姉 is …

三高 吉太果

「あんた、覚悟しておきなさい。お姉ちゃん、すごい痩せちゃってるから」

 運転席の母はフロントガラスに顔を向けたままそう言った。少し声が震えている気がした。

 助手席の窓を、雨雫が叩いている。

 僕はスマホに目を落としたまま、「うん」と小さく返事をした。なぜだか母の顔を見てはいけない気がした。

 車は、姉が入院しているという病院に向かっていた。

 僕が姉と会うのは二年振りだった。


 今だからこそ言えることだが、僕は三つ上の姉に少し憧れていたのかもしれない。

 当時は同年代の友達と同じように姉のことをうざったい存在のように振る舞っていたし、姉は姉でそんな弟を可愛がるわけでもなく、かといって疎んじるわけでもなく、絶妙な距離感で接していたように思う。

 そんな僕にとって、姉は家の中で最も近い存在でありながら、常にミステリアスで本心のわからない人物でもあった。

 彼女は読書が好きでいつも本を読んでいた。だからといって引っ込み思案でもなかったようで、たまに家に女友達を連れてくることもあったし、高校生のときは彼氏らしき存在もいたような素振りもあった。

 制服は校則に則って控えめだったし、眼鏡をかけていたせいで堅物に見えることもあったが、弟という立場を差し引いても顔立ちは整っていたほうではないか。物静かな姉だったが、三歳離れていたせいか、いつも凛とした立ち居振る舞いをしていたことが記憶に残っている。

 姉のことを考えると、いつも彼女を見上げているシーンを思い出す。小さいころの記憶が焼き付いているのだろう。


 そう言えば、高校生のときに親友のHとの会話の中でふと気づいたことがあった。

 Hは年子で一つ上の姉がおり、昨晩テレビのチャンネルの奪い合いで喧嘩し、彼曰く「今回は絶対に許さない」とのことだった。

 絶対に許さないと言っても、同じ屋根の下に住む姉弟どうし、どこかで妥協しなければいけないのはわかりきったことだ。Hはそれから三日後に、「姉ちゃんに教えてもらったんだ」と言って、最近ハマっている音楽を僕に見せつけてきた。もう仲直りは済んだようだ。

 僕はそのHとの会話で気づいたのだが、姉と喧嘩をしたことが生まれてからこの方、一度もない。

 姉に対して腹が立ったことはあったはずだが、言い争いにならないのだ。僕が何か文句を言うと、姉は「そっか、ごめんね」と静かに響く声で、肯定しているのか流しているのか判断のつかない返事をした。

 僕がそこでさらに文句を重ねたときには、姉は何も言わずに少し困ったような顔をして、いつの間にかいなくなってしまうのだ。

 だから、僕たちは二人兄弟でありながら一回も喧嘩をしたことがない。それどころか、姉が声を荒げた記憶もない気がした。


 母に尋ねたことがある。「姉が文句を言ったことはあるのか?」と。

 そうしたら母は、何を言ってるのこの子は、といわんばかりに呆れた顔をして、「お姉ちゃん、今は落ち着いたけど、小さいときはよくお母さんに怒ってたじゃない。お母さんは何もわかってないって、口癖のように。覚えてないの?」と反論してきた。

 覚えてない。見たことがないのかもしれなかった。「そうだっけ?」と母に返すと、母は呆れて夕食の仕込みに席を立った。

 ただ、そのあと独り言のように「そういえば、あんたがいる前でお姉ちゃんが怒鳴ったことって、あんまり記憶にないかもねえ……」と呟いた。


 そんな姉の困った顔を最後に見たのは、姉が大学進学で上京する朝だった。

 姉は母と父に車で地元の空港まで送ってもらうことになっていた。僕は高校一年生になろうとする、思春期まっさかりの時期で、さらに上京という出来事が姉弟の関係にどう影響するのかよくわかっていなかった。

 姉は修学旅行にでも行くんだろうなぐらいの軽い気持ちで、寝ぼけ眼で見送ったのをうっすらと覚えている。

「……行ってくるね」と、いつものように姉が静かな声で挨拶をした。そのとき、うっすらと玄関の隙間から差し込む光に照らされた彼女の姿には、もはや高校生の面影はなく、大人の人のように見えた。珍しくはにかんでいるように見える。

 僕はその姿があまりにも眩しく、思わず目を逸らした。

 欠伸をしながらおざなりに手を振って、送り出したのを覚えている。僕は玄関を一歩も出ることもなく、姉が軒先に出るとすぐに自分の部屋へ戻ろうとした。

 そのときに見えた姉の表情が、彼女がよくする、あの少し困ったような顔だったように記憶している。


 それから随分と時間が経った。

 その間、電話で短い会話をしたことぐらいはあるものの、僕は姉と顔を会わすことがなかった。僕は部活に打ち込み、悪友と遊びを覚え、ガールフレンドができて淡い恋愛を体験した。

 姉は姉で、大学生活が忙しかったのだろう、一回だけ実家に帰ってきたことがあったそうだが、たった一泊して東京に戻ってしまったそうだ。僕はそのとき部活の合宿に出かけていて、あとから母に姉が急に帰省したことを聞いた。昔から何を考えているかわからない人だったから、僕は「まぁそういうこともあるだろう」と自分を納得させた。

 姉が忙しい時間の合間を縫って、わざわざ帰省したのは一体なんのためだったんだろうか。友達と会う時間も十分になかったろうに。


 今こうして彼女が入院する病室の前に立っていると、やはり僕は「まぁそういうこともあるだろう」と自分を納得させようとしてしまう。二年も会っていなければ、こういうこともあるかもしれない。目の前にいる母の横顔がこわばっていることに気づいていながら。

「じゃあ入るからね。びっくりしちゃだめよ」再度、母に釘を刺される。

 姉の病状は聞いている。詳しく理解はできていないが、僕でも知っているぐらいの、テレビでもよく聞くような病気だ。そして、母がすべてを僕に伝えていないことにも気づいている。

 僕は姉を見て、どう振る舞うのだろう。前みたいに、姉の姿をろくに見ずに、おざなりに挨拶をするかもしれない。気恥ずかしさから、少しうざったい感じを出してしまうかもしれない。

 彼女はやはり、あの、少し困った顔をするのだろうか。謝ったりするのだろうか。


 母が病室のドアを静かにノックする。

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