第7話 パンケーキ作り
ぼくは、ひざのうえに置いたこぶしをぎゅっとにぎりしめた。さっきまで話そうとしていたことがすべて消えて、頭が真っ白になってしまった。
空が腰を浮かせて低い声で言った。
「裏切るやつは、おれがぶっとばしてやる」
空は、言いたいことを言って満足という顔でイスに座った。その瞬間、言いようのない感情がこみあげてきて、思わず口を開いた。
「ううん。それじゃ解決にはならない。空君はそれでいいかもしれないけど、悪いやつは、見えないところで、仕返ししてくるんだよ。それも、空君にじゃなくて、空君の友達や、周りの人に。やりかえしたら、もっとひどいことになるんだ。だから、何もできない。何も期待しない。何も信じられない」
向かいに座る美遊が青白い顔で、くちびるをかみしめている。その表情に、優斗の顔が重なった。胸の中に重苦しい思いがわきあがる。
「ぼくは、どん底にいるんだ。最低最悪の、もうこれ以上、落ちるところはないっていう最底辺、それが現実なんだ。イジメはなくならない。だからしかたないんだって思わなきゃ、やりきれない。ぼくは、そういう場所にいたんだ。それをなかったことにしないでほしいんだ」
そこまで一気に話した。
もうどうにでもなれという気持ちだった。
「光太郎君」
話しかけてきたのは瑠子だった。
「そういう場所にいた、って言ったよね。過去形で「いた」って。今は違うよね?」
ぼくは顔を上げた。
瑠子はぼくに話しかけていた。ぼくの目を見て。
ぼくは、順番にみんなを見た。
真面目な顔の空。どこか不安げな力。美遊は小さくうなずきかえしてくれた。詩季も今度は顔をそらさなかった。
みんなが、ぼくの話をちゃんと聞いてくれていた。
誰も無視せず、バカにもせず、あざわらうこともなく。
「今は、違う……かもしれない」
ぼくは、笑おうとして、泣き笑いみたいな顔になってしまった。
みんなが、それぞれにうなずく。
教室に拍手の音が響いた。
真名子先生が手を叩いていた。
「いいディベートだった!」
その瞬間、ホッとして体の力がぬけた。
誰かに向けて、こんなに長くしゃべったのは、本当に久しぶりだった。今になって、ちゃんとしゃべれたかどうか、自信がなくなってきた。
そんなぼくの気持ちを見抜いたかのように真名子先生が、ほめてくれた。
「光太郎! それでいいんだ。気持ちをちゃんと言葉にして言えた。それが大事なんだ」
ぼくは、ふうっと大きく息をはきだした。思っていた以上に緊張していたみたいだ。
「先生、これっていったい、なんの勉強なんですか?」
先生が、白い歯を見せて微笑んだ。
「これはな、気持ちを言葉にして伝える、すごく大事な国語の勉強だ。自分以外の人のことを知る社会の勉強でもある。学校の勉強っていうのはな、生きてくために役立つんだよ。算数だって知らなかったら買い物もできないだろう? 理科で自然を知ることも大事なサバイバルだ」
先生の言うとおり、次は、ふつうの算数と理科の授業だった。
そして昼になると、給食の代わりに、調理室で、みんなでホットケーキを作ることになった。
瑠子がボールを持ってきた。
「わたしが卵を混ぜるから」
すると横から空がひょいと片手で卵を割り入れた。
「どう? 」と得意げだ。
美遊がマネして、片手で卵を割ろうとして、カラごとつぶれて床に落としてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫だよ」
ぼくはキッチンペーパーでこぼれた卵をふきとった。瑠子はボールを持ったまま困った顔をしている。
「卵が足りないわ」
ホットケーキミックスの粉には、決められた分量の卵と水と牛乳を入れる。どうして卵の量が決まってるんだろう。
「じゃあ、水を多く入よう」
ぼくの提案に、瑠子が首をふる。
「だめよ。ふくらまなくなっちゃう」
瑠子の後ろで、美遊が青い顔をしている。
ぼくは、とっさに考えたことを言ってみた。
「じゃあさ! 実験しない? 卵入れたのと、入れないのと、どのくらいふくらみ具合が違うか!」
空も目をかがやかせた。
「やろうやろう!」
卵ありと、卵なしでは、やっぱりふくらみぐあいがちがったけれど、ちゃんとホットケーキになった。
詩季は、はちみつをかけないで卵なしを食べている。
「うん、モチモチしていける。あたしこっちのほうがすきかも」
「黒蜜とかかけてもおいしいかもね」
ぼくの言葉に、美遊の顔がパッと明るくなった。
「こんど持ってくる! おばあちゃんが黒蜜好きだから」
「うん、いいな。今度は和菓子も作ってみよう」
真名子先生もおかわりした。
そうしてサバイバル教室の一日目が終わった。
帰り際、瑠子が、ぼくの胸のバッジに目をとめた。
瑠子も、バッジをつけている。ただし、瑠子のバッジの色は、青だ。どう見ても、それはパンダちゃんには見えなかった。
ぼくは、自分の胸のバッジに指先でふれた。
その瞬間、心が通じた気がした。
ドクロのマークの元に!
