3-2


 表通りから数分歩いた先に喫茶王冠はあった。

 三階建ての建物で、外観はどこにでもありそうなふんだ。

 ジークに連れられて扉をくぐったリリーはなつかしい内装に目を見開いた。

 どっしりとした柱と動的な曲線が一体化した造形は、中央部のきょだいなシャンデリアを強調している。左右たいしょうられたやくどうあふれる植物もんようきんぱくけんを表すものだ。

 ぜいをこらしたそうしょくやテーブルの細部にもほどこされていた。


(公国式の内装だなんて、王国ではめずらしいわね)


 ほうけたリリーを愛おしげに見つめたジークが、目の前の店員に声をかけた。


きんぱつの男と色髪の女が来ただろ? それのとなりに案内してくれ」

「かしこまりました。ご案内いたします」


 店員と共に三階へと上がれば、一番奥の部屋の扉を開けられた。

 室内は一階と同じく公国式の内装になっているようだ。

 扉の正面には細長い窓があるが少し薄暗い。その上、なぜか左側のかべ一面がカーテンで

おおわれていた。


「ここだよ~。さっ、入って入って」


 先ほどと打って変わり気安い口調になった店員に、リリーは眉をひそめた。

 しかし、ジークは気にした様子もなく店員に話しかける。


「……レヴェリー、変わりないか?」

「ん~。ちょ~っと気になることが隣で起きてるよぉ」

「そうか。来て正解だったな」


 リリーは聞こえた名前に目を丸くしながら、気軽に話す二人をこうに見る。

 店員の服装をしていて気がつかなかったが店員は、門番に詰め寄っていた――


「ぼく、レヴェリー。よろしくね、可愛いおじょうさん」

「え、あ、よろしく……?」


 レヴェリーからウインクが飛んでくるが、リリーはそれどころではなかった。


(全然気がつかなかったわ! どこにでもいるような店員だとばかり……。ということは、公国の内装はカムフラージュで、本当は帝国の所有物ってこと?)

「ジークがこんな可愛い子を連れてくるとは思ってなかったよ」

「うるさい」

「まったまたぁ! 照れることないじゃないか! ぼくとジークの仲なのにさ」


 聞き覚えのあるからかいに、リリーは我に返った。


「とりあえず中に入らない?」

「あぁ。ほら、リリー。こっちだ」


 流れるように手を取られ、テーブルの近くまでエスコートされた。


「あのジークが、自分からエスコートしてる……。まぁいいや。ここならあの人達と隣だし、一方的に見ることもできる。あとカジノもよく見えるよぉ」


 ほら、と窓を指され窓の外を見れば、レヴェリーの言う通りカジノがよく見える。

 視界のはしで何かが光り、リリーは反射的に窓を開けた。


「どうした?」

「今、何か光った気がしたの」


 カジノの裏で壺をひっくり返し液体をく甲冑の姿をとらえたリリーは、じっと甲冑を見つめる。その壺や甲冑は見覚えがあった。


(あれは油だったわよね)


 正確にあくしようとリリーが身を乗り出す。途端、腕がしびれ体勢がくずれた。


(毒がもう回って……)

