第10話 フラワーショップ

 高梨拓真は悩んでいた。青草と花粉の匂いが混ざり合う店先で、かれこれ10分は悩んでいる。見るに見かねたフラワーショップのスタッフが声を掛けて来た。


「お探し物はなんでしょうか?」

「えぇと、その」


 拓真の視線は、ショーケースの中に咲く艶(あで)やかな深紅の薔薇に向けられた。然し乍ら、それは直ぐに逸らされた。初めての贈り物に薔薇の花束は気分的に重いだろうと考えた。


「お誕生日ですか?」

「いえ、違います」

「何かの記念日のお花ですか?」

「記念日、記念日でもないです」


 今夜は仕事がいつもより随分早く終わった。時計の針を見れば19:00を過ぎたところだった。小鳥は火曜日が公休で、予定がなければ自宅にいる筈だ。拓真は敢えてメッセージツールを使わず、突然アパートを訪れて小鳥を驚かそうと考えた。


(お土産は何が良いかな)


 以前、カヌレ(フランス菓子)を薦めてくれた事を思い出し、パティスリーの店の前に立ってみたが、数日前に小鳥が「ダイエットしているの!」と話ていた事を思い出した。


(こんな甘いお菓子買って行ったら怒られるよね)


 そこで目に留まったのが隣接するフラワーショップだった。店内に足を踏み入れた拓真は、その華やかな空間に気圧(けお)された。見た事がある花といえば小学校の花壇で揺れていたチューリップや薔薇くらいで、注文しようにも名前が分からなかった。


「初めて彼女にプレゼントするんです」


 そう言葉にした途端、胸の高鳴りを感じた。


「彼女さんに!それは素敵ですね!花束にしますか?」

「その他に何があるんですか?」


 スタッフは奥から大小の籐(とう)の籠を取り出し「フラワーアレンジメントにも出来ます」と笑顔で言った。拓真はその場面を想像した。

「はい」「ありがとう」、その籠では味気ない気がした。


「花束でお願いします」

「かしこまりました。その方のイメージや好きな色はございますか?」


 拓真はバーベキューの場で小鳥が白っぽいシャツを着ていた事を思い出した。


「・・・・白!白でお願いします!」


 ただ店内には白があちらこちらに咲いている。スタッフは一呼吸置くと「、はいかがでしょう?」と提案してきた。


ってなんですか?」

「花言葉です」


 その花の名前はヒナギク、デイジーと呼ばれる清楚な花だった。控え目な真っ白い花弁(はなびら)が放射線を描き、朗(ほが)らかな小鳥を連想させた。


「それ、その、ヒナギクを下さい!」

「ヒナギク、白で宜しいでしょうか?色違いもあります」


 確かに、隣のバケツには薄紫や黄色のヒナギクが笑っていた。


「白だけでお願いします」

「何本でお作りしますか?他のお花も入れますか?」

「他の花」

「このお花を入れると華やかになります」


 スタッフは白い細かな花を付けた霞草(カスミソウ)を1本取り出して見せたが、拓真は首を横に振った。


「ヒナギクだけで作って下さい。両手で抱えられるくらいの大きな花束でお願いします」

「抱えられるくらい、の大きさですか?」

「はい!そのバケツいっぱいのヒナギクを下さい!」


 拓真は夏のボーナスの数割を注ぎ込んで、フラワーショップの白いヒナギクを買い占めた。


「ありがとうございました!」

「ありがとうございます」


 薄荷(はっか)色のサテンリボンで結えられたヒナギクの花束は想像した以上に豪奢(ごうしゃ)で、駅のホームでは他人(ひと)の視線を集め、拓真は気恥ずかしく額に汗をかきながら電車に揺られた。


プシューーーー


 帰宅ラッシュの乗客が次々と電車に乗り込み、拓真は花束を庇(かば)いながら吊り革に掴まらなければならなかった。車窓には秋を感じさせる少し寂しげな夕焼けが広がり、ポツポツと家の明かりが灯り初めていた。


(あー・・・・・でも)


 突然、アパートを訪ねて小鳥に迷惑な顔をされないだろうか?


