第32話 3-13_チェイス「探偵、ピンチ!」
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沈香の匂いが強い。
切紙の香炉が、切ない音を奏でている。林檎Bの手の中で匣はまだわずかな輝きを放っていた。その気配に反応して鳴いているらしい。
「匣を使ったな」
地面には女子生徒達が倒れていて涙を流しているものもあった。
事件を起こすなら、匣は取り上げるしかない。それがヘチ子の方針である。
「取り返しがつかない行為だぞ」
林檎Bは慌てて片手で遮るような動作をした。
「待って。話し合お? これはね――砂ァ!」
砂。
もう一方の手に隠し持っていた砂をヘチ子へ浴びせかけた。
コンクリートの地面に砂といえるほどのものはない。これは狩りのために林檎Bが持ち歩いている自前の砂袋である。
「――こいつ!」
「どうせ説明しても無駄でしょ!」
ヘチ子が目を拭っている隙に林檎Bは逃げだした。
「許さん……!」
ヘチ子はすぐに追い着いてきた。
速い上に立地を熟知している。建物のすき間からショートカットし、すぐ後ろに追いついてくる。
「あっ! 帰ったはずの馨くんがクラスメイトの桐生院ジュリアちゃん十歳と手をつないで歩いてる!」
「なにっ!」
とっさのウソで指さしたのとは逆へ逃げる。これで少しは距離を稼げたはず。
「やったか?」
と振り返ると、ヘチ子が
「弟を知っているだけでなく、弟のことで最も許されない嘘をついたな」
「ひええええ」
林檎Bは当然、学苑の出口を目指して走っていた。
しかし校門のところに、待ち伏せする生徒達が遠目に見え、その女の子たちの「いた!」という声に思わず進路を変えてしまう。
これは失敗だった。
女子生徒達が待ち伏せの相手は、実はヘチ子の方だったからだ。
追いついてきたヘチ子が、校門の方を振り返りつつ「もう写真は嫌だ」と叫んだ。待ち伏せ生徒は写真部たちだった。
つまりまっすぐ行っていれば、林檎Bだけは通過できたのだ。今さらその事に気づいても、もう遅い。
「走る姿も画になるというならなァーッ!」
写真部の女子生徒が、情緒に辛うじて言語を当てただけ、というような奇声で追いかけてくる。
「……何これ? なんでこうなった?」
「止まれ羽根井雪。お前を拘束する」
「いやあんたも拘束されようとしてるけど?」
写真部たちがヘチ子を、そのヘチ子が林檎Bを追ってくる形になった。
出口からは遠ざかる一方だ。
林檎Bはジグザグに動いて、帰宅する生徒達、部活動、草むらにまでつっこみ、ときに生徒たちの股の下を潜り、躊躇いなく男子トイレの窓を飛び抜け、必死の握力で天井に張り付いたりと逃げに逃げる。
そのすべてにヘチ子はついて来た。写真部の少女もシャッターを切りながら追ってくる。
「いや写真部すげえな!?」
林檎Bのすぐ背後にはヘチ子。
廊下を全力疾走しながら、林檎Bは自慢のヌンチャクをカンフーのように素振りする。ヌンチャクは、こうして遠心力を与える事によって、あらゆる姿勢から投擲が可能となるのだ。例えば走りながら背後へ向かってでも。
「おらッヌンチャクはこう使う!」
「知るかバカ!」
足を狙ったヌンチャクを、ヘチ子がジャンプで避ける。
「カンフー服をご所望とはなァ!」
写真部も鋭いスライディングで躱す。ヌンチャクは彼女の鼻のすぐ上を掠めていった。しかもそのアクロバットな視点から彼女はヘチ子を撮影し続けている。
「ローアングルでなあ! 写真部に勝てるわきゃねえだろお!」
「この学校ヤバいやつが多すぎる!」
林檎Bは階段を駆け上がる。
また廊下を逃げ、別の階段をでんぐり返りで転がって降りた。
落ちていったといっても差し支えない。
二階ほど下って踊り場の壁に背中からぶつかる。
「ごええ~」さらに転がったところで運悪く、角にスネを強打してしまう。「――痛っっっったー! 痛ったー! 痛ったー!」
「死ぬ気かお前は!」
激怒したヘチ子が追いついてくる。美しく冷たい手が林檎Bへ掛かったとき、
「何事です」
さすがに騒ぎがすぎたのか、一人の教師が近づいて来た。
どうする? 三人の少女は逡巡する。
林檎Bは当然、教師だろうが掴まるわけにはいかない。余罪が多すぎる。
ヘチ子としても騒ぎにしたくはなかった。教師から巡り巡って久我へ連絡が行くと面倒なことになる。捕まえる寸前だった手を引っ込め、いいわけを考え始める。
追いついてきた写真部はすかさず割って入った。
「すいませーん撮影です」
「撮影? あ、あなた写真部の例の……」
例の。教師は面倒なやつに会ったという顔をしている。
「御贔屓にしていただいてます先生。これはねえ、いつもの撮影会です」
「いつもの……」と教師。
「ええ。許可もあります」
当然ウソに違いない。
後ろでは被服部の女子たちが抵抗できないヘチ子を囲み、マジックテープの音を響かせている。布と人垣で隠しているが、どうやら礼の簡易衣装を着せているらしい。
「許可もあるならまあ。怪我だけはないよう。ほどほどにしなさいよ。走るのは論外ですからね」
師走の面倒ごとを避けようというのか、或いは写真がらみで弱みでも握られているのか、教師はそそくさと去って行った。
「今のうちに逃げるか」
林檎Bが走り出したときには、被服部の覆いがうやうやしく開いてお団子髪、カンフー服姿のヘチ子が現れた。
「なんでお色直し?」と林檎B。
「何もいうな!」やけっぱちのような声でヘチ子。
さらに写真部が「撮影会の再開だァアアア!」と絶叫して、また追いかけっこが始まる。
自前のかんしゃく玉、パチンコ玉、靴下で作ったブラックジャック、拾ったどんぐり、池の水、胡椒爆弾、虚言。
林檎Bが手立てを尽くして逃げるが、ヘチ子は人間離れした技術で追ってくる。写真部はそれをアクロバティックに撮影していく。
「何々もう! 、もうあれだから止まれ生徒達!」
「これは先生。こちらもごひいき頂いてます」
「お前は……例の写真部の……」
教師に見咎められれば写真部が割って入り、そのつど被服部隊が駆けつけマジックテープの音を響かせるのだった。人垣が開帳するとお色直ししたヘチ子が現れ、チェイスが再開される。これが何度か繰り返された。
平安ヘチ子。軍服ヘチ子。新撰組ヘチ子。
「ドアへかかる力を〈迷わせ〉た。これで開かない」
ヘチ子が出入り口のドアへ
「あっけろー! 写真! 写真を撮らせろぉおお!」
向こう側から写真部がどんどん叩くが、鉄製の扉はびくともしない。
「――そしてここは四階建て校舎の屋上。逃げ場はないということだ」
温度のない焔みたいな囁き。ヘチ子が間合いを詰めてくる。
まず林檎Bは「ファック」といい、次に「探偵、ピンチ!」と叫んでみたが、ふざけてみても心の余裕は回復しなかった。ピンチ。
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