幻の店

紙飛行機

幻の店

 今夜はとても気分がいい。酒を何杯呑んだかなんか、そんな野暮なことはどうでもいい。初めて入った一軒目の店は小ぶりだがとても美味な焼き鳥を出してくれた。噛む事に肉汁が広がり、口の中でタレと混ざることによって、大変良い気分になる。そこに辛口の日本酒をちびちびとやる。それを焼き鳥四本、冷やのお猪口を三杯やればもう夢心地だ。食べながら考えを巡らすことは全ていい事になる。ネガティブな考えになりっこない。店もよく賑わっている。騒がしいとは思わない。店が繁盛し、皆楽しんでいる証拠なのだ。僕はいい心地のまま一軒目を後にした。気分はいいとはいえ泥酔はしていない。それぐらいのほろ酔い具合がちょうど良い。道を歩けばキャッチの声がかかる。僕はにっこりとして手を振ってまた進んだ。二軒目は何にしよう。そう考えながら。


 出張でこの街には定期的には来るとはいえ、半年に一回ではいろいろと回ることもできない。今回はこの辺りを周ろうとか次はこっちにするかなど、来る度に呑みの場所は変わる。


 そこは電車沿いの通りだった。電車の高架下は最近リニューアルされて小綺麗な店が並び、垢抜けた感じがある。対する通りの向かい側は、チェーン店の居酒屋や昔ながらの喫茶店、パチンコ屋など雑多な感じで、伸びる路地の先には成人向けの怪しい店がギラギラとしたネオンを輝かせている。僕はどちらの雰囲気も好きだった。ただ、高架下の小綺麗な店にはどうも一人呑みには不向きなところが多く、向かい側の店を選んでしまいがちだった。


 そんな向かい側に並ぶ店の中に、薄暗い路地へ向かう道があった。入り口に貼られている案内図はかなり古い物らしく、埃を被った姿で昔の鉄道会社の名前、複数の店舗と奥に続く路地と別の道へと続く出口までの経路が描いてあった。入り口のすぐ側には明かりが灯った店が一軒だけあった。僕はそこで美味しいものが食べられるのか、美味しいお酒が呑めるかなどの期待感は全くなかったが、単純にどんなお店かという大きな興味が湧いた。


 通路に入ると一つ明かりがついている。半開きの引き戸があり、その向こうにはカウンターがあった。カウンターの上には雑誌や団扇が乱雑に置かれている。奥の厨房も換気扇や壁に油がこびりついており、お世辞にも綺麗とは思えない。


「いらっしゃい」カウンターに立つおばさんは笑顔で迎えてくれた。僕はカウンターの中央の席に座った。


「何にする?うちは飲み物はビールと日本酒、あとは焼き鳥だけだよ」おばさんはそう説明し、僕は瓶ビールを頼んだ。


「あ、あとね。お酒呑む前にうちはこれを飲んでもらう事になってるの。特製のスープなんだけど」


そう言ってガラスのコップに注がれた薄く濁ったスープのようなものを出された。試しに一口飲んでみたが、鶏がらスープを水で薄めたような味であまり美味しいとは思えない。ただこれを飲んでビールにありつけるのであればと、僕は二口でスープを飲み干した。

シュポという栓を抜く音と同時にビールの瓶とガラスコップが僕の前に置かれた。僕はビールをコップに注ぎ、一口呑んだ。どこか緊張の気持ちが消えず、カウンターで俯いていた。


「お兄ちゃん、よくこんな店見つけてきたねぇ」


カウンターの端に座っていた常連客と思しき人が声をかけてきた。顔を見るからにもう結構出来上がっているようだ。


「少し入ってみたくなって…」僕は軽く会釈をしながら言った。


「そうか。おすすめは焼き鳥のおまかせだよ」常連客がそう言ってくれたので、僕はそれを頼んだ。


 他に常連客は二人いて、カウンターの端にいる客とたわいのない話をしていた。僕はもの珍しげに油にまみれた厨房や食器棚を見ていた。実際、メニューの札は無く、本当に焼き鳥の盛り合わせのみが食べ物で出すものらしかった。ガス漏れの注意喚起のシールも黒く粘っこい油が覆っていたし、湯沸かし器もそうだった。そこにはたくさんの時間が地層のように蓄積されていた。それは外にある通りの向かい側が建て直される前の景色の頃も変わらずこの姿をそのままに営業してきたのだろう。カウンター側もき決して綺麗ではなかったけれど、サッカーチームや地元の工務店の広告が描かれたプラスチックの団扇が置かれている。常連客の呑む瓶ビールもスカッと冷えて瓶に雫が滴っている。大袈裟かもしれないが、僕は厨房とカウンターとで、い今昔が隔たっているのではないかと感じた。路地の入り口に書いてある案内図のような通路はもうない。通路の奥にはトイレがの仄暗い空間に佇んでいるだけで、その先は現実の世界と拒絶するかのように暗く、カビ臭い空間があった。


