ゆらぎ

葛花

今手が離せないからちょっとまって

 ワッフルメーカーを横目に、目立つ傷のある木のテーブルの角で、卵に罅を入れた。

 レシピに記された材料がそろうダイニングテーブルの上。プラスチックのボールの中で嵩を増していく生地はレシピ通りの、その半量だ。


「えりー」


 母の呼ぶ声がする。

 腹に力が入っていない声。掠れて痰の絡んだ声。今日の母の声は厄介な日の声だ。

 だが私は今、生地40g計るのに忙しい。


「えりーぃ」


 我慢という待てが出来ない母が一呼吸おいてまた呼んだ。

 ワッフルメーカーの蓋を閉めつつ立ち上がる。3分でタイマーをセットし向かう家の奥に当たる母の部屋は、道路に面した南側の部屋よりしんとしている。お昼までは日が当たる部屋ではあるが、本人が窓を開けることに前向きで無いため、空気が淀むせいだろうか。

 重いと感じるのは空気か、 気持ちか。


「何、お母さん」


 母はベッドに横になったまま、カクカクしながらゆっくり首だけをこちらに向けた。

 瞬きしない瞳孔が開いた老人の目は、なかなかに迫力がある。瞬きしないから充血もしているし。


「隣の人が覗いてくるから障子を閉めて」


 だがいつもの事だ。

 さあ、思い通りにしてあげる。障子戸を閉めてあげようね。ひとつ思い通りにならないと10思い通りになるまで気がすまない人だから。

 私はタイマーが鳴る前に台所へ帰らなければならない使命があるのだ。


 その為には隣が今、留守な事など些細な事だ。

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