失われた記憶

ほのぼの太郎

第1話 町民図書館

 シュウヤは学校から直接、家に帰ることはない。

 必ず遠回りをして帰る。その道すがらシュウヤはいつも図書館に寄った。

 平屋で緑色の屋根、漆喰の壁がところどころ剥がれ落ちている。古くからある町民図書館である。

 立てつけの悪い入口の引き戸を開くと、色あせた黄色いエプロンをした年配の女性司書が一人カウンターに座っている。

 いつもの風景。

 下を向いたままで、こちらを一瞥もしない。

 狭い空間にいくつも並べられた木製の本棚は天井に届きそうなほどで、通路は異様に狭い。通路を進むと突き当りに、また引き戸がある。引き戸の先は自習室だった。木製の長テーブルとパイプ椅子がいくつか並べてあるだけの簡素なものだ。

 窓も摺ガラスになっていて、外光もあまり入らずいつも薄暗い。こういう環境の自習室であるから、利用する人々も極端に少なく、大抵がシュウヤの貸切状態であった。

 シュウヤは毎日、この自習室で閉館の午後六時まで勉強して帰るのが日課となっていた。

 薄暗く、人の目に触れず、邪魔もされない。勉強に集中できる環境が、シュウヤは気に入っていた。

 今日も自習室には誰の姿もない。窓際のいつもの席に座り、鞄から参考書とノートを取り出す。

 来年の春には大学受験を控えていた。

 シュウヤはそのときを、心待ちにしていた。

 生まれ育ったこの町に未練などない。それどころかシュウヤは一刻も早く、この町を出たいと思っていた。

 自らの境遇や人間関係に対して不満があるわけではない。

 優しい両親に恵まれ、学校にも数多くの友人がいる。彼らの中には、この小さな町を愛し、ずっとこの地に住み続けたいと願っている者も多くいた。

 そういった人々の想いに触れるたびに、シュウヤは説明しがたい虚無感に支配されるようになった。

 シュウヤと彼らとの間には大きなクレパスが奔り、それは決して飛び越えることのできない隔たりとなっていた。シュウヤもこの町に生まれ、彼らと同じように、この地を愛しているはずだった。だが、自分がこの町で暮らしていることに対して、いつのころからか強い罪悪感を抱いていることに気づいたのだ。

 不思議なことに、その理由が明確に思い浮かぶことはなかった。

 最初、その思いは一つの小さな点でしかなかった。だがその説明のつかない罪悪感は体中いたるところに浮かび上がる蕁麻疹のように増え続け、今やシュウヤにとって、この町での他者との関わりは苦痛でしかなくなっていた。だからこの閑古鳥の鳴く、町民図書館はシュウヤにとって唯一の安息の地と言ってもよかった。

 大学への進学と共にこの町を離れる。そう決めていた。

 見知らぬ町の、見知らぬ人たちの中で、新しい生活を始めれば、今のような不安な気持ちで満たされることはないだろう。そう、シュウヤは確信に似た気持ちを抱くようになっていたのだ。

 その日までもう一年もない。だから今さら、かつてのように、その理由を積極的に見つけ出そうとは考えていなかった。もう少しの辛抱なのだ。

 シュウヤは一時間ほど自習室で参考書を読み耽った後、トイレに行くため席を立った。

 戻ってくると人がいた。

 若い男だった。

 同世代に見える。シュウヤの前の席でノートを広げていた。

 シュウヤはその若者の横顔を見た瞬間、息を呑んだ。

 横顔に見覚えがあったのだ。

 

 どこで──。

 

 若者は真剣な表情で机に向かっている。

 

 最近ではない──。


 シュウヤは若者の横顔に面影を見ていたのだ。

 

 子供の頃の彼を見たことがある──。

 

 記憶を辿る。何か得体の知れない不安感がシュウヤの体に覆いかぶさっていた。


 辿ってはならない記憶──。


 決して思い出してはならない秘密の扉──。

 