「ちょ、リリー!?」


 血相を変えたジークがリリーを抱きめる。ジークからはやがねを打つどうが伝わる。


「お嬢さん、やるねぇ。ジークのあせった顔、初めて見た」

「はぁー。それで、何を見つけたんだ」

「……ごめんなさい。この下で油を撒く人がいたものだから、つい」

「まったく俺とのデートが嫌になって逃げ出そうとしたのかと思っただろ」

「へ? デート?」


 まどぎわから離された後、リリーの腰から手が離れた。なぜだか名残なごりしい気分になってしまい、リリーは困惑をかくせない。


「男女が二人きりで食事をするんだ。デートだろ?」

「え、いや、だって、レヴェリーもいるし……」

「あ? まだいたのか。早くアレ捕まえてこい」


 ほこさきがいきなり向いたレヴェリーはけらけらと笑いながら、窓の下をかくにんする。


「ジーク、お嬢さんにフラれたからって八つ当たりはよくないんじゃないかなぁ? もーこわい顔で睨まないで。わかったよぉ。よっと。それじゃあね、お嬢さん」


 窓に足をかけたレヴェリーに、リリーは困り切った表情をかべた。


「え、ここ三階……」

「何かあったらカーテンを開けてみてね。じゃ、またねー」


 そう言葉を残しレヴェリーは窓から飛び降りた。窓の外をすぐに確認したが、すでに姿が見えない。


「ねぇ、ジーク。カーテンがどうしたの? それにレヴェリーって、いったい――」


 何者と続く言葉はジークの指でふさがれてしまった。


「俺の前で他の男の話をするな」

「むむむ!」


 指で押さえられ口が開かず、リリーは変な声しか上げられない。


「俺がこんなにまんしているのに、リリーには伝わっていないみたいだ」

「ぷはっ。何をよ」

「俺が言った意味をだ。それともアプローチが理解できないほどどんかんなのか?」

「アプローチ?」


 リリーがわざとらしく首を傾げれば、ジークは大きなため息をついた。


(気づくに決まっているじゃない。でも今は、そういうことは考えちゃ駄目なのよ)


 今はり返される一日をどうにかえなければという思いでいっぱいいっぱいだ。向けられた好意を受け取るゆうはない。


「なぁ、さっきなんで窓から落ちかけた?」


 みゃくらくもなく投げかけられた言葉に、リリーのかたがぎくりと揺れた。

 さぐるようなアイスブルーの瞳に見つめられ、リリーはいたたまれず目を逸らす。


「二階のバルコニーから飛び降りるようなおてんが、こんな窓で手をすべらすなんて考えられないだろ。まぁ人間だからな。多少のミスぐらいある、だが、気がついているか?」


 リリーの返事を待たずにジークは言葉を続ける。


「顔が少し引きってる」

「え?」


 全く意識していなかったことをてきされ、リリーは頰を両手で覆った。

 ジークの手がリリーを追い詰めるように壁へばされ、退路を塞いだ。


「俺はそのしょうじょうに見覚えがある。リリー正直に言ってくれ。俺に何か隠し事を―― 」

「なぜ僕が我慢しなければならない!!!!」


 スペンツァーの大声とドンッと何かを叩きつけた音が隣から聞こえた。

 リリーを追い詰めていたジークが眉を上げる。

 彼の意識が完全に隣の部屋へ向き、リリーはこれ幸いと少し距離を取った。


(よかった。あのまま問い詰められてしまったら、毒のことを言ってしまうところだったわ。すでに両手が痺れているから、私に残された時間は……)


 胸の前で感覚のない両手をいのるようににぎりしめた。


「そんな顔をするな。いや、悩ましい顔をするリリーも可愛いが……」

「な、なにを言っているのよ」

「ふっ。いつもの顔に戻ったな。さて、リリー。何を見ても大きな声を出すなよ」

「? えぇ」


 ジークがリリーから離れ、壁一面を覆っていたカーテンを開いた。


「っ!?」


 驚きに大声を上げそうになったリリーはすんでのところで声をみ込んだ。ジークから事前に注意を受けていなければ声がれていただろう。

 カーテンの奥にあったのは、隣の部屋だ。

 同じ公国式の内装が広がっているが、一つちがうのは隣の部屋の窓は空が見えるほど大きいということだろう。

 隣の部屋ではリリー達に背を向けたスペンツァーとミアが寄りうようにテーブルを囲んでいた。テーブルには火の灯ったランタンや人数分のグラス、公国の民族料理や分厚い書類が置かれている。


「もっと増産せねばならぬのだ!」

「スペン様の言う通りですよ。予定ではまだ大丈夫なはずでしょう? ミアの領地にはまだまだたくさん資源が残っているもの」


 テーブルの奥でマルベリー色の髪が揺れる。

 ゆうな所作で立ち上がった女性――ソフィアはテラコッタの瞳をけいべつしたように細め、スペンツァー達を見下ろした。


「そうは言ってもねぇ。新皇帝がなにやらぎつけたようでしてよぉ? それもこれも貴女あなた達が使いすぎたからでなくてぇ? もっとちょうしたらどうかしらぁ?」


 彼女の目にはスペンツァー達しか映っていないようで、リリー達を気にする様子はない。


(こんなに近くにいるのに、ソフィアお姉様はどうして気がつかないの?)


