第59話 5-7_願望成就について「巨大怪獣リンゴリラ?」



「どすこい」

 伝授するべき教えも少なくなってきた。

 土下座のような、というと聞こえが悪い。気絶してお寿司のポーズにくずおれた男を椅子代わりにして、ついにつぐねがこう訊いてきた。

「こいつも欲望丸出しの願いだったな。っていうかさあ、こいつらはしょうがないとして、もっと一発で解決できるような願いがどっかにないもんかね?」

「一発って何を一発よ」これは林檎B。

「世の問題をよ。今日の飲み水にも困ってるような子供が地球のどっかにはいるのによー」

「人間を椅子にしながら奉仕の精神?」

 軽口で蒸し返しながら林檎Bはついにこの話をしなければならなくなったかと感じる。


 要するに彼は『世界を平和に』というような、善良な願いがあればこの世のすべての問題を解決できるのではないか。なぜそうしないのか、というのである。

 もっともな意見である。それが可能であれば。

 林檎Bは慎重に言葉を選びながら話しはじめる。

「匣に願うことはね、ランプの魔神にオーダーを出すみたいにはいかないんだよ」

「するってえと?」

 人間寿司にまたがったつぐねが江戸っ子みたいに聞く。

 ヘチ子も黙って林檎Bを見ている。

「ディス子が叶えるのは『本当の欲求』だけだから」

 こういうしかない。嘘をついても逆に疑われるだけだと林檎Bは腹をくくった。

 というわけで小芝居を始めた。

「さーて。何でも願いの叶う匣も手に入れたし、アタイはツラがいい上善人だし、さっそく世界を救うヘチよ~やるヘチよ! どすこい! 『アタイはツラがいいし世界を救う!』どうだ! あれ~? 世界を救うはずだったのに弟くんに梅ゼリーが届いただけだったヘチよ~?」

「どうした。その小芝居にヘチ子要素いる?」

「その不愉快な語尾を今すぐやめろ」

「もう一回やるヘチよ~。いっけーッ! ヘチ子のマニフェスト!」

「トバしてんなあ~」

「いいかげんにしろ」

 閑話休題。

 と自分でいってから、林檎Bは改めて説明を始めた。

「私がいいたいのはね、人間はたくさんの欲求をもっていて、その中から選ばれた一つのものを『本当の欲求』って呼ぶ。そしてその欲求が成就することを私たちは『願いが叶う』といっている。っていうそういうこと。ディスコを使うときに限っての話ね、これ」

「だから善い感じの欲求をチョイスしたらそれが『願いが叶った』ってことなんじゃねえの?」

「数学の解のようにどこかに本物の願いが存在しているわけではないんだよ。どちらかというと選挙に似てる。一人の人間の中にあるたくさんの欲求を戦わせて得票数の多いものがディス子に選ばれる。それが『本当の欲求』つまりこれもバトルロイヤル」

「世界平和的な欲求は強くないヘチ?」

 といったのはつぐねである。「やめろ」とヘチ子。

 林檎Bの答えは同じだ。

「『世界平和』とかっていわれても曖昧でピンとこないでしょ。仮に平和への思いが強かったとして、その思いをずっと抱いたままでいられる? それは具体的にどういう変化を望むの? そう問われても迷わずにいられる? どうヘチ?」

「やめろ」

 林檎Bは緩い雰囲気を維持しようと努めつつ続ける。

「日常生活。マゲを刈る獲物探し。冥宮の中の落ち着かない気持ち。戦いの機微。痛み。怒り。快楽。やっと願いが叶う瞬間の高揚。感慨。そいうのを感じながら世界平和みたいな『理想の願い』を願い続けられる人はまずいない。それに欲求は一つじゃない。『理想の願い』が忘れられてるあいだに、もっとシンプルな欲求が台頭してくる。『なぜパン』みたいな願いだとか、もっと綺麗なものを挙げてほしいなら『心臓病の家族のために心臓が欲しい』とかね。総合的にいえば、けっきょくそういう本能的な欲求が勝ち残るわけ。匣はそういう本能的な欲求を『本当の欲求』と判定する」

 二人は大人しく聞いている。

「――という解釈はいかが?」

「は?」

「あん? 推測かよ。匣のルールを教えてくれるんじゃねえのかよ」

「はい、文句はいわない。私だってマニュアルを渡されたわけじゃないからね。情報が限られてるんだから、推測で埋めるしかないのよ、司馬遼太郎の小説といっしょ」

「悪口だ!」

「悪口いっとらんわ」

 続いて林檎Bは、これで話は終わりといった口調でオチをつける。

「実際さ、匣が長い歴史のあいだ人の手を渡って来たとして、けっきょく世界が平和になったことも滅んだこともない。これって誰も『人間的な願い』を実現できなかったっていう証拠じゃない?」

「うーん……」

 それぞれ何か考える様子を見せたが、二人は反論まではしてこなかった。


 もう一つの質問はさりげなく発せられた。

「そういやさあ、林檎は服変わる以外にもう一段階変身とかしねえの? 巨大化とか。巨大怪獣リンゴリラにはならねえの?」

 つぐねが何気なくいった。

 本人は興味のおもむくまま話しを切り替えたつもりだったのだろうが、それは実のところ、先ほどの話と本質的な部分で繋がっていた。もちろん林檎Bはウカツにそれを指摘したりしない。