 僕が瓶ビールの三杯目をコップに注いでいる時に、焼き鳥の盛り合わせが出てきた。モモ肉の塩、レバーのタレ、鶏ハツの塩、手羽先の塩が一つの平皿に盛られていた。僕がレバーに手を出そうとしている時、三人の常連の中の一人が顔を真っ赤にしてご機嫌で帰って行った。彼が通路を出たタイミングで真ん中に座る常連客がコップにビールを注ぎながら喋ってきた。


「いやー、どうだい君。この店は。おもしろい店だろ。昔はねこの路地と共にもっと盛り上がっていたんだ。今はこんなだけどね。おばさんが一人で切り盛りして、こうしてやっているんだ」


僕はモモ肉の串に手をやりながら笑顔で返した。


「結構長いですね。ここも」


「そうね。昔は旦那とやってたんだけどね。十五年前に旦那が死んでからは一人でずっとやってるの」おばさんはそう答えた。たしかに奥には旦那さんと思しきしゃしんが立ててある。それにはラップが巻いてあって粘っこい油を防いでいた。


「奥にも店があったんでしょう。この奥の店はどうなったんですか?」僕は改めて路地の奥のことを聞いてみた。


「路地は最初通り抜けられるようになってたのよ。ほら、入り口に地図があったでしょう。あんな感じにね。でも三十年くらい前に塞がっちゃってね。路地のちょっと先にもスナックが二軒あったんだけど、あれも十五年前になくなっちゃってそのまま。倉庫みたいになってるわ」


おばさんは焼き台の串を返しながら答えた。


 ここが通り抜けられる路地だったころにはもっとこの路地も盛り上がっていたのだろうか。賑やかな明かりの看板や客引きの声、ご機嫌に酔っ払った人達の闊歩する喧騒、今のこの店はそんなところからは少し距離を置いているような気がした。常連客の人達も、そんな街の喧騒から離れているこの場所に居心地の良さを感じているのかもしれない。僕もそんな雰囲気に飲まれて瓶ビールをもう一本注文した。


「あんた、もう結構呑んだでしょ。この辺で切り上げな」おばさんがカウンターの端にいる常連客にそう言った。確かにその常連客はもう泥酔している様子だったし、どこか眠たそうだった。


「そうするかな。おばさん、お会計」端の常連客はそう言って財布を取り出した。


 僕は焼き鳥の盛り合わせを食べてからはビールだけでのんびりとしていた。何をする訳でもない。たまに思いを巡らせたり、常連客と喋ったり、おばさんと喋ったりしていた。決して綺麗でない店の佇まいを眺めながらゆっくりとビールを呑む。誰かと呑むのと違い、これが一人で呑む時の楽しみだった。店が騒がし過ぎず、適度に人の話し声が聞こえる程度がちょうど良かった。そんな僕もビールの瓶を二本空けてしまっていた。


「おばさん、僕もお会計をお願いします」僕がそう言うと、はいよ!と威勢よく返ってきた。


僕が支払いを済まし立ち上がって「ご馳走様です」と言って引き戸を開けると、「また、おいでね」と一言おばさんは言った。


 街の喧騒に戻り、僕はいい気分だった。また機会があったらあの店に来ようと思いながら…


————————————————————


 また半年後、あの店に向かおうと街をあの通りに出た。高架線から列車の音がけたたましく鳴り、酔っ払いが闊歩していた。僕は路地の入り口を探した。通りの端から端まで微かな記憶を頼りに朧げにイメージする目印を探した。ところが店は開いていなかった。正確に言えば、路地のシャッターが閉まっていた。恐らく店は休みなのだろう。他の明るい看板に埋もれて目立たないシャッターは穴が塞がった大木の根のように飲み屋街の通りに存在そのものを隠して、以前からそこには何も無かったかのように佇んでいた。


 そのまた半年後に行ってみたが、状況は変わらなかった。あの時あのお店に入れたのはちょっとした偶然なのかもしれない。タイミングが良かったのだろう。しかし、もう一度あの店に入ってみたいと言う気持ちは変わらなかった。路地の入り口にある案内図を改めて見た。街の埃に覆われてはいたが、当時のそのままの姿に近いのだろう。今はもう姿形もない店の名前やかろうじて残っている奥のトイレ、唯一未だに営業しているあの店が共存していた頃を偲ばせる。シャッターが閉まったその姿を見ると、どれも幻の店のように思わせる。そんな気持ちにならないでも無い。

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