リリ

青葉寄

リリ


 地上で炸裂したらしい爆弾の音に、おれの意識は引き起こされた。

 軽く、右手を身体の真横に伸ばす。すると手首の少し手前辺りに段差が現れる。さらに段差の下に向かって手首を直角に曲げる。指の関節を反らすようにピンと伸ばす。――すると、指先にひんやりとしたタイルの触感が確認された。

 そうすることでやっと、おれはこの夜を生き延びたことを実感する。

 寝起きはいいほうだった。すぐに脳が覚醒し、おれは床に敷いたマットレスから体を起こして照明のスイッチを押す。瞬間、室内が明りに照らされ、真っ白な空間があらわになった。

「リリ」

 彼女の名前を口にする。返事はない。立ち上がると同時に二度目の爆発音が聞こえた。

 ここは地下で、爆弾の影響を受けることはないし、爆発の音量はほとんどカットされる。それでも、神経質の気があるおれにとって、不意に聞こえる破壊の音は心臓に悪い。

 センサーに手をかざし、棚のガラス戸を開く。そこから乾燥パンを取り出し、ビニールパックの水と一緒に流し込んだ。これが、半日分の食事にあたる。残り数を数えると、あと一週間分であった。

「リリ」 

 再び彼女の名前を呼ぶ。気丈な彼女がこの程度の音で恐怖することはないだろうが、一応様子を確認しておこうと思った。

 部屋は、壁も床も天井もすべてが白い。これは、この地下研究所の所有者であった父のこだわりだった。広大な空間にずらっと配置された三本の白い長机には、電源の落とされたコンピューターが整然と並んでいる。等間隔に配置された薄いモニターは、ここがまだ研究施設として使われていたときからほとんど動かされていなかった。

 床に散らばった書籍や段ボールに足をとられそうになりながら、おれは彼女の元へ向かう。部屋の隅に、――充電中の掃除ロボットと並ぶように、リリがいた。

 おれはしゃがんで彼女と視線を合わせる。

「おい、リリ」

「……ん」

「リリ」

「……おはよう、ルーカス」

 リリがぽやっとした声を発した。

 おれは小さくため息を吐く。これだけたくさんの椅子があるのにも関わらず、リリはいつも、冷たい床の上に猫のように座っているのだ。おれがやめるよう言うたびに「どこで寝ようがわたしの勝手でしょう」と我を通してくる。困ったものだ。これでも、おれより一つ歳上である。

「また戦争が始まったみたいだ、最近はおとなしかったのに。爆発の音は聞こえた?」

「いいえ。眠っていたみたい」

「そうか、ならいい」

 やはり爆撃の音が聞こえるのは、おれが神経質なだけなのかもしれない。昔から聴覚過敏の気があった。

 おれは長机の一角に座る。リリは寝ぼけた声で何か言いながら、トコトコとおれの後に続いた。

「気分はどう?」とおれは訊く。

「問題ないわ」とリリは答えた。

 不意に、蛍光灯がわずかに点滅した。部屋のどこかから、機械のモーター音が微かに聞こえる。

 おれはビニールパックを握りつぶし、残りの水を飲み干した。


 隣国との戦争が始まったのは、おれたちが物心ついたころのことらしい。長期化した戦争は、二年前――おれが十五歳のころに、政治のうんぬんでいきなり激化し、多くの死傷者を出すようになった。小国であるこの国は、折れた木が朽ちていくように着々と滅びに向かって進んでいる。 

 西のほうにあったおれの実家に爆弾が降ってきたのも、もうずっと前のことだ。近所の家も焼け散り、おれの母と兄、そして近くの家に住んでいたリリの両親が亡くなった。おれとリリは寮生だったため、父はこの地下研究所にいたため、被害を受けなかった。

 おれの実家があった街は都市部に近かったため真っ先に攻撃を受けたが、この研究所の地上である一帯は田舎町であるため比較的被害が少ないらしい。この地下への入り口が隠されている建物もたいして損害はないと思われる。――というのも、おれは約二年間まともに地上に出ていないため正確な状況は知らなかった。

 家が焼け、戦況がまずいと悟った父は、おれたちに地下研究所に来るよう言った。小さな国だ、逃げ場も多くはない。外国につてもない。父の研究室には高度な設備が揃っているため、シェルター代わりに避難生活を送るには十分だった。

