奇病
f
こぼれ落ちる
私は水浸しの床を見て腕組みをした。
彼女はいっそ清々したような雰囲気を纏っていた。
「だってしょうがないんだもの」
彼女は感情が不安定になるとそこらじゅうを水浸しにしてしまう。といっても粗相などではなく、水分をたくさん溜めこむ体質のため、皮膚からそれが滲み出てしまうのだ。この症状を抱える人はそこまで珍しくない。だいたいは遺伝性で、薬やカウンセリングである程度抑えることができる。水の量はソファをちょっと湿らす程度から──
「でも、相手は窒息しかけたって聞いたけど」私は確認した。
「すごくすごく混乱させられたから」彼女は服の袖から滴る雫を眺めていた。
私は唸った。
彼女は薬もカウンセリングも嫌いだった。それでいて「症状を制御できない」と言う。その言い分にしても疑わしいと私は思っていた。彼女は明確でなくても、少しの悪意を持ってあたりを水浸しにしているように思われてならなかった。
私がそう考えているのを察していたのか、たまに彼女は言った。
「あたしが好きでこんなことしてると思う?」
そう言われてしまうと、どう考えても不便な症状なのでわざとやる意味もない、と思うのだが、彼女の場合、堪えるべき瞬間を分かっていながらそうしないでいるように見えることが度々あった。
彼女の家は彼女の症状を有効活用すべく設計されていた。
そこらじゅうに湿らせた砂や古木と苔を詰めた金魚鉢が置かれていて、苔は彼女から発せられる湿気ですくすくと成長する。苔が健やかに育つよう、部屋には間接照明しかなく、少し暗い。彼女は良い塩梅まで大きくなったコケリウムを売ることで生活していた。 彼女の気持ちは一人で部屋にいる時は比較的安定していたが、それで商売ができる程度には滅入っていた。
彼女はよく他人事のように言った。
「こんな病人、トイレに流しちゃえばいいのに」
この症状を持つ人がそうやって自殺したというニュースをたまに聞く。ところ構わず水浸しにするなんて、そりゃあ彼らは生きづらいに決まっているだろう。でも、だからってそこまで思い詰めなくて良いのではないか? 四六時中迷惑をかけているというわけでもないし、そのうち特効薬が作られるかもしれない。それに──
「そんなことしたら修理にいくらかかると思う?」
彼女は食い下がる。
「でも長い目で見て、この先ずうっと拭き掃除したり、カビと戦ったり、対応に追われてうんざりすることを考えたら、その方が良いって思わない?」
彼女はこの調子で長いこと死にたがっていた。私が愛想を尽かすのを期待しているのか、わざと部屋中をびしょびしょにしている気がする時もあった。でも、私は彼女に死ねなんて言ったりはしなかった。当たり前じゃないか? 私は特別性格が良いわけでもないが、他人に死を求める権利はないことを知っている。
彼女には同じ症状を抱えた親類が何人かいた。彼らは彼女よりずっと歳上で、その人たちについて、彼女はたまにこんなふうにに語った。
「いったいどうやってあんなに長生きしたのかしら? どうやってこんなことに耐えたのかしら? つまり……どうやって自分自身に耐えたのかしら?」
彼女は帰省した際に叔父とそれについて話し合い一応の答えを得た。
「若い頃は自分だってびしょびしょにしてしまうことが嫌なのにどうにもならなくて辛かったって。でもそういうものだと受け入れるしかないって結論に至ったみたい──そんなことあたしだって思いつく理論だわ。なんにもしないで見て見ぬふりをするのとどんな違いがある?」
彼女はますます滅入ってしまったようだった。
だが、私はその結論はあながち間違いではないと思った。人生にはどうにもできないことが確かに存在する……ただ、彼女の中であの症状がそれに当てはまるのかは分からなかった。
彼女は水浸しにすることを「しょうがない」と言いつつ開き直りきれず、本質的な解決策が見つからないことに絶望し切れないような不安定さを抱えていて、その揺れを反映して周囲も洪水みたいな有様になるのだった。
「あたしがびしょびしょになっている限り、あたしは病人で、それ以上でもそれ以下でもないの。なにを考えているかは問題じゃない」
家の中が水没する頻度が高くなった頃、彼女はコケリウムを全て売り切って「魚でも育てようかしら」と言い始めた。そのためにまた金魚鉢を入荷したが、肝心の魚はなかなかやって来ず、彼女の部屋にはただ空のガラスの器に水滴が垂れる音が響いていた。
結局、彼女は自殺した。トイレのレバーに紐をかけて、自分で流れていった。
案の定水になりきらなかった彼女の肉体は排水管に詰まり、バスルームは水浸しになった。
私はやれやれと思いながら水道局に電話をかけた。いったい修理に幾らかかるやら。
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