 なぜか自分がこの町と、そしてこの町の人々と相容れることができない理由がここにあるように感じたのだ。

 シュウヤはゆっくりと自分の席に戻った。

 目の前に若者の背中がある。猫背気味のその背中を見ることもなく見る。不意に若者がすっと立ち上がった。そのままふらりと自習室を出ていく。

 若者の席には開かれたノートと筆記用具だけが取り残されていた。

 トイレだろうか。

 自習室の外の気配を窺うが、すぐに戻ってくる様子はなかった。

 若者は何をやっていたのだろう。机には教科書や参考書の類は見当たらない。

 開かれているのは一冊のノートだけ。

 ゆっくりと立ち上がり引き戸の方を見る。まだ戻ってくる様子はない。

 ノートの文字が目に入った。

 テーブルに両の掌を突き、身を乗り出して文字を凝視する。

 

 いったい自分は何をやっているのか──。

 

 やってはならないことをしている自覚はある。だが自分を止められなかった。体の奥底からせきたてる何かを感じていた。

 ノートにはシャープペンで書かれた薄く繊細な文字が見えた。

 若者はノートを横にして縦書きで文字を書いていた。改行が多い。カギカッコが見えた。

 

 小説──。


 「シュウヤ……」

 

 ぎょっとした。閉じていたはずの引き戸は、いつのまにか音もなく開かれ、そこには若者が立っていた。若者は気配もなく唐突に現れた。

 そしてシュウヤの名を呼んだのだ。

 シュウヤは若者を正面から見た。驚くほど白い肌。それと対照的に黒く長い髪。整った顔立ちで顎の線も細い。


 「ルリオ……」


  気づくと声になっていた。その言葉を発した自分に驚いた。脳が命令する前に口が勝手に動いたかのように、まるで意図しないものだったからだ。

 だが言葉にして不意に浮かび上がる記憶があった。


 ──ルリオ。


 目の前にいるのはあのルリオなのだ。

 ルリオは勝手にノートを盗み見たシュウヤを咎める様子もなく、嬉しそうに笑顔を向けている。

 

 なぜこのタイミングで──。


 あと数か月で何も思い出さぬままこの町を出られたのに──。

 

 ルリオの笑顔は幼かったあの当時と変わらぬまま──。


 そのときルリオ以外のすべてのものが闇で塗りつぶされたかのように、忽然と消えた。

 立て付けの悪い引き戸も、長テーブルもパイプ椅子も、自習室そのものが見えなくなった。

 

 見えるのは数メートル先にいるルリオの姿だけ。


 するとルリオの体がみるみる縮んでゆく。そして若返っていくのだ。

 シュウヤの記憶の中にある幼き日のルリオが目の前に現れた。

 シュウヤに対して変わらず無邪気な笑顔を向けている。

 ルリオの背後、真っ暗闇に、突如、鮮やかな絵の具が塗られたかのように、何かが浮かびあがった。二人の女の子だった。幼いルリオと同じ年くらいだろうか。一人はショートカットで、目が大きく、いかにもやんちゃそうな女の子。もう一人は対照的に髪の長い、伏し目がちの、おとなしそうな女の子であった。

 

 この二人にも見覚えがあった。


 フウカと──そしてトウコ──。


 芋づる式に記憶が蘇る。

 三人の背後にまた何かが現れはじめた。

 それは大きな屋敷であった。出窓がいくつもある荘厳な雰囲気を纏った西欧風の、三階建ての屋敷である。

 自分はこの屋敷も知っている。

 屋敷に灯りは見えない。どの窓も、その奥は漆黒の闇である。

 そのとき不意に、三階の窓から、一瞬、光るモノが見えた。

 それは二つの小さな光。あやしげでぼんやり輝くそれは、こちらを窺っているようにも見えた。

 あの光を見てはいけない──。どこからか子供の声が聞こえた。目の前にいる三人の声ではない。さらに、その背後から、暗闇から声は聞こえていた。また暗闇に色がつきはじめる。

 不安な面持ちの、また子供が現れた。

 それは──幼き日のシュウヤの姿であった。

 

 目の前にいるのはルリオ、フウカ、トウコ、そしてシュウヤ。

 

 数分前までは決して思い出すことのできなかった記憶の中の風景が目の前に立ちはだかった。シュウヤは愕然としていた。

 

 封印された記憶の扉が開く。


 その重苦しい音が、シュウヤの耳に、今やはっきりと届いていた。

 

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