(うーん)


 もし、家を留守にしていたらこの大きな花束をどうしようか?拓真は電車の窓ガラスに映った自分の顔を凝視しながら、思い付きで行動してしまった事を少しばかり悔いた。


(でも、小鳥ちゃんに会いたい)


 走り出した思いは止まらず、小鳥のアパートに程近い駅で電車を降りた。初めて見るホームに戸惑ったが、人の流れに乗って階段を降りた。ふと見ると数輪のヒナギクの茎が折れていたが、あの人混みでは致し方なかった。


(あ、ここで買えば良かったかも〜!)


 地図アプリを見ると駅前にフラワーショップのアイコンが表示された。混雑した電車の中で花がへし折られるくらいならこの店で買えば良かったと一瞬後悔したが、それはすぐに訂正された。通りすがりに覗いた店は、高齢の女性が店番をしている古めかしいで、仏壇や墓に供える花が並んでいた。


(ここで買わなくて良かった)


 点滅する横断歩道を小走りで渡ると、道が三叉路(さんさろ)に別れていた。暗がりで携帯電話を覗き込む。


(ええっと、こっち?)


 青い丸印は右側の細い道に向かえ、と拓真を誘(いざな)った。


(ここが小鳥ちゃんの住んでいる街かぁ)


 拓真のアパートの隣の家にはよく吠える柴犬がいる。そして一方通行の道を挟んだ大通りにはコンビニエンスストアがあり、ざわざわと落ち着かない。


(静かだなぁ)


 小鳥の住む街は閑静な住宅街で、拓真の革靴の音がコツコツと響いた。


(え〜っと、この先を左、左かな?)


 電柱の数を1本、2本と数えるごとに心臓がドキドキと跳ね、花束を抱える肘(ひじ)に力が入った。か細いひぐらしの鳴き声があちらこちらから聞こえる楓(かえで)の公園を通り過ぎると白いアパートが見えて来た。


(ティアハイム、ここだ)


 深夜の電話で話していた事が正しければ、ここが小鳥のアパートだ。部屋番号は305号室、部屋は建物の一番奥で駐車場は一番手前だと話していた。一番手前の駐車場にはペールブルーの軽自動車が停まっていた。ボンネットが熱かった。


(どこかに出掛けていたのかな?)


 振り仰げばアパート3階の一番奥の部屋に電気が点いていた。小鳥が部屋にいる事は間違いなかった。郵便ポストにはSUGAの文字が並んでいた。振り返るとエレベーターがあり、それは3階で止まっていた。


(帰って来たのは小鳥ちゃんだったりして)


 拓真の思考回路は全てが小鳥に繋がっていた。エレベーターのボタンを押す指先に力が入った。下降してくる箱、上気する頬、こめかみが脈打った。


ポーーン


 3階のフロアにはカレーの良い匂いが漂っていた。思わず腹の虫がグゥと鳴った。


(そうだ、お昼、おにぎり一個しか食べてなかった)


 そんな事を考えながら扉の数を数えた。白い扉には305とあった。拓真はゴクリと唾を飲んだ。一呼吸置いてインターフォンのボタンを押した。


「はーい!」

「小鳥ちゃん、僕だけど急にごめん」

!今、開けるね!」

「・・・・え?」

(来ると思ってたって、どういう意味?)


 開いた白い扉の向こうには満面の笑みの小鳥の姿があった。


「丁度良かった!福神漬け買ってきたの!」

「福神漬け?」

「拓真、赤い福神漬け好きでしょ、はい、入って入って!」

(・・・え、好きだけど。なんで知っているの?)


 拓真は小鳥に腕を引かれ、カレーの香りが漂う部屋の中に招き入れられた。

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