 目の前の光景を吞み込めずリリーがせわしなく隣の部屋とジークに視線を彷徨わせていれば、ジークが肩を揺らして笑い始めた。


「な、なんで笑うのよ」

「リリーはやっぱり可愛いな」


 近づいてきたジークに身構えたリリーだったが、手を取られ部屋の境まで引っ張られる。


「答えになってないわ」

「なってるだろ。俺と手をつないでも嫌がりもしなくなったって、気づいてるか?」


 繫いだ手を見せつけられ、リリーはうつむきがちに視線を逸らした。


「こ、こんなことしてたら、ソフィアお姉様達にバレてしまうわよ」

「バレなければいいのか?」

「っ、ふざけないで」

じょうだんだ。だが安心したらいい。とくしゅな加工を施しているからな。こちら側からは見えても、向こうからはただの鏡にしか見えない」


 ジークが空いた手を伸ばせば、彼の手が目の前の何かにれる。


「……へ?」

「帝国では半とうめい鏡と呼ばれている。こういう時のために壁の代わりに仕込んだ」

「それを早く言ってちょうだい!」

「悪い悪い。リリーの反応が可愛くてついな。これで顔もよく見えるだろ?」

「……えぇ。誰が優位なのか、手に取るように分かるわね」


 リリーは彼女達にバレないのならと視線を移した。

 立ち上がったソフィアに、スペンツァーがいらった声を投げかける。


「バレなければ問題ないのだろう!?」


 その言葉に何を思ったのか、ため息をついたソフィアが窓辺へと進む。

 かんのあるじょうきょうにリリーはそういえばと記憶を辿る。


(初めてカジノへ行った時、ソフィアお姉様がここから見下ろしていたわね)


 明日の夜会に招待されているのは知っていた。


(でもまさか、ソフィアお姉様が殿下と密会しているだなんて)


 眉をひそめるリリーの頰をジークが撫でる。


「新皇帝が嗅ぎつけたってことは、贋金に関連する話とみて間違いなさそうだ」

「えぇ。贋金を思いついたのが殿下ではなく、ソフィアお姉様なら納と、く」


 ぷかりと、ほうまつのように浮かんだ記憶がよみがえる。

 スペンツァーの執務机に隠されていたこいぶみは、ソフィアから送られたものだった。

 秘めたるこいごころは、見つかったとしてもリリーがスペンツァーにてたものだと誰しもが思うだろう。なにせリリーが愛用するふうとうと便箋が使われているのだから。


(もしかして、あの恋文は何かをカムフラージュするためのものだったんじゃ……)


 リリーの考えを肯定するかのようにソフィアの口から言葉がつむがれる。


「そもそもぉ、わたくし忠告しましたでしょう? 『新皇帝は切れ者。油断大敵』だと」

「あのかいぶんしょのことか? いつもいつもめんどうなことをしおって!」


 ふんぞり返るスペンツァーに、リリーはやっぱりと唇を噛んだ。


(やっぱりあれは暗号が仕込まれたものだったのね!)


 秘めたる恋心を暴いてしまったと目を逸らしたが、ソフィアの思うつぼだったらしい。


「お互い痛くもない腹は探られたくないと思っていたのだけれどぉ?」

「ミア達のしていることは、痛くもない腹とは言わないと思うわ」

「うふふ。そうだったわねぇ。貴女も同じ穴のムジナだけれど、分かっていらして?」


 くるくるとマルベリーの髪をもてあそびながらソフィアはミアに近づいた。

 肩を抱かれたミアは少し青い顔をソフィアへと向ける。


「……分かっているわ。明るみに出ればミアも、スペン様も、無事ではいられない」

「ならいいのよぅ。わたくしが用意したメイドも手は打っているのだけれど、それだけじゃこころもとないと思っているのよぉ。だから……」


 テーブルに置かれたランタンをソフィアが手に取る。彼女は窓に近づきランタンを窓から投げ捨てた。

 とつぜんの行動に固まってしまったが、外から聞こえた大きな音にリリーは我に返った。


「あらあらぁ大変。火事だわぁ」


 白々しい言葉にリリーは慌てて窓辺へと足を向ける。

 リリーが窓の外をのぞき込もうと身を乗り出そうとするも、ジークの手にはばまれてしまった。一度落ちかけたからか、彼の腕が腰に回り引き寄せられる。


(過保護だわ。……大事にされているって、勘違いしそう)


