長井パラダイム
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長井翠の新たな一日
長井翠は今日から身分がランクアップする、とある人間である。
「っはよーございまーす」
おはよーございまーす。心の中で、翠は呟いて着席する。まだクラスの雰囲気に染まらない教室は、翠をどうでもいい考え事に簡単に誘導していく。
今日から高校生かー。
そう思うと、翠の脳内には高校生ならではの色んなことが即座に浮かんでくる。ちょっとレベルの高い寄り道だとか、恋人とのどうたらこうたらだとか。高校生といえば遊びの印象ばかり浮かぶ、典型的な元中学生の翠である。ちなみに、一応中学のときは優等生っぽく振る舞っていたので、まだカラオケに友人だけで入ったことはない。自称歌うまい系だと思っている翠がカラオケに行って目の前の点数に驚愕するのはまた別の話。
さて、そんなあるあるの思想が宙を舞う中で、またあるあるのように一つの疑問が湧くだろう。
「果たして長井翠は友人なるものを作れるのか?」
あ、うっかり口に出てしまった。急いで、何もなかったよ? と、鞄を探る仕草をしようとするが、
「長井、なんか言ったか?」
できなかった。
「いえ、何でもないです、はい、すみませんっ」
まくしたてるように早口で謝ると、担任は訝しげに翠を一瞬見たが、すぐに視線を外して再び話し始めた。よし、これで何もなかったことになる……はずがない。思いっきしクラス全員と目があったし、こうして事が終わった今もひそひそ声が聞こえてくる。やばい、早々高校生活詰んだかもしれん。
などと思いつつ、実はその点に関して、翠は何一つ心配をしていなかった。知り合いがいるというわけでも、自身の絶対的なコミュ力を信じているわけでもない。ただの楽観視。
聞いて呆れるかもしれないが、これが翠の取り柄である。今まで、この楽観視のお陰で日々のプレッシャーを乗り越えてくることができた。その代わり、気の入ってないマイペースな奴だと思われている気がするけど。
「――そういうわけでー、高校生になった自覚を持って日々生活していくようにー。じゃあ、今日の流れについてもう一回確認するぞー。長井、この後どこに向かうんだっけー?」
「……ふぇ?」
全然聞いてなかった。
「長井、この後どこ行くんだっけー?」
丁寧に担任がリピートしてくれるがしかし、そもそも話を聞いてない翠に分かるはずがない。こ、この後どこ行くか? そんなの
「カラオケに決まってます!」
「……え?」
……。
うーん、これはとても。
幸先が悪そうだ。
* * *
そんなこんなで、カラオケ、ではなく入学式を終え、再び教室へ戻りホームルームをすることになった。入学式について何かコメントを残すようなことは起こらず。強いて言うなら自身の担任が国語科で、そういえば口調が国語科みたいだったなーと思い返したこと。いつか自分が担任にお世話になるようなことを起こすかもしれないな、と翠は思った。根拠のない考え。もちろん中学ではそういうことを起こしたことは一回もない。
「ってなわけで入学式が終わったなー? ということは明日から通常授業がいよいよ始まるってわけだねー」
一瞬で現実に引き戻していくあたりやはり学校というのは鬼畜だ。担任がしゃべっている間に配られた通常時間割に、「数学きちー」「古典って何やんの?」「水曜の時間割軽すぎね?」とクラスの面々は多種多様な反応を見せる。しばらくざわめきが落ち着かないと思ったが束の間、担任は「時間割に集中して、長井みたいに大事な内容聞き逃しても知らねーぞー」と遮って次の話を始めた。って、なんかディスられた気が。
「さて、そう言っても明日の一限はホームルームに変わるから安心しろー。あ、そこで役員決めするから今日の間になんの委員になるか考えておくようにー。他に質問がなかったら終わるけど、何かあるー?」
ふーん、役員決めか。
「あ、あの」
翠が窓に反射する担任の姿にこれからの学校生活の苦悩を投影していると、後方のざわめきから声が聞こえてくる。見ると、めちゃめちゃクラスのリーダーですよーみたいな、穏やかーな雰囲気をまとった女子。
「ん、どした?」
「委員って具体的にどんなのがあるか確認したいんですけど……」
あ、確かに。全然目がいかなかった。
「あー、じゃあ黒板に後で書いとくからそれ見といてー。じゃー、号令ー」
そうして翠がリーダー格の行動力に感嘆したのを限りに、ホームルームはお開き、あとは写真撮影その他、要は自由となった。すぐにクラスはいくつかのグループに分かれる。翠も、中学時代の同級生たちと共に恒例の写真スポットに向かった。
「はい、チーズ!」
幸いにも空には一面青が広がり、写真撮影には絶好のコンディションだった。
