第52話 4-18_沈香の夢「『お楽しみ会』――完了」



 ヘチ子から一度だけ聞いた昔話では、キズの事までは語られなかった。母親の名誉を考えて省いたのか、あるいはまだその時は久我ちゃんからきずのことを教えられていなかったのだろう。そうつぐねは考える。ヘチ子には記憶の欠損があって丿口へちこう家へ入る前の出来事は曖昧なのだ。


 共感力の薄いといわれたつぐねが、何となくにしろ理解しているのは、ヘチ子が母親に対して二つの感情を持っていたという事だった。

 一つは、自分と自分の病気が母を追い詰めた、という自責の念。

 二つ目は、母親に「置いて行かれた」のだという失望の気持ち。

 これらは矛盾するものではないが、納得する事は難しい。どちらが正しいか答えを出す事は、更に難しいだろう。つぐねが思っていた以上に、あの幼なじみは母親のことできずついていたのかもしれない。

 そこへ林檎Bの屋上での行為と創の痕である。

 ヘチ子の、林檎Bに対する甘えたような絡み方。あれは母親に対して抱いていた感情が、無自覚に漏れ出たものだった。

 要するに、ヘチ子は林檎Bに母親を重ねていたのだ。

 そのように考えながら、つぐねは二人を見守った。力士特有のフィジカルと社交性と瞳の魔力でもって警備員を押さえこみながら。


「――ひとつ」

 匣をさしだした姿勢でヘチ子が最後の確認をする。

「今回や屋上の時みたいな無茶はもうやめてくれ。お前一人が危険を冒したとしてできることは限られている。それは今日で分かっただろう」

「え。無茶はしてないよ? 本当の無茶ってしたら人は死ぬから――」

 林檎Bが真っ直ぐな瞳でそういった瞬間、ヘチ子のグーパンチが、肩にめりこんだ。

「いでえッ!」

「そういうとこだぞ林檎」

「……ほーん。それはまた、し、つ、れい~」

 林檎Bは一応素直に間違いを認めた。

 それから、あらためて匣をとろうとして、ヘチ子の怪我に気づいた。袖口から細い糸程度に血の痕が覗いていた。

「あんた、血。このあいだの怪我がぶり返してる。袖まくれる? これ」

 林檎Bが匣を受け取らないので、ヘチ子は匣を手に乗せた姿勢のまま動けないでいる。

 その腕の袖をめくり上げてやると、林檎Bは、貝殻に似た器の軟膏を取り出した。怪我のところへくるくると手際よく塗りこんでいる。

「これ。おじいちゃんが昔くれたんだ。すごく善く効くし、匂いでおじいちゃんのこと思い出す。廃番になるって聞いて、ちょっと前に買いだめした」

 ヘチ子はされるがままだったが、祖父の話へは反応して、やや気まずさの残る声でこう切り出した。

「レグヌーカなら仕入れてくれるかもしれない」

「今度遭遇できたら聞いてみてもいいかもね」

 林檎Bが話を合わせると、ヘチ子の声が柔らかくなる。

「ああ。商品券、まだあるから」

「ありがと。それでさっきの無茶は控えろって条件のことだけど」

「うん? でもそれよりお前は自分の手当てを――」

「そういう条件って匣を返す前に交換条件で提示した方がよくない?」

「――あ」

 謂われてみれば、と気づいたときには、ヘチ子の手の中から匣が奪い去られている。

「そういうとこだぞ」

 と林檎B。

 彼女は意地悪く笑ったかと思うと、見事なスイングでヘチ子の尻の肉をビンタした。

 花火のような音とヘチ子の悲鳴が上がった。

「ん゙ーーッ!!」

「感情でしか行動できないのかあんたは! さっきも高いとこから飛びおりたよな? 人にはキレといて! 目的意識を持て! そのうち古傷が開く程度じゃ済まないことに――ぐへぇえっ」

