誰がための毒杯

その子四十路

第1話 誰がための毒杯

 幸福は薔薇色だというが、不幸ってどんな色をしているのだろう。

 コーヒーをスプーンでぐるりとかき回す。

 カップとソーサーは、新婚旅行先で夫とペアで作ったものだ。

 残念ながら夫のものは割れてしまったが。アクシデントすら楽しかった日々が遠い。


 ぐるり ゆらり 

 闇色の液体が波紋を立てる


 結婚して三年、夫婦共働き。去年、庭付き一戸建ての家を購入した。

 職場は別々だが、在宅勤務が増えている。

 互いに平穏を好む性格で、夫は家事に協力的。大きなけんかはない。

 人並みに睦み合い、諍い、歩み寄った。

 ごくありふれた夫婦生活を送っていた……問題が発覚するまでは。


「飲まないの? きみが好きなキリマンジャロだよ」


 カップのなかを見つめて、口はつけなかった。

 夫はこちらを注意深く窺っている。

 カップにソーサーが当たって派手な音を立てると、夫はびくりと身をすくませた。


 日曜日の朝、豆を挽き、手間暇かけて妻のためにとっておきの一杯を淹れる。

 優しい男を夫に選んだ。そう……この男は、優しい。

 誰にでも優しいから、問題なのだ。


 夫に裏切られた。浮気をされた。

 だからといって、この世で一番自分が不幸だなんて思わない。

 よくある話だ。世のなかにはもっと恐ろしい禍いが存在する。

 しかし、わたしの慟哭はわたしだけのものなので、他のなにとも比べようがない。上も下もない。


 わたしには夫しかいないのに、夫はそうじゃない。

 その事実に、途方もなく打ちのめされている。


 夫の浮気相手は三人。 職場の新入社員、取引先の人妻、わたしの友人。

“本気になるといけないから、気持ちを分散させた”

 夫は悪気なく答えた。 気の遣いどころがずれている。


 本来、心は複数人には分け与えられないものだ。それをわからない夫が怖い。

 こんな男を愛してしまった自分が憎い。


 一週間前、新入社員がかけてきた電話によって、夫の不貞は暴露された。

“妻と別れる”と言いながら、実行しない夫に不満を募らせたようだ。

 新入社員は“自分たちは愛し合っている、彼を自由にしてください”と切々にわたしに訴えた。

 ──奇遇ね。わたしも愛し合っていると思ったから、このひとと家庭を築いたのよ。

 夫は焦ったのか、やけになったのか、芋づる式に余罪を報告した。


 聞かされた直後は脳天が沸騰し、離婚を口走ったが、夫は興奮するわたしをなだめ、土下座をして詫びた。

“愛しているのはきみだけだよ”と言いながらも、“二度と浮気はしない”と誓わないあたり、正直な男だ。

 ──守れない約束はしない、それが夫の信条だった。


 信じられない、絶対に赦せないと激昂しているうちはまだよかった。

 入籍前からわたしの友人と関係を持っていたと知り、心が砕けた。

 友人と夫を共有していたのか。気持ちが悪い。

 わたしがウエディングドレスを選び、結婚式の招待状を準備していたころ、夫は友人を口説いていたという。

“きみだけだよ”とわたしに愛を囁いた唇で、舌の根の乾かぬうちに、よりにもよってわたしの一番親しい女友だちに手を出したわけだ……


 わたしは悟った。

 夫とはわかり合えない、もうなにも分かち合えないのだと。


 愛をあきらめても、日常は続く。

 わたしたちは話し合い、いがみ合い、ときに泣いて、“これからどうするか”を模索している。

 夫が淹れたコーヒーには手をつけない。

 いいや、つけられないのだ。

 わたしが妊娠中で、カフェインを控えていることなど、夫は忘れてしまったのだろう。

 ……心をわたし以外の女に分け与えた夫にとっては、些末な事柄だ。


「──ぼくには、きみだけだよ」


 羽毛よりも軽い夫の言葉に笑みがこぼれる。

 そうだ。難しく考える必要はない。

 離婚するのは、出産したあとでも遅くはない。


 子どもが生まれたら、夫の浮気相手を招いてガーデンパーティーを開こう。

“ほら、見て。あのひとの子よ。口もとがそっくりでしょう?”

 女たちに囁いて、夫が淹れたコーヒーで乾杯するのだ。

 くつくつと嗤うわたしに、夫が怪訝な眼差しを向ける。

 わたしが怒っているのか、赦されたのか、はかりかねているのだろう。


 ──馬鹿な男め!


 妊婦が一日に接種していいカフェイン摂取量は、コーヒーをマグカップで約二杯程度とされている。

 芳しい香りを胸いっぱい吸い込んで、あおるように飲み干した。

 コーヒーはすっかり冷めきっていた。了

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