そんな空に響く。
パシャパシャパシャパシャパシャ。
一体何枚撮ったんだと言わんばかりの連写に、毎度のようにまたリアクションをとると「いつの時代に生きてんだ?」とこれまた毎度のように顔をしかめられた。こっちがお前らいつの時代に生きてんだと問いたい。いつになったら同じ写真を何枚も撮って得が生まれる世の中になるんだ? そう言うと、「そんな細かいこと気にしてるなんて、人生楽しそう」と返された。解せぬ。
「これくらい撮ればいいでしょ。じゃ、写真送っといてー」
「ん、あいよ」
もちろんさっきのくだりから分かるように、写真を撮っていたのは例の連写ニキであり自分ではない。二つ返事で承諾した連写ニキから送られるであろう同じ写真の数々を想像して、翠はひとりでに絶望した。
そうして彼らとの最低限の写真を撮り終え、まだ名前も知らない他のクラスメイトらとすれ違いながら親の元に向かう。少し人混みから離れたところに母親だけがいた。翠が声をかける前に母親に気づかれる。
「あ、入学式お疲れ様。友達との写真はこれから?」
「いや、もう撮ってきたよ」
「そう。なら、この後昼食でも食べに行かない?」
「んー、どうしよっかな」
カラオケいこっかなー。
「カラオケ行けばいいじゃん」
「心読んだ?」
母親は満面の笑みを浮かべ、「カラオケいいじゃーん、青春しようぜ高校生諸君」といって翠の背中をぱんっと音を立てて叩いた。ちょっと痛い(ダブルミーニング)。
じんじんとする背中をさすりながら「どちらにせよ、なんか寄り道したい気はするから歩きで帰る」と告げて、母親の車がある学校の駐車場とは反対方向、まだ出入りが盛んな正門から出ようとした。
って、そういえば。そう思うことに脳のリソースを集中させた翠は歩みを止めたことに気づかず、後ろを歩いていた人たちに迷惑をかけてしまう。翠はそんなことはそっちのけで、華麗なUターンをして教室に戻った。
「どんなんあんのかな……ってあっ」
タタタタっと階段を上り辿り着いたのは数十分前にいた教室だった。さっきの国語科の担任の話をちゃんと聞いていた翠は役員一覧を見ようとその時思い立っていたのだ。いたのだが……。
「あ、長井さんだっけ?」
彼女と翠以外には誰もいない教室と、もうすぐ正午を回りそうな光が心地よいコントラストを生み出していた。とかいうのはどうでもよく。
なんで、このタイミングに、この人が。
「長井さんもこれ見に来たの?」
「あ、えと、その、あの」
名前なんだったっけ?
「こそあど言葉?」
えーと、えーっと、うーんと。
「岩瀬!! 岩瀬さんだ!!」
「わっ、何? 私がどうかした?」
至近距離で突然大声を出したものだから、彼女がびっくりするのは当然だ。で、なんだったっけ。
「え? 長井さんがなんでここにいるのかなって」
しまった、声に出てた。
「あ、役員一覧見ようかなって思って、はい、すいません」
「なぜに敬語?」
ふふっと笑う岩瀬は、さっき国語科の担任に質問した勇気あるクラスメイトである。
「長井さんはどの委員になろうと思ってるの?」
自分を落ち着けるのに身体の全エネルギーを使おうとしている翠に対して、岩瀬は初対面でしかも二人きりなのに会話のタネを振ってきた。翠の中での岩瀬好感度ゲージが体感十パーセントくらいあがる。全体が何パーセントあるかは知らない。
「んー、どう、ですかね……」
岩瀬にしか目がいっていなかった翠は改めて、黒板に書かれたそれらを見る。と、ある役員に目がいった。
「図書委員……」
「図書委員ね! 面白そうだよねー」
それもなくはないが、図書委員という文字を見て一つ思い出されたことがあった。
「この高校って確か図書館運営を行ってるって聞いたことが」
「そうそう! でも志望する委員も多いって聞くよね」
そうだよねー、と後は当たり障りのない会話をしながら数分を過ごしたところで、岩瀬が「って忘れてた、この後用事あるんだった!!」と人に見せるような驚き顔を見せたので、一緒に帰るような勇気を持ちえるはずもない翠は一人教室に残ってしまった。とはいえここにいてもどうしようもないので、岩瀬と5分くらいタイミングをずらして教室を出る。
校舎の二階に高校一年生の教室は位置している。中庭に面して囲むように作られている校舎からは、どこにいても中庭を見ることができる。今は、玄関口の写真撮影に人が集中してがら空きになっているそこを見ながら、翠は一人廊下を歩いた。ふと、中庭に数本生えている木に目が行く。気になったことは即行動に移すタイプの翠は、数十秒後には中庭にいた。
ソメイヨシノ。
そう書かれた看板の上には、満開の桜が立っていた。
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