地下で暮らすようになり、気づけばおれも十七歳、とっくにスクールを卒業するような年齢になっている。父は一年前に感染症で亡くなった。遺体は処理のしようがなく、父の自室にあった冷凍庫にしまってある。

 当初は安全だと思っていた地下での生活も、だんだんと翳りを帯びていくようになった。

 大量にあったはずの食料ももうすぐ尽きる。死へのカウントダウンは着実に進んでいる。いつ敵兵が地下への入り口を見つけるかわからない。いつ殺されるかわからない。

 そんな生と死の狭間のような場所で、おれは、リリと二人で暮らしている。


「じゃあ、おれは研究室にいる。何かあったら呼んでくれ」

 この地下には今いる部屋とは別に、実験用の部屋(研究室)が五つ、書庫、印刷部屋、バスルーム、父の自室だった部屋がある。ここは元々、名誉教授であった父の半ばわがままで作られた研究施設だった。父の広大な趣味部屋と言っても構わないだろう。

「ルーカス、いつも言っているけど」

「なんだ」

「一人でいるってこと、あなたが思っている以上に息が詰まるのよ」

「……そうか」

 リリの言わんとしていることはよくわかっていた。彼女がこの話をするのはこれでN回目、Nは百以上の自然数である。つまるところそれは「もっとわたしに構ってよ」を少し遠回りに表現した発言だった。

 おれは立ち上がって言う。

「そんな時間はない。一秒でも無駄にはできないということは、君にもわかるだろう? 早く研究を完成させないと。食料だって限られている」

 水のほうはまだ余裕があるが、パンはもう一週間で尽きる量しかない。食事の頻度を減らしたとて、それは悪あがきに過ぎないだろう。カウントダウンは確実にゼロに近づいている。

 それまでになんとしてでも研究を完成させなくてはならない。だから、リリに構っている暇などないのだ。 

 リリは数秒黙った後、再び抗議の声を上げる。

「このままだと退屈でおかしくなりそう。ここには暇つぶしの道具もないじゃない。部屋は真っ白、書庫の本はわけのわからないものばかり」

「ロボットに相手してもらえばいい。ここのやつは賢いから十分話し相手になる」

「嫌、ルーカスがいい」

「困らせないで、おれにはやらないといけないことがある」

 呆れた声でそう言うと、リリはわかりやすく拗ねた様子を見せた。

 おれは自分より低い位置のリリを見下ろす。寂しがりという性格もあるだろうし、外向性の強い彼女にとって、長時間一人で過ごすということは精神健康に支障をきたすレベルの悪習慣なのだろう。一日中会話をしないことにも抵抗がないおれにはよくわからないことだ。

「……どうして研究室に入っちゃいけないの?」

 可能な限り音量を抑えたような華奢な声で、リリはぼそっと呟く。その音を拾えなかったふりをして、おれは手元の空になった容器をじっと睨みつけた。

 おれは一日の大半を研究室で過ごしており、部屋の中にリリを招くことは決してしない。彼女がいると気が散るし、実験用の材料には危険物も多い。それに――見せたくないものもある。

「こんな部屋で一日中ぼーっとしてると気が狂いそう」

 リリはそっぽを向いてそう言った。

おれは少し大袈裟にため息をついて肩をすくめる。希望を叶えられなくて申し訳なく思うが、何度も繰り返されるこのやり取りにイライラしているのもまた事実であった。

「……そんなに嫌なら出ていきな。好きにすればいいよ、おれは止めない」

 口から出まかせでそう吐き捨てる。もちろん本気で思っているわけではないし、それはリリもわかっているはずだ。戦争が行われている地上は危険なことで溢れていて、ここに留まることが最も安全だった。外に出ることは死に直結する。

 突き放す言葉に抵抗はない。そもそもおれたちの関係はそんなものだった。友人ではないし、ましてや恋人でもない。親を亡くした者同士、仕方なく二人で暮らしているだけだ。それに加えて、最近は早く研究を進めなくてはならないと焦っていて、苛立っていた。