「リンゴリラにはならない。匣は強い願いに比例したパワアを与えてくれるけど、ああなったら理性を失うことになるし、闘いとしても有利になるとはいいきれない。巨大化しようが、けっきょくマゲを刈ったら終わりだから」

「あー。ベジータも巨大化やらなくなったし、やっぱリスクあんだな」

 とつぐね。

「ベジータはどうか分からないけどね」

 林檎Bは話を打ち切った。

 あの暴走状態は、おそらくディス子が『失われた願い』を効率よく捕食するために必要なものだ。

 本当のところ、林檎Bがディス子の思惑に乗らないのには、闘いの有利不利以外にも理由がある。理性を失えば『理想の願い』から遠ざかることになるからである。

 ディス子の冥宮が原初的欲求を肥大化させるのは、その方が『食事』として効率が善いからだろう。

 巨大化した連中が願うのは『なぜパン』のような原初的『欲求』だけである。

 それは原初的欲求がシンプルな構造をしているからに違いない。

 食欲、性欲はいうに及ばず、所有欲や支配欲。復讐心。欲求の対象も個人や群に限定される。そうした原初的欲求は古来から存在し、例えばトカゲのような小さく単純な脳にも存在する。その欲求は理性を必要としない。

 逆に、例えば『世界平和』のような『理想の願い』はその構造に理性を必要とする。道徳的欲求、義務感、思い入れ、憧れ、ヒロイズム、その他色々欲求を、理性の力でコントロールすることで存続させられるものなのだ。

 ひとたび冥宮で理性を失えば『理想の願い』は崩壊し、代わりに原初的『欲求』が台頭してくるのである。

 『なぜパン』にもまっとうな『願い』はあったのかもしれないが、それは理性を失った時点で崩壊していたのだ。

 そのことに気づいた林檎Bは、匣による肥大を危険なものと見なし、原初的欲求を鎮める方式を選んだのである。

 つまり、一つに原初的欲求を押さえること。

 二つ目に、理想の願いをどうにかして保持すること。

 それを目標とした。


 彼女はあらゆる欲求を立ち枯れさせようと、自分から遠ざけた。

 同時に『理想の願い』について常に思いを巡らせ、その願いを原初的欲求の位にまで近づくほど、身体に馴染ませようとした。

 つまり『理想』を『本能的欲求』と見紛うほど飢えて見せようとしたのである。

 縋れるものは何でも、例えば自己暗示の一種として、行司の口上をルーティンに取り入れたりもした。

 欲求を抑え、一つの願いにのみ集中する。

 それは意志の力だけでは不足だった。意志だけで足りるのなら、ヘチ子たちなら何でも好きな願いを叶えられるようになることだろう。

 しかし意志力には闇がない。

 匣を使い『理想の願い』を叶えるため必要なのは、いわば盲信である。そこには意志だけでは辿り着けない。

 一つの願いを求め、それ以外の一切を切り捨てる。

 一番星以外はすべて屑。

 狂った聖人のような盲信の日々を自らに貸す必要があった。

 林檎Bはこれまでに何度も匣を使って願いを叶えようとしたが、そのほぼすべてが失敗に終わっている。

 『理想の願い』は退けられ、原初的な欲求が歪に成就された。それはつまり望まない形に運命が変化した、ということである。

 望まない運命は修正されなければならない。

 林檎Bは運命の修正のためにまた匣を使う。

 その繰り返しとなった。

 彼女が過ちの尻拭い、運命の修正を成功させるまでには、長い時間、狂った聖人の日々を必要とした。そこまでしても、奇蹟のような偶然が重なって修正が叶った、というだけに過ぎない。

 自由自在に願いを操れるようになった訳ではまったくない。できるようになったのは欲求を抑えるという一点だけだった。

 そして、そもそも一番最初に願った事柄は、今も叶わないままなのだった。

 匣を完全に使いこなすことは、本物の、つまり伝説上の聖人でもない限り不可能なのだと彼女は悟っていた。いや。方法はあるぜ。

「いや。方法はあるぜ」

 そういったのはつぐねだった。林檎Bが物思いに耽っていた間に開けたチョコレートをかじりながら彼はそういった。

「うぉおおおっビックリしたあっ」

 林檎Bは、一瞬心を悟られたか、自分が考え事を口に出していたのではないかと焦る。だがそうではなかった。

「……何でビックリしてんだ?」

「いや別に。そっちこそ何さ?」

「さっきいってた話だよ。本当の欲求がどうとかで世界平和は無理とかって話。知らんけど。その解決法を思いついた」

「いま『知らんけど』って自分でいったでしょ。理解してないことを解決できるってか」

「まあな。そこが大発見っつうか、パラダイムシフトっつうんですか?」

「まあいってごらんよ」

 林檎Bにも興味はある。しかし自分ほど匣について考えている者はいないという自負もあって、期待はしていなかった。

「おうよ。まずヒントはだな『おれたちには裏口がある』だ」

「ん。分かんない。それ善い意味でいってる?」

「そして答えはこれだ!」

 質問を無視して、つぐねはチョコレートを高く放り投げた。放物線を描いたそれを林檎Bは目で追う。

「ディス子ー! ディス子ー!」

 チョコが空中にあるうち、つぐねは二度、匣のなかのものを呼んだ。

「うるさ。なに――」

 チョコレートを追う林檎Bの瞳が星雲の輝きを帯びる。胸元から光があふれる。冥宮が開き空間の変容が始まった。

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