 リリーの代わりに下を覗き込んだジークが舌打ちをする。


「カジノの火災はあいつらがげんきょうか。いったい何を考えているんだか」


 苦り切った表情を隠しもせず、ジークは吐き捨てた。


「なんてことをしてくれたのだ! 今までの努力が水のあわではないか!!」

「だってぇ、これが一番だものぉ。それに今頃、あの中でも火災が起きているはずよぉ。あと、わたくしは、この件から手を引かせてもらうわぁ」

「だからって燃やす必要ないじゃない。だって、あの、あそこの地下には……」


 ミアが後退るように立ち上がる。全身から血の気が引いたように顔が真っ青だ。

 目に見えて震えるミアに、ソフィアは意味ありげなみを浮かべるだけだ。


「城下に火を放ってまで隠したい物があの中にあるってことよね?」

「あぁ。こうじょでも見つかればただ事では済まないもの、か……」


 だまり込むリリー達をよそに話は進んでいく。


「ただ燃やすだけでは芸がないでしょ? だから、いいものを用意しておいたわぁ。あのな妹…あら失礼。そう、リリアンナに全てを押しつけてしまえばいいのよぉ」


 ソフィアがテーブルの上に置かれたままだった分厚い書類の束に目をやる。彼女の視線を追ったスペンツァーが困惑しきった不安を漏らす。


「その書類をリリアンナにきつければいいのか?」

「えぇ。明日の夜会にでも見せてやりなさいな。そうすれば、新皇帝の疑いがわたくし達に向くことなく、この件を片付けられるわぁ」

「ほう。それはいいな!」


 背中しか見えないが、きっとスペンツァーもソフィアと同じような悪い笑みを浮かべているだろう。


「くれぐれも失敗なさらないでねぇ? 貴方あなた達が結ばれて、わたくしが新皇帝に取り入る

ためにも。それじゃあわたくしはそろそろおいとまするわぁ」


 ひらひらと手をってソフィアが隣部屋から出て行く。顔を見合わせたスペンツァーとミアも、ソフィアを追うように退出した。


(私を断罪するための書類が見つからなかったのは、こういう理由だったのね)


 先ほどの彼らの会話にリリーは一人なっとくする。


「俺達も出よう。このままだと火事に巻き込まれかねない」

「えぇ。そうしましょう」


 腰に回った手から離れようと一歩踏み出したその時。リリーの足から力が抜けた。

 崩れ落ちそうになったリリーだったがジークに支えられ、ほっと息をついた。


「ありが……」


 リリーはジークを見上げ、こうかいした。

 この世のものとは思えないぼうが、それはそれはとても怖い顔をしていたからだ。

 リリーは生きたここがせず無意識に後退ろうとする。しかし、ジークに回された腕がそれを許さない。軽々と抱き上げられ、怖い顔がさらに近づいた。


「ひゃあっ! なに!?」

「いつ毒を飲んだ?」


 真意を探るアイスブルーの瞳からのがれるため、リリーはすようにジークの胸へ顔を寄せた。頭の上で息を吞んだ音が聞こえたが、もう一度彼の顔を見る勇気はない。

 リリーは一定のリズムで揺れる腕の中でいっしょうけんめい頭を回す。


(バレた……。でも、だからといって正直に話したら、また悲しませてしまうわ)


 ぐるぐると考えている間にいつの間にか喫茶王冠から出ていた。

 ジークは人の流れに逆らって歩いていく。


「はぁ。だんまりか」

「ど、毒なんて」

「俺は、いつ、どこで飲んだのかを聞いている。いまさら飲んでないとは言わせない。毒には慣れていると言っただろ?」


 おこることなく静かに告げられ、リリーは恐る恐るジークの顔を見上げる。

 今にも泣き出してしまいそうな表情に、自分が間違っていたのだと痛感した。


(こんな顔をさせたくて黙っていたわけじゃないのに……)