横から詩季が顔を出した。
「だっさいパンダ!」
瑠子とぼくは、顔を見合わせた。瑠子は何とも言えない表情をしている。詩季の胸にもワッペンがあった。色は黄色だ。ちらと横を見る。美遊のワッペンは、ピンクだ。みんな色が違う。
「ワッペンの色って、どうやって決まっているの?」
ぼくの問いかけに、瑠子と美遊は顔を見合わせて、首をひねった。
そこにとおりがかりの空がこたえた。
「さあ? 適当なんじゃない?」
そういう空のワッペンは、紫だ。
もうひとり、力のワッペンは緑。
ぼくはもういちど、自分の胸のワッペンを見た。赤……は、リーダーの色だ。小さかった頃、なりたかったヒーローの色。思わず、ワッペンを手でかくした。
瑠子がほほえむ。
「光太郎君、また明日!」
みんなと分かれて、ぼくも家に帰った。
家に帰るとお母さんにいろいろ聞かれた。
先生はどんな人だったとか、クラスにはどんな子がいたかとか。ひととおり話を聞くと、お母さんが、明日のお天気の話をするみたいに言った。
「明日から通うのね」
ぼくは、考えるより先にこたえていた。
「うん、行く」
その夜、夢を見た。
学校の教室の夢だ。
ぼくは、教室にいて、イスに座っている。うつむいてふるえながら、机の上をみつめている。
カツカツと近づいてくる靴音がする。四角くて固くて、ふまれたら痛い五センチヒールの黒い靴だ。
「あなたたち!」
荒引先生のヒステリックな声に、ガクガクと体がふるえる。続けて、イライラした舌打ちの音に、ぼくは、びくっと体をちぢこませる。
「いいかげんに本当のことを言いなさい!」
口の中がからからにかわいて、声が出ない。
ガッガッと、床がけずれそうな勢いで、ヒールが何度も床をける。
続く舌打ち。
ぼくは……言葉をしぼりだす。
「違います……ぼくじゃない」
「……ぼくじゃない」
声がかぶった。
ぼくは怖くて、となりを見ることができない。
となりに座っている、優斗の顔を見ることができない。
そのあと荒引先生が何と言ったのか、思い出せない。
ぼくはふるえながら、目覚めた。
泥のような重苦しい夢からさめてしばらく、自分がどこにいるのかもわからなかった。
ベッドの中で、自分の手を見る。部屋の中を見回す。
夢だと分かってからも、心臓のドキドキはおさまらなかった。
これは夢だけれど、夢じゃない。放課後の教室で、荒引先生に言われたセリフのひとつひとつまで、現実にあったことと一緒だ。
ぼくは、手で顔をおおった。
ぼくは、夢の中でも、ウソをついていた。
部屋の外で、トントンと階段を上がってくる音がした。
「こうちゃん! 朝ご飯食べるでしょう? チーズトースト焼いたからいらっしゃい」
ぼくは、ベッドからはね起きた。
「今いく、お腹ペコペコだよ!」
ぼくはまた、ウソをついた。
すこしもお腹なんてへっていなかった。
でも、ぼくはお母さんが作ってくれたチーズトーストを食べて、サバイバル教室に向かった。
サバイバル教室には、待っていてくれる人がいる。ぼくを信じてくれる人を、もう絶対に裏切らない。そのためにどうすればいいのか、ぼくはまだ答を見つけられていないけれど……。真名子先生なら教えてくれるかもしれない。
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