 リリはしばらく黙っておれを見上げていたと思うと、突然ふっと笑い声を上げる。そして、不機嫌なおれに向かって囁くように言った。

「嘘。あなたはきっとわたしを止める」

「なぜ」

 おれが問うと、リリは子どもの屁理屈を受け流すみたいに笑う。

「だって、ルーカス、あなたがわたしに『ここにいて』と言ったのだから」

 リリの言葉に、おれはぎゅっと眉根を寄せる。普段は子どもっぽい彼女が、不意に見せる年上っぽさが嫌いだった。発達がゆっくりなタイプだったという理由で初等スクールへの入学が一年遅れ、おれとは同学年だが、現在は明らかに彼女のほうが精神面で一段上にいる。

 勝ち誇ったリリの声色に、おれは彼女にも聞こえるように舌打ちする。するとリリはさらにおかしそうにするから、おれは「研究室に行く」と吐き捨て彼女に背を向けた。

 ねえ、というリリの声がおれの足を止める。人間の声とは思えないような清廉な音。無機質な空間に広がる凛とした響きには、リリがすべてを見透かしていると思わせるような力が備わっている。視界がくらりと揺れたような気がした。

 なんだ、とおれは言った。

「ルーカス、あなたはどうして世界を終わらせたいの?」

 リリが訊く。おれは振り向かずに答えた。

「価値がないんだ、この世界には。もちろん、おれにも、――君にもね」


 ◇


 ずっと、世界が嫌いだった。

 嫌いなものがたくさんあった。人が嫌い、物が嫌い。それらが積み重なって、最終的に「世界が嫌い」になってしまう、そんな苛烈で傲慢な子どもだった。

 子どもの頃のおれは、この世の多くの物事に意味がないと思った。

 証明のある数式や経験則によって定められた物理法則はいい。ちゃんと論理的な理由によって定められたものだから。しかし、世の中にあふれかえる多くの物事や人々の言動は、おれを納得させるような意味や価値を持っていなかった。

 この世界が嫌いだった。納得のいく理由のないものが許せなかった。それらはまるで、正誤のわからない定理を使った証明のようで、イライラする。

 だからおれは、この世界をぶち壊すことにしたのだ。そうすることは、おれにとってちゃんと意味のあることだった。――この意味のない人生を終わらせたい。そんな破壊願望がおれの心に芽生えていた。

 今思えば、自殺でよかったのかもしれない。人生を終わらせたいだけなら、なにも世界を巻き込まなくてもいい。そっちの方が健全だろうと今となっては思う。おれは傲慢な子どもだった。

 世界を終わらせるための爆弾を作ろうと思った。幸いおれは賢い子どもだったため、こんな大それたことも不可能だとは思わなかった。科学の知識はどんな大人よりも自信があったし、プログラミングも得意だった。例えば、小さなロボットに知能を与えることもできたし、コンピューター上に架空の人格を作り出すことだって容易かった。

 世界を壊すことくらい、おれには簡単だと思った。


 ◇


 五つある研究室の一つ。おれはそこで一日の大半を消費する。

 部屋の中は、機械音が微かに響く静寂の空間で、空気は冷たく静止している。床には大量の書籍が散らばっていた。父が集めていたもので、おれが読み終えたものがそのまま地面に積み重ねてある。壁に沿うように立ち並ぶ棚には様々な実験器具が埃をかぶって在りし日のまま並んでいた。

 部屋の中央には大量の管が繋がれた水槽が置かれている。父の実験で使われていたものだ。水槽を満たす液体は小さな泡が立ち昇り、わずかに発光している。

 おれはアームチェアに深く腰掛け、水槽に背を向けるように巨大なモニターをじっと見つめていた。――そこには世界を終焉に導くのに必要なプログラムが並んでいる。

 部屋は静かだ。自分の喉が鳴る音すらも、安っぽいドラマの演出みたいにはっきりと聞こえる。棚の工具や使っていない機械はひっそりと沈黙し、その静けさがホワイトノイズのように耳障りだった。

 薄暗い研究室の中で仄かに光る水槽が、キーボードに触れるおれの指先を淡く照らしていた。


 ◇


 何もかも嫌いだった幼少期のおれは、世界を終わらせるための計画を立てることにした。何事も先を見通すことが大事だと、科学者の父がよく言っていたからだ。

 まずは知識をつけるところから始めようと思った。すでに科学の知識はそこらの研究者よりも豊富であると自負していたが、世界を相手にするにはまだ心許ない。それに、研究に必要な場所も道具も費用も揃っていない。

