椿と水仙の花が咲く庭

@k-shirakawa

第1章

第0話 登場人物紹介とプロローグ

 主人公      白川 和聖かずき

 和聖の妻     白川 博美

 和聖の修行先   大久保正和社長


 和聖の叔母    白川 貴子 

 和聖の父親    白川 信夫

 和聖の叔父    白川 隆司

 和聖の母親    白川 栄子

 和聖の父方の祖母 岩崎 たま

 大家の妻     神山 千寿ちず

 大家の夫     神山 雄一

 大家の娘     神山 真凛まりん

 


 二〇一一年(平成 二三年)三月十一日 十四時四十六分に発生した、東北地方太平洋沖地震及びこれに伴い福島第一原子力発電所事故による大規模な東日本大震災以降、一気に白川和聖しらかわかずきが社長として法人経営していたレストランの業績が傾き、二〇一四年の和聖五十九歳になった年に決定的となった。


 二十三年間、汗と涙を注ぎ続けたレストランの法人解散の決断した日、和聖は深いため息をつき事務所の窓越しに店内を見渡した。かつては予約が取れないほど繁盛していたテーブルは、今や空席ばかりが目立っていた。二十人以上いた従業員にそれぞれ半年分の給料を渡して一か月置きに一人ずつ退職させていった。


 彼がこのレストラン経営を始めたのは三十六歳になった一九九一年、バブル崩壊直後の二月。市内南部の小さな貸店舗のレストランから、二度の移転を経て、最終的には創業から八年後に自分の土地を購入し建物を建て、ようやく安定を手に入れた。そして、銀行のプロパーローンを二十年で借りて手に入れたこの店も、わずか八年で完済。順風満帆に見えた。しかし、忙しさに追われる中で、次第に心の中に芽生えていた小さな違和感に気づかないふりをしていた。


「仕事は常に全力! 迷ったらフルスイング!」—事務所の壁に貼られた色あせた色紙が、かつての彼の情熱を象徴していたが、今やその力強さは見る影もなかった。帳簿を見つめる和聖の顔には、悔しさと無力感が滲み出ていた。「まるで今の俺みたいだな」と独り言を漏らした。


 それは、忘れもしない二〇一四年十一月二十三日。前日にはマグニチュード六・七の長野県神城断層地震が起こった。ランチに来店した客は十九名、ディナーに至ってはゼロ。その日、和聖の心が折れ最後に残ってくれていた支配人とソムリエに一年分の給料を支払い退職してもらった。この時の和聖の預金は既に底を着いていた。


 翌日、常連だった近所の若き弁護士夫妻がランチに訪れた。「自分が法律事務所を開業するなら、この建物でやりたいと思っています。だから毎日、妻とランチを頂いていました」と弁護士が話すのを聞いて、和聖の胸にある一つの考えが浮かんだ。


 その頃、和聖の妻の博美は、十年間の長きに渡って透析をして最後には認知症を併発し他界した父親の自宅介護をした後、直ぐに認知症を患った母親の介護に疲れ果てていた。当時の介護施設は順番待ちが長く自宅介護が続く中、心身ともに限界を迎えていた時期だった。


 和聖は思った。「渡りに船か……」そしてその若き弁護士に言った。「貸すことはできませんが、お売りするなら考えますよ」その言葉に弁護士は目を輝かせた。


 ついに和聖は、店舗兼住宅を手放す決断を下した。それが彼のレストラン経営の幕引きとなった。近所の人々は、「もう終わりなんだね……」とそんな寂し気な顔を見せながら口々に言った。


 最後の日、業者のトラックに什器や備品が次々と積み込まれる様子を見つめながら、和聖は二十三年という歳月の中で駆け抜けた日々を走馬灯のように思い返していた。


 和聖は、修行時代から世話になっていた隣市のホテルの社長である大久保正和に、レストランの廃業と店舗付き住宅の売却を報告した。長年の恩人でもある社長は、静かに彼の話を聞き終えると、しばらくの間、窓の外を眺めたまま黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「今の時代、売れる物があるなら、全部キャッシュにしておいた方がいいぞ。この先、何が起こるかなんて誰にもわからないからな。今回の二つの地震でうちのホテルもファックスから出てくるキャンセルの紙が電話帳の厚さにもなったので、私も千坪の土地を売却して現金を作って、パートは全員、辞めさせた。白川、お前がやったことは、大正解なんだよ」


 その言葉は、和聖にとって何よりも救いだった。ずっと心に重くのしかかっていた不安と後悔が、少しずつ溶けていくように感じた。法人解散とは聞こえが良いが、実質は廃業だ。その決断に対する迷いや苦しみは、まだ完全には消えないものの、社長の言葉が和聖の背中をそっと押してくれた。


「あの決断は間違っていなかったんだ……」和聖は心の中で自分に言い聞かせ、わずかに肩の力を抜いた。


 和聖は、しばらくの間、自宅で義母の介護をしている妻の博美の手伝いをしていた。ある日、予約していた老人介護施設からの電話が鳴った。「空き室ができましたので、お義母様をお迎えすることができますが、いかがでしょうか?」


 その知らせを妻に伝えると、彼女は「本当? 嬉しい!」と顔を輝かせた。義母を連れて施設の見学に行くことになったが、昨夜までの義母は、「そんな施設があるの?  いいね。あなたたちにも迷惑ばかりかけていたから、私、そこに入るわ」と、にこやかに話していた。ところが、翌日になると彼女は全く別人のように鬼の顔つきになり、「私は嫌だよ!」と強く拒否する。認知症の進行とはそういうものだと理解していても、何度経験してもその変わりように心が揺さぶられた。


「ドライブに行こう!」と嘘をついて、義母を連れ出した。施設に到着すると、幸運なことに義母が以前から親しくしていた近所のご婦人が入所していた。旅行にもよく一緒に出かけた仲だった。そのご婦人と顔を合わせた途端、義母の態度は一変した。「私はここに入るよ」とあっさり言い出したのだ。こうして契約はすぐに成立し、無事に入所することができた。


 バタバタと過ぎ去る日々の中で、和聖は体力の衰えを感じていた。それは体よりもむしろ、心の疲れが深刻だった。気力が次第に失われていくのを感じながら、それでも日々を何とかこなしていた。今まで心身ともに力が入っていたのが、ふっと力が抜けて幼少の頃から現在に至るまでの自分を思い出していた。

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