第56話 5-4_匣のチュートリアル3「スパッツもいいね」



「どすこい!」

 時には強敵と再会することもある。

 そいつは敗者の例に漏れず、林檎Bたちに関する記憶を失っていた。

 その黄色いキャップの男は、冥宮へ誘いこまれるなり異形と化し、のみならずもう一段、強い欲望に身を任せて、その姿を巨大な金無垢の仏像の如き姿へ変化させた。

 『なぜパン』である。

「なぜパンツをくれないのか。それはもういいですけどスパッツもいいね」

「落ち着いて。匣はマゲを持ったのもへその欲望の強さに応じて力を与えてくれる。だけど――」

「うああああっ。変態が強化されてる! 近づくなー!」

 林檎Bの警句が届くより早く、恐怖に駆られたつぐねの一撃が『なぜパン』あらため『なぜスパ』を吹き飛ばしていた。

 決まり手――。

〈スーパー頭突き〉

「――マゲを壊せば簡単にケリがつく……って教えようとしたんだけどね」

汚辱きっしょ。この第二形態みてーなの何なんだよ」

「マゲ狩りの時間だー」

 林檎Bが匣を取り出すと、そこから光が漏れ出し、冥宮の変化が始まった。



 景色が水中の砂糖菓子みたいに崩れ、拡散していく。

 すべては無個性な粒子となって漂ったあと、映画を逆再生したかのように、急速に再構成されていく。

 空へ向かって塔が伸びていく。

 鐘が鳴り響く。

 時計塔がタケノコのように空へ伸びていく。

 螺旋階段は踏んだ側から崩れる仕様。

「おっ? おっ! おおおおおおッ!」

「んんんんんんッ!」

 ヘチ子は沈香を雪のように振りまきつつ和紙を刻む。出来上がった冥宮避けの剪紙冥宮フリルを制服の上に纏う。二重螺旋の階段で交差する際にはつぐねにも渡した。

 つぐねは降って来た果実の帚星を手づかみにして囓る。焼いた果実の香りが漂った。

 序の月天。

 二段目水星天。

 三段金星天。

 幕下太陽天。

 十両火星天。

 前頭木星天。

 小結土星天。

 関脇恒星天。

 大関原動天。

 ハムスターのように登りつめて至高の天蓋へ達した。

 螺旋階段の最終段を跳んで、二人は土俵へ入る。


「さすがに疲れなくなってきたな」

 何度もディス子の冥宮へ昇るうち、二人も慣れてきた。つぐねの方は、もう息も切らせていない。

「いや。毎回いってるがそれでも昇らせるのをやめろ」

 祭壇の上に林檎Bが仁王立ちしている。 

 その姿はさっきまでの着物コートから、ヘビーメタルバンドのようなレザースーツに替わっている。赤マフラーはそのままだ。虚空を果実の星と少女の歌声が舞っている。

「それも匣の力なんすかね?」

 つぐねが指さしていう。彼なら「その歳で魔法少女はどうなんだ」などと茶化しそうな場面だが、今のところ一度もそういった指摘をしたことはない。

 ヘチ子の方は元々他人の格好にどうこういう性格でもなかった。

 実際のところ、つぐねの指摘は正しい。林檎Bの姿は光輪と同様匣が与えた力の変化であり、金無垢の仏像とまではいかないが、崩れかけた足場を豹のように駆け上がる程度のことはできるのだった。。

「セイ!」

 林檎Bが気合いをこめると、頭上に香り高い光輪が顕れた。光輪の輝きは欲求の強さに比例する。

「眩し」とヘチ子。

「では始めるう」

 林檎Bはちょっとふざけた行司の物真似のような口調でいう。

 祭壇の上に『なぜスパ』が寝かされている。

 林檎Bは彼の腕をつかんで引き起こすと、その頭部を自身の足の間に固定、自慢のヌンチャクを一閃した。

「おらっ。マゲ、取ったりー!」

 刈り取ったマゲを高く掲げ、握り潰す。粉々に砕けた光が散って匣へ吸いこまれていった。匣から溜息のように摩訶=曼珠沙華の香りが立った。

 不思議なことだが、欲求の種類に関係なく摩訶=曼珠沙華の香りはみな似通っていた。「結局、人間の願いなんてみんな同じところから生まれてくるってことね」とは林檎Bの談である。

 その認識のせいもある。またマゲの香りに慣れすぎたせいも大きいだろう。彼女は摩訶=曼珠沙華の香りをヘチ子の体臭と嗅ぎ違えたことがある、という過去をこの時点ではすっかり忘れてしまっていた。それはヘチ子も同様なのだが。

 この時の彼女はただ林檎Bの儀式を眺めながら「アステカの生け贄の儀式みたいで怖いな」と思っていた。



 林檎Bがサライソ学苑を訪ねる事もあった。冥宮師の仕事で時計塔の見回りをする日などがそうだ。屋上事件ではヘチ子たちが目立ちすぎた。校内で林檎Bの顔を覚えている者はほぼいないはずだった。

 放課後の校内で、あのオイランヘアーの少女とイヌ子ちゃんを見かけた。二人の関係性は一変していた。以前は支配者側にいたオイランヘアーが、怯えたようにイヌ子ちゃんの後ろを付いてまわっている。イヌ子ちゃんの表情は自信にあふれているように見えた。