 だから具体的な始動は七年後、中等教育を終えてからにしようと考えた。スクールを卒業した生徒は基本、専門的な知識を得るため大学に入学するが、おれはその四年間を利用し世界をぶっ壊す研究を進めるのだ。

 おれはやっと、この世界から解放される。


 しかし、完璧だったはずの計画に誤算があった。順調に思えていた過程に綻びが生じた。――リリと出会ってしまったのだ。

 最悪な出会いだった。リリとさえ出会わなければ、おれはもっと早く世界を滅ぼす爆弾を完成させられていたはずだ。世界破滅計画は、リリによって阻まれた。

 十一歳で、スクールの一年生だった。

 その日おれは、いつものようにものすごくイライラしていた。同級生たちの間で交わされる整合性のない会話や、教師たちによる情操教育がおれの神経を逆撫でるのだ。

 綻びの発端はスクールに入学したこと。おれが立てた世界破壊計画には、「学校に通う」なんて記述はない。だから、初等教育はホームスクーリングという形をとったが、極端に他人と関わろうとしないおれを心配した両親が無理矢理全日制のスクールに入学届を提出してしまったのだ。本当に余計なお世話だった。

 スクールに入学したからといって、おれの目的は変わらない。ただひたすら世界を壊すための知識をつけるために本を読んだ。そんな陰気なおれに話しかける奴はおらず、図らずしておれは、勉強に最適な環境を手に入れることができた。

 しかし、科学と同様、多くの物事には例外が存在する。おれなんかに構おうとする物好きがいたのだ。――それがリリだった。

 毛先がゆるくカールした色素の薄い髪と青い目を持った彼女は、スクールの有名人だった。両親の希望で初等教育を一年遅らせたという彼女は、他の生徒より明らかに落ち着いていて、見た目も可憐で、――つまり、人から好かれるために必要なものをすべて持ち合わせていた。その目立ちようから、おれですら彼女の名前は知っていた。

「あなたもこっちにおいで、楽しいよ」

 休み時間、おれが読んでいた物理学の専門書を取り上げたリリは、にっこり微笑んでそう言った。彼女の背後には不安そうにしている同級生の集団がある。そんなやつに話しかけるなよ、とでも言いたげだ。

「いやだ」

 幼いおれは冷たさを隠しもせずに言う。リリは驚いたように目を見張った。おれは構わず続ける。

「それをして、何になるっていうんだ」

 おれはリリたちが遊んでいたらしいボードゲームを指す。「えっと」と、リリが困ったように眉を下げた。

「意味がないことはしない」

 最後にそう吐き捨て、おれは、呆然としたリリから本を奪い取る。

そして、この世のすべての人間との関わりを遮断するように、科学の世界に没入した。

 完全に嫌われたと思った。どうすれば最悪の印象を与えられるかくらいは、人と関わるのが嫌いなおれでも知っている。どうせぶっ壊す世界で誰に何と思われようが構わない。

 しかし、それは杞憂だったらしい。いや、おれは彼女に嫌われたくなかったわけではないから、杞憂というのはおかしい。ただ単純な思考による予測が外れただけのことだ。

 リリはその日以降おれに構うようになった。別に、おれが気になったわけではなく、ただ意地を張っていただけなのだろう。リリはそういう子だった。

 話しかけるわけでなくても普段からなんとなく近くにいて、じっと青い目を向けてくる。そして、ときどきぽやっとした間抜けな声で「こっちにおいで」「楽しいよ」なんて言って、彼女がやっている楽しそうでもない遊びに誘ってきた。無視を決め込むと、にやりと笑って「ルーカスはお子様ね」なんて年上ぶったことを言ってくる。その度におれは舌打ちした。するとリリはさらにおかしそうに笑うのだから、余計に腹が立つ。風に揺れる彼女の線の細い髪すらも自分を笑っているような気がして、理不尽にイライラした。

 おれは世界を壊さなくてはならないのに。こんなやつにかまっている暇なんてないのだ。むかついた。イライラした。じっとこっちを見てくるのがうざったいし、「ルーカス」なんて気安く呼んでくる態度も気に食わない。