「尻をしばくな! 二度と! 尻を! しばくな! 人前で!」

 ヘチ子のパンチがめりこみ、そこからはもう尻と肩への原始的な応酬になって、どうやら今日のところはここまでだなとつぐねは思う。

「『お楽しみ会』――完了」


 なお、その後三人おところへ意外な人物たちが近づいて来た。いや、意外というか今日のパターン通りではある。もしかしたら動物園にもいたのかもしれない。

「なんかさっき猫の悲鳴みたいなの聞こえなかった?」

 と、片食兄。『チームライディーン』がやって来ていた。

「カピバラの歌に惹かれてきてみたら……何か面白いことがあったのかい? これ」

 片食兄の後ろで妹とエリさんがギターを担いでいる。路上演奏の人の曲「バラ寿司のうた」を完全にコピーしている。

「来てたんすね。やっぱり」

「カピバラかわいいィー!」とエリさん。お寿司もかわいい、といいたそうな片食妹。



 その後『ライディーン』で打ち上げをした。

 蓬莱司氏を呼んだのは、色色とのあいだを取り持ってもらったからである。

 そこでようやく、お互い誤解があったことを知った。こちらに過失がなかったとはいわないが、まさか違法薬物の売人だと思われていたとは予想できない。

 聞けば聞くほど無根拠で無責任な行動なのだが、色色の男たちは自分たちの正しさを疑っていなかったらしい。

 思えば危ないところだったなとつぐねは考えた。

 集団心理はもちろん恐ろしいが、力は弱いとはいえ、集団のもたらす被害もバカにはできないものだといわざるを得ない。

 それしてもと、集団に関する連想から、つぐねは林檎Bの過去について思いを巡らせたが、その内容はまだヘチ子には伝えない気でいた。


 今、林檎Bはヘチ子の取り皿へ春菊を山盛りにしたりとじゃれついている。匣を失ったときの彼女の取り乱し様は凄まじかった。そもそも普段の行動からして危うい。

 こいつとヘチ子は同じ水槽に入れておくべきだなと彼は考えた。互いの行き過ぎを咎めるストッパーとしてちょうど善い。

 「願いの叶う匣」を扱う上で、林檎Bとヘチ子は、お互いを抑制できる状態でいさせたほうが安全なのではないかと思えるのだった。

 特に、ヘチ子の母親へ対する想いを確認した今では。



 林檎Bが静かな部屋へ帰ってこられたのは、もう暗くなってからだった。

 壁には事件記事のスクラップ。

 林檎Bを見返す、写真の中の顔。

 主観でニュースサイトをチェックすると、芸能人の不倫が曝かれていた。

 エリ叔母さんから問答無用で鳥用の篭を渡されていた。

 鳥かごには羽根の一部白化したカラスが納まっていて「篭は高いところへ吊しなさい、お日様の当たるところが善いです」とでもいうふうに鳴いた。

 そしてカラスにとっては都合の善い事に、荷物の中にはレグヌーカで買ったエサがあった。

 さらにさらに、なぜなのだか林檎Bにはまったく分からないのだが、今、彼女の手の中には、ヘチ子のカピバラ切紙が転がっていた。

 。後始末のごたごたのなか、彼女は自分でも理解できない気持ちのまま、わざわざカピバラコーナーまでもどっていって、それを回収してしまったのだった。

 迷った末、彼女はそれを小型テーブルの上に安置した

「あー……何か昨日までとは違う感じで疲れた」

 薄い布団へ横になった瞬間、世界がぐるぐる廻った。

 耳の奥に昼間聞いた声や雑踏が再生されて、その事を感じた時にはもう眠りに落ちていた。


 この夜、林檎Bはいつもと違う夢を見た。

 沈香の匂いのするカピバラの群が、キュルキュル鳴きながら部屋の中を駆け回り、ハート型の肉球で顔をスタンプしてきたり、胸の上によじ登って昼寝したり、奇妙に長い指で林檎Bの手をずっと握っていたりするのだった。それはそれで騒がしく、うなされはしたけれど、悪夢は見なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る