2-5
*****
先ほどまでの怒りも忘れてふたりに着てもらいたい仮装衣装をぐいぐい
是非お
そしてふたりきりになるなり、また顔を見あわせて、深く頷きあった。
「そのビビアナという人、
「だね、今のは荷馬車にあった残り香とまったく同じだった。ビビアナ・ベナトーラか、なるほどね……うん、確かに例の
「寵姫って呼ばれてましたけど、ガルフォッツォ国王の……?」
「そう、あの痩せぎす男の寵姫、ビビアナ・ベナトーラ。この王宮において、けっこうな有名人だよ。国王の数いる
ルーナが苦笑しながら肩をすくめる。
「もっとも、王宮内の人々からの
「じゅっ……!?」
ニコラは
「あの寵姫なら、今回の婚姻潰しの首謀者というのも充分ありえるね、それだけの力を有している。国王の目下いちばんのお気に入りでそれなりに権力もにぎってるし、愛人という名の手下たちもたくさん飼ってるから」
「ですけど、そんな何もかも思うがままみたいな人が、どうしてこんなことを……?」
そうだねぇ、とルーナが思案するように己の顎をさする。
「あの寵姫は、目の届く
「う、うわぁ……!」
「彼女の
「殿下のような誰よりも可愛くて素敵な方がやってきたら、あらゆるいちばんの座は絶対に殿下のものになりますもんね……! それにしても本当にお針子さんたちに言われてたとおり、ガルフォッツォ国王はだいぶ趣味が悪いような……」
「恋は時に人の視野を狭めるからね。ただ、残り香っていう
ルーナは
「装飾品から剝がれ落ちたものだと思うんだけど、これが欠損してる状態の
ルーナが床に積み上がった布の山を指し示す。先ほどお針子たちからどさどさと渡された仮装衣装だ。
「寵姫ビビアナが大広間の仮装舞踏会にちょうど参加中らしいから、行ってみよう。舞踏会で浮かれてる最中なら油断も出るし、
さて、とルーナは仮装衣装の山と向かい合って、どれを着るか選びにかかる。ニコラもまたしゃがみこんで、一着一着手に取ってみる。
飾られているものもやはり男物ばかりで、女物はすべて寵姫ビビアナの香水の
「あ……」
一着だけ、片隅に女物が残っていた。深い漆黒の、美しいドレスだった。
(きれい……細身で
自分が着ることを思わず想像してしまったニコラはぶんぶんと頭をふって気を取り直す。
自分が着るべき男物のほうに目を戻す。
「俺は……これかな」
ルーナが一着を手にして、じっと見つめていた。それは彼が今着ている騎士服と同様に白を基調とした衣装だったが、ユマルーニュ王国風の華やかな宮廷服だった。
「仮装だからね。せっかくだから……
彼は妙に真剣な目をしていた。やはりガルフォッツォの人間だと、この儀式ともいえる仮装舞踏会という催しに特別な思いでもあるのかもしれない。
ぱっとルーナが上着を
るべき仮装を山の中から探しにかかる。目立たないよう無難なものが良さそうだが、しかし仮装の群れの中だとかえって地味なほうが目立ってしまうのかもしれない。悩みながらも知らず知らずのうちに片隅の美しい漆黒のドレスへと目が引っ張られている自分に呆れて、ニコラは何度も
「ニコラ、これって今の流行りの結び方とかってある?」
「あ、はいっ! お手伝いしますっ」
ぱたぱたとルーナに駆け寄ったニコラは、彼の襟元にスカーフを巻き結ぶのを手伝う。
「手慣れてるね、結ぶの」
「なぜだか着慣れちゃってるものですから……」
ルーナのしっかりとした
「どうかした?」
「い、いえ! 鍛えてらっしゃるなあと、思いまして……」
「まあねぇ。王国を背負う身だからね」
本物の騎士とは大変なものなのだなぁとニコラは感心した。騎士でもないのに騎士服を気軽にほいほい着用してきたことが何となく後ろめたくなる。
結び終わって、壁に
「おお、似合う……!」
宮廷服特有の華やかさにルーナは少しも負けておらず、あつらえたかのように実によく似合っていた。騎士服を着て