 だからおれは、リリの世界を見ようと思った。

受け入れる気になったわけではない、むしろ逆だ。――彼女の見ている世界を知って、思い切り否定してやろうと思ったのだ。

 ようは粗探しだ。リリが大事にしているものを一つずつ徹底的に、いかに価値のないものなのかを知らしめようと思った。彼女の価値観をすべて否定して、おれのいる虚無の世界まで引き摺り下ろしてやるのだ。

 おれはリリの遊びの誘いを受け入れるようになった。それをリリは、おれが好意的であると勘違いしたらしく、笑顔でおれを歓迎した。

 敵を倒すには、敵を深く知らなくてはならない。おれはリリに誘われた意味のない遊びをした。カードを並べるゲームも、走って相手を捕まえる遊戯も、本当にくだらなくて笑えてくる。あまりに退屈だったため、最初は頭の中で数学の問題を解いたり、昨日読んだ本について思い返したりした。しかし、リリは話を聞いていないことへの感知能力が高かったようで、おれは仕方なくリリのつまらない話に耳を傾けるようになった。周期的に相槌をうち、作為的に「聞いているよ」とアピールする。ときどき作り笑いを浮かべてやると、リリはものすごく嬉しそうにするから、罪悪感すら湧いてきた。 

 そうしているうちに、おれの心に動きがあった。

 ときどき、はっとすることがある。それは休み時間にサッカーをしているときだったり、リリの家でゲームをしているときだったり、クラスのやつらとキャンプをしていろときだったり。――敵の視察のためだけに行っていたはずだったものを、純粋に楽しんでしまっていることに気づくのだ。

 リリに唆されるまま、何の抵抗もなしに彼女の提案する遊びに参加する。今までの価値がないと切り捨てていた多くのものが、おれの生活の中心に無遠慮に入り込んでくるようになる。しかし、おれがそれを拒むことも無意識になくなっていた。

「ルーカス」

 ぽやっとした声で名前を呼ばれる。その音の響きにイライラすることもなくなっていた。

 最悪なことになった。あまりにも不覚だった。――いつからか、おれは、この世界を悪くないと思うようになっていたのだ。

 情けない話だと思う。孤高のライオンのような態度をとっていたくせに、あっという間に絆され飼い慣らされ、ペットの猫と化したみたいに落ちぶれてしまった。入学以前の自分が知ったら侮蔑の言葉を投げつけられるに決まっている。

「ルーカス!」

 遠くでリリがおれを呼んだ。子どものおれは手元の本をたたみ、「今行く!」と叫ぶ。

 幼少期の破壊願望は、その幼さゆえのものだったのかもしれないと思うようになった。ろくに対人関係を築いたこともなく、本で得た知識で悟ったような気になって、狭い視野で判断を下していたのだと気が付いた。意味がないと突き放したいろんなものが案外悪くないじゃないかと思えてきた。

 おれはスクール生活をそこそこ愉快に過ごし、世界への恨みもいつの間にか薄れていた。


 ◇


 おれが再び世界を滅ぼそうと思ったのは、戦争の状況が怪しくなりはじめ、父が死に、この研究所でリリと二人で暮らすようになった後だった。やはりこの世界に価値はないと気づき、そこから始まる短絡的な論理は、世界を終わらせることに帰結する。

 リリと出会い、世界を終わらせる計画はいったん保留となったが、勉強自体は続けていた。破壊衝動を失ったおれは、将来はこの知識を使って科学者になりたい、なんて、希望の塊みたいな夢を抱くようになっていた。平和ボケしたおれが抱いた、間の抜けた夢物語だ。

 知識は豊富であったため、研究は猛スピードで進んでいった。加速度計が高速で数値を上げていくように、おれは知識を吸収し、出力していく。

 食料はもうすぐ尽きる。絶食の期間を合わせても、時間はそう長くない。早く、なんとしてでも研究を完成させなくてはならなかった。

 まるで深い海に潜るように、科学の世界に没頭する。化学構造式を頭の中で組み立てる。正しい数式を導く。過集中とも呼べるような没入感により、思考がよりいっそう研ぎ澄まされる。