 どんよりとした雲のすきから満ちる直前の月が覗く。月光がジークと耳元のアレキサンドライトのピアスを照らした。


「……朝、起きてすぐに飲んだ水に混入していたのよ。私の食器やカトラリーは銀製ではないから、毒の混入には気づけない」

「ちっ。あのバカ王子が。仮にも公国から預かった大事な公女だろうが」

「仮にもって……私はれっきとした公女げほげほっ」


 とっに両手で口元を覆ったが、指の隙間からせんけつが溢れた。


「っ、リリー」

「ごめんなさい、服が……」

「気にするな。すぐレヴェリーを見つける。待ってろ。毒ならあいつがなんとかできる」

「そう。でも自分の体のことだもの。もう残された時間が少ないってことぐらい嫌でも分かるわ。だから、残りわずかな時間、私といっしょにいてくれる……?」


 すでにリリーの手足は自由に動かない。今は口も回ってはいるが、引き攣ってしゃべりにく

くなってきている。どう考えても手遅れだ。


「もちろんだ。俺はずっとリリーのそばにいる」

「ふふ。そくとうね。なら静かな所に連れて行って。二人きりになれる場所がいいわ」



*****



 ジークに連れてこられたのは、城下の外れにある高台だ。そこは城下町と海が一望でき、こくえんが上る様子もよく見える。

 ジークはしばに自身の上着をき、そこにリリーを横たえた。芝生に座った彼にひざまくらをされるが、すでにていこうする気力もない。


「ここならリリーの要望通りだろ?」

「そう、ね。ありが、とう」


 く回らなくなった唇をけんめいに動かす。かすんだ視界で彼が眉を下げたのが見えた。


「どういたしまして」

「あなたが、しおら、しいと、ちょっと、変な、感じげほっ」


 リリーのむなもとに大輪の赤い花が散る。それはリリーの命そのものだ。

 ジークが口元をいてくれるが、彼のハンカチはすでに真っ赤に染まっている。


「無理に喋らなくてもいい。俺が勝手に喋るから」


 やさしく頭を撫でられ、リリーは気持ちよさに目を細めた。


「海の向こうにあるのが俺の国だ。夜会に参加したのは仕事をするためと、あわよくばはなよめを探せればいいと思っていた」


(この顔なら引く手あまたでしょうに、他国で花嫁探しなんて、なにか問題が……?)

「ふっ。やっぱりリリーは分かりやすくていいな。俺は帝国ではんりょを見つけることができない。むしろどれだけ地位が高くとも、俺のような血もなみだもないやつに大事なむすめとつがせたい親はいないだろう。それに俺がめとりたいと思う相手もいなかった」

(いったい何をやらかしたの? こんなじょうれいじょう達が放っておくなんて)


 目を開けようとするが、どれだけ力を入れても瞼は持ち上がらない。

 すでに腕も、あしも、体も、すべて動かない今、なんとか動いているのは脳と耳だけだ。


「だが、やっと伴侶にしたいと思える相手が見つかった。なぁ、リリー?」


 砂糖をめたような甘い声で名前を呼ばれ、リリーは体をこわばらせた。


「俺はリリーとふうになりたい」


 リリーが目をらすと、彼の美しい顔がゆがんでいるのが分かった。


(なんて顔をしているのよ)


 ジークはいつものひょうひょうとした顔ではなく、泣き笑いのような顔をしていた。

 見てはいけないものを見たような気がしたリリーは顔を背けようとする。しかし、体が動かないためいさぎよく目を閉じた。


い女は失って初めて気がつくって、自分で言ったのにな。思い知ったよ」


 いつもより速い鼓動が、毒によるものなのか、ジークから伝わる熱にあてられたものなのか分からない。


「そ、げほげほっ」


 そんなことない、心配しないで。と声を出そうとしたが、き込んでしまった。

 優しい手つきで口元をハンカチでぬぐわれる。


「無理に喋るな。心配しなくとも、俺はリリーの傍にいる」


 ジークの手がリリーの頰をなぞった。だんであれば振りはらうが、体が動かないため受け入れる。こわれ物をあつかうような手つきが心地よく、リリーは体の力を抜いた。

 瞬間、ジークが息を吞む。命の灯火がついえたと思ったのだろう。

 愛おしそうに撫でる手が止まり、いかりと悲しみを押し殺したような声が降ってきた。


「火事に巻き込まれ二人でだっしゅつを試みた時、リリーはこんな気持ちだったのか?」


 風が二人の間を通り抜ける。リリーの顔にかかった髪をジークが優しく払った。


「あの時、かたきも、地位も、なにもない俺のために悲しみ、諦めるなとしてくれただろう? リリーは当たり前のことをしただけだったかもしれない。だが、それが俺の心をどれほど揺さぶったか、リリーには分からないだろうな」


 ぽたりとすいてきがリリーの顔をらす。


「たまらなく嬉しかったんだ。ジークという、ただの男を、リリーは見てくれた……」


 めどなく落ちてくるものは涙だろうか。


(ジーク、今あなたはどんな顔をしているの……?)


 一番近くにいるというのに、リリーのために歪んだ顔すら見られない。そんな死にゆく体に胸が苦しくなる。


(ジークを抱き締めたいのに、指一本動かせない。もっと、生きていたいのに……)

「っ、なんで俺はあいつより先に、リリーに出会わなかったんだっ! 俺を一人にしないでくれ、リリー。俺の全てをかけてもいい。必ずうばいに行くから、だから……」


 悲しみに満ちたこわいろに息が詰まる。どきりと高鳴ったはずの心臓は、ついに機能しなくなってしまった。ゆっくり、ゆっくりと落ちていき、死へとしずむ意識に彼の声だけがひびく。


「リリー、愛してる。すぐにむかえに行くから、待っていてくれ」


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