 前回会った時、二人の摩訶=曼珠沙華を刈り取っている。よって、どちらも林檎Bと冥宮の事は忘れているはず。そう思って油断して行ったのだが、すれ違う時、オイランは林檎Bをまじまじと見た。エピソードまで思い出したわけではないらしい。しかし彼女の顔には漠然とした恐怖の表情が浮かんでいた。こういうことは匣を使っていてしばしばある。

 匣の『つじつまあわせ』とやらは、案外表面的なもののようだった。『死んだ猫』の例でいうと『猫が死んだ歴史』の事を憶えていたり思い出したりする者が稀にいたりするのだ。

 それは、ディス子の処理が雑なのか、あるいは人間の精神のほうが冥宮に対して順応性のようなものを持っているのか。現にヘチ子のように者もいるのだから、後者なのかもしれないと林檎Bは考えた。

 そもそも、ヘチ子が林檎Bを捕まえられたのも、匣の杜撰な処理のおかげといえた。この出会いが幸運だとすればだが。



 どすこい。

「しかしこいつらロクな願い事しねえな」

 闘いが終わり、つぐねが雲竜型のポーズを取る。改造制服の隙間から溶けたチョコレートの香りが排気される。

「品ない話しかできないのかこいつらは!」

 ヘチ子は今日も怒って男の頭を叩いていた。

「まあ、その願いもここで消えるわけだけどね」

 マゲを収穫しながら林檎Bがいうと、二人は振り返って、驚いた顔をする。

「願いがなくなるのか?」

「いわなかった?」

「いや、記憶を失う程度かと」

「負けた者はマゲの中にあった欲求を失う。『失われた願い』っていうのはそういうこと」

 マゲは、その人の最も強い欲求が具象化されたものである。化身とか作用ではなく欲求そのものなのだ。

「敗者は自分の願いそのものを失うという事か? 忘れてしまうとかではなく?」

 ヘチ子が確認する。

 林檎Bははっきりと答えて、

「なくなるのはマゲのなかにあった欲求そのもの。例えばスーパーマンになりたいという欲求が刈られたとしても『スーパーマンになりたかった』という過去が失われるわけじゃない。でも『スーパーマンになりたかった』とは思えても、もう欲求が動くことはない。過去形になるわけ。そしてディス子は『もっとも強い欲求』をマゲに変える。願いが叶うのはマゲとなった欲求だけ。つまり『スーパーマンになりたい』という欲求が失われた以上、それをディスコが叶える事はもうない。現実でがんばるしかないね」

 それからこうも続けた。

「願いの形骸だけ残るってのがツライとこよね。願いによっては『大人になった』で片付けられることかもしれないけど」

 二人は黙ってしまった。

 林檎Bは口調をあらためてフォローを加える。

「まあ。私の場合は、負けそうになったらあんたが逃がしてくれたら無効試合になるわけでしょ?」

 そう聞くとヘチ子の表情が明るくなる。それは初対面のことなら気づかなかったはずの些細な変化で、林檎Bはそれを見分けられたという事実に内心怖じ気づいた。が、それは隠して明るくいった。

「まあ、だからこういう『大人になった』で済まされるような願いを狙って刈るわけ。私たちは。喧嘩っ早かったり、ブランドものや通りすがりの女の子を物欲しそうに眺めてる人間。そういうヤツがターゲット。それに『なぜパン』が『なぜスパ』になったみたいに、原始的な欲求は、形を変えるなりして甦るくらいだからね。本人は気にしちゃいないわ」

「あいつの話やめて」

 つぐねが情けない声を上げて、場は表向き和やかなムードに変わった。

 だがヘチ子たちも理解はしていた。

 今の説明を裏返せば、人間的な、そして現実では実現不可能な類い願いは一度失われれば甦ることはない。

 そして、匣を奪われたときの取り乱しようからして、林檎Bの願いはそちら側なのだ。マゲが狩られそうだからといって、その瞬間確実に「撤退」ができるとは限らない。そうなれば、創だらけで守ってきた彼女の願いは永遠に失われる事になる。


 一方このとき、林檎Bの方は別の考えに沈んでいた。

 匣のことを説明するに当たって『願い』のことを『欲求』と訂正せざるを得なかった。これは正しくない。

 ディス子は多分、願いの事を『欲求』と語ったのではないか。

 もし林檎Bが「匣が叶えてくれるのは『願い』である」と言い張れば、ディス子の発言とのあいだにギャップが生まれる。

 ヘチ子ならそこに違和感を抱くかもしれなかった。

 だから、何気ない風を装ってでも『欲求』については触れておく必要があったのだ。

 叶うものが『願い』であるか『欲求』であるか。

 それは匣を使う上で、実は重要な違いなのだ。

 だが林檎Bは「欲求」というだけに留め、その「違い」の詳細については語らなかった。

 すべてを明かせばヘチ子はかならず自分から匣を取り上げようとするだろうからだ。

 反対にいうと、林檎Bがヘチ子に匣を使わせたくない理由もここにあった。

 屋上事件の時は、とっさにああいう契約を持ち出すしかなかったのだけれど、二人を知ってしまった今となっては、匣の譲渡を約束したことは間違いだった後悔していた。

 そしてこう思うこと自体、自分が『転んだ』証なのだろうと、そろそろ林檎Bも認めないわけにはいかないのだった。

「また私は失敗したのかな」

 冥宮の中で自身の光輪を見あげると、それは軸のぶれた回転体のように歪んでいた。

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