しかしルーナは苦く笑った。
「俺にはやっぱり似合わないでしょ、ユマルーニュ風の衣装は」
「えっ、似合ってますよ。向こうの舞踏会で見たどの男の人よりずっと、しっくり馴染んでると思いますけど」
しげしげと全身に見入りながらニコラがそう言うと、ルーナは少し驚いたように黒い双眸を
「なんだか嬉しいな……そんなこと初めて言われたな……」
「え?」
ぼそりとルーナが落とした声が聞き取れなくてニコラは聞き返すが、なんでもないよと彼は首を横にふり、逆に問いかけてくる。
「ニコラは決まったの? 着るもの」
「あっ、はい、一応……」
ニコラは男物衣装の山から一着を手に取って、それからルーナをじっと見上げた。
「あのうルーナさん、えっと、先に出ててもらえますか……」
「え、なんで?」
「なんでってそりゃあ! 私こんなですけど、男みたいですけどっ、一応これでも乙女でして! 着替えをしたいので!」
「なんで、それなの?」
ルーナがニコラの手元の男物を指差す。
「なんでって、無難かつ地味すぎない感じがちょうどいいかなぁと思いまして……」
「ダメでしょそんなの。こっちにしなよ」
ルーナは足早に部屋の
「これ着てみせてよ。ニコラもさっきからちらちらちらちら見てたでしょ」
「みっ見てませんよ!? ていうか見ないでくださいよ私のことなんて!」
「そっちばっかり俺のこと見ておいてそれはないでしょ。俺だってニコラを見たいんだけど」
「何言ってんですか!? とっとにかく私は! 仮装といえどもそんな確実に似合わないものはっ」
「何言ってんの、確実に似合うよ。君の雪の肌と黄金の髪にこの漆黒はよく
はい、と
「じゃあ俺はお先に。大広間は廊下に出て左の突き当たりね。楽しみにしてるよ」
ひらひらと手をふりながらルーナが出て行き、ニコラはひとり立ち
ドレスが、手に吸い付いたように離れなかった。目も離れなかった。
この美しいドレスを身にまとってみたい欲求が、ふつふつと
ニコラはドレスを手放そうとした。が、お針子部屋から聞こえてくる
どうせここは異国だ。さらわれてきたという異様な状況なのだ。しかも日頃は着ないものを進んで着る、仮装のお祭りの真っ最中なのだ。
思いっきり女らしい衣装をまとってみたいというひそかな
似合うよ、と実にあっさりと言ってのけたルーナの声に背中を強く押されて、ニコラはくくっていた髪をばさりとほどき、男物を脱ぎ捨てた。
*****
お針子たちをびっくりさせないように、ニコラは廊下につながる扉からこっそりと外へ出た。俯いたまま、突き当たりの大広間まで小走りで急ぐ。しかし、やや引きずるほどに長い裾が歩行を
暑さ厳しいガルフォッツォ王国の衣装だけあって、漆黒のドレスには
廊下を通りすがる誰もが自分を見て
中は
広い広い大広間の端から端まで
あちらこちらに目を引っ張られながらも、ニコラは少し安堵する。
(ここなら女装の……もとい、女の格好の私も
久々におろした髪が顔にかかるのをふりはらいながら、ニコラはルーナの姿を捜した。
彼は他のガルフォッツォ人と比べてもかなり長身なようなのですぐに見つけ出せると思っていたが、あまりに人が多すぎてなかなか捜し出せない。
そのうちにニコラは、人混みの中にルーナではなく別の知人の顔を見つけて仰天した。
(あれって……ラウドー
友人メラニーが一年前に射止めた夫である、ユマルーニュ王国の大貴族である、リカルド・ラウドー伯爵の姿がそこにあったのだ。
(あっ、そうか、使節団の一員でこっち来てるんだ! お仕事でよく国外に行くってメラニーも言ってたし……それにしても……)
丸顔で丸々とした体形のリカルドは、とても
(ちょっとちょっと、伯爵ってば国外で羽のばしすぎじゃない!? ガルフォッツォ美女相手にでれでれしちゃって……鼻の下のばしちゃって……これってメラニーに密告すべき案件……?)
踊るふたりをやきもきしながら遠目に眺めていたニコラだったが、いきなり背後から強く肩をつかまれて、びくりと身をすくませた。
反射的にふりかえると、見知らぬ若い男がそこにいた。何やら目が据わっている。
「おまえ、ちょっと僕の相手しろよ」
「えっ!?」
無理やり腕を引っ張られ、手を組まされて、ニコラは
「僕のほうがこんなに
「ちょっ、ちょっと離してくださいっ、あのっ!」
「どこがいいんだよあんな
男はひどく
酔っ
酔っ払いが一向に手を離してくれないのでニコラは無理やり踊らされ続けるしかなかったが、ダンスの女役はもう長い間ずっと務めていなかった上に、今は着慣れぬドレス姿でもあるわけで、まともに踊れるはずもなかった。
「おいユマルーニュの女、おまえさぁ、もっとちゃんと踊れないわけ? この僕が相手してやってるのにさぁ、もたもたしやがって」
「こんなんじゃ全っ然、気が晴れないだろ! 大体おまえみっともないんだよ、でかい
すうっと自分の体温が下がるのをニコラは感じた。大広間の熱気が遠ざかって、冷え冷えとした寒さが全身を包んでいくのをまざまざと感じた。
「女って感じ全然しないよな、体形だってそうだし、あの方とは大違いだよ。そのドレスだって全然似合ってないしな!」
男の
この人の言うとおりだ、とニコラは思った。どうして調子に乗ってこんな格好をしてしまったんだろう。のこのこ人前になんて出てきてしまったんだろう。似合わないとわかりきっていたのに。やめておくべきだったのだ。
男の声の向こうに笑い声が聞こえる。大勢の人々がニコラを見て嘲笑する声に聞こえる。
「そういうドレスはやっぱりさぁ、あの方みたいにもっと女らしい人が着るべきだよなぁ」
男の声も嘲笑も、これ以上もう聞きたくない、この場から逃げ出したい。そう思ったときだった。
「君はあまりにも見る目がないね。この子の隣に、君のような
よ」
耳に馴染みのあるなめらかな低音の声が聞こえて、はっとニコラは正気を取り戻す。
「俺の連れに気安く
にこりと笑みをつくってそう言うと、ルーナはニコラの手から、男の手をぴしゃりと
男はしばし呆気にとられていたが、なんだか凄みのある笑顔のルーナに見下ろされて、たじろいだように駆け去っていく。
「君はちょっと目を離すと変なのに連れてかれてるね。これじゃ側を離れられないな」
ルーナが、自身の左手でニコラの右手をぎゅっとにぎる。そして彼はもう一方の手をニコラの背に回してきた。
「え、ルーナさん……? これは……」
「決まってるでしょ、ここは舞踏会の会場だよ? 踊ろう」
「で、でもほら例の寵姫を探さないと……! えっと、そう、紅玉の件の確認を」
「その件ならもう済んだよ」
「え、もう!? こんな人混みの中からもう見つけ出せたんですかっ」
「さっさと済ませて早く踊りたかったしね。君と」
ニコラは戸惑いながらルーナをしばし見上げ、それから首を横にふる。
「
ニコラは彼の手を外そうとする。
ここから一刻も早く立ち去りたかった。人前でこのドレス姿でいることが
しかしルーナはさらに強く手をにぎってきた。
「この場で誰より輝いてる女性と踊れる機会を俺から
言わないでよ、さあ行こう」
ニコラは息をのむ。有無を言わさぬ笑みに
楽団の奏でる優雅な
「おお、凄いなニコラは」
「え……」
「みんな、君に見とれてる」
ニコラは横目でそっと周囲の人々を窺ってみた。確かに視線が次々に集まってくるのは感じる。が、自分に見とれているとは
「皆さんが見とれてるのは、ルーナさんに、ですよ。もしくは、でかくてごつくて似合わないドレスなんて着ちゃってるユマルーニュの女を
「えー? 俺の目には全然そうは見えないけどなぁ……それも似合ってると思うし」
じっとルーナから全身に視線を注がれて、ニコラは居たたまれない気分になった。
「そんなに身長とか気になる?」
「そりゃあそうでしょう……
「だったら、俺といれば気にならなくなるんじゃない? 俺はこのとおり、君より背も肩幅もあるし。俺といたら君もきっと、自分のことを素敵な女性だと思わずにはいられなくなるよ。ほら、手だってこのとおり」
ルーナはにぎりあっているニコラの手にぎゅっと力をこめて、
「うん、そうだそれがいい、俺とずっと一緒にいればいいよ」
「何を言ってるんですかルーナさんは」
変な軽口だ。ふふっとニコラは思わず笑ってしまう。
行き合った女性たちがうっとり見とれてしまうような男性と、ずっと一緒にいるだなんてありえないことだ。それに彼はガルフォッツォ王国の騎士で、今日一日たまたま道連れになっただけの人なのだから。明朝、交易船の出港時間が来ればもう別れる人なのだ。
にわかに、ニコラの胸がずきりと痛む。
(なに、これ?)
自分の心持ちを持て余して戸惑いながら、ニコラはふと、顔をあげた。
どことなく真剣なまなざしをしたルーナと、視線がぶつかる。
「ニコラは可愛いよ」
改まった調子で言われて、かっとニコラは赤くなる。
「私は可愛くなんてない!」
「君が君のことをどう思おうとも、俺は君を可愛く思ってるよ。俺の挙動にかじりついて真剣に真似してるとこも、会ったばかりの俺を信じて
ルーナが次々と挙げていくにつれて、ニコラは泣きそうになった。
い。
「あと、しょっちゅうあわあわしてて気が小さそうなくせに、この普通じゃない状況下で必死で踏ん張ってるとこも。あと、やたら反応が
「もういいですよ! わかりましたから!」
これ以上聞いたら本当に涙が出てきてしまうと、ニコラは焦った。
(こんなの、女扱いの巧いガルフォッツォ男の言う他愛もない
それなのにニコラは、真に受けたくなっていた。可愛いと
ニコラはルーナから目をそらして、ダンスだけに集中しようとする。
(あれっ……)
そこでニコラは初めて気づいた。いつのまにか、すんなりと踊れている自分に。
おそらく彼のリードがとても巧いからだ。ニコラの中に、次第に、楽しい気分が湧き起こってくる。やがて、ゆったりとした優雅な曲から、情熱的な調べの曲へと移り変わっても、ニコラの体は彼にぴたりとついていけた。
「これ、ガルフォッツォの下町で生まれたダンスなんだよ。ニコラ、初めてでしょ? よくついてこられるね」
「ルーナさんが巧いので……! どんなダンスもお得意なんですね」
「血は争えないってやつかな」
ルーナはぼそりと呟いてから、かすかに苦笑する。
「まあ酒場で踊られるようなダンスが巧くても何にもならないんだけどね。王宮においては」
確かに言われてみれば周囲では、ダンスに興じている人数がだいぶ減っていた。いかにも高貴そうな感じがする人たちは
「なんだか
「楽しい?」
「とても! 私、このダンスがとても好きです」
ルーナは驚いたように目を見張り、それから嬉しげに微笑んだ。
実際ニコラはとても楽しんでいた。息を合わせて体を動かしているうちに、暗い
周りの視線などどうでもよくなってきて、もはや楽しさしかここにはなかった。
回転を繰り返しながら、息を切らしながら、増していく
ルーナの腕の中で、ニコラはいつしか、漆黒の双眸から目を離せないでいた。
優しげな垂れ目なのに、そのまなざしは強い。
今にも吸い込まれてしまいそうだった。
息が触れあうほどの間近にいる彼と自分、ただふたりだけが、この場にいるように感じられた。
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