。クラスのみんなのために。
でもムダだった。何の意味もなかった。
次の日の朝、絵里奈は、お腹が痛くなって学校を休んだ。
その次の日は、お腹は治ったけれど、頭が痛くなって、学校を休んだ。そのまた次の日は、またお腹が痛くなった。
お母さんは無理しなくていいって言ってくれた。
6月になり7月が過ぎ、結局、電池が切れたみたいに学校に行けないまま、夏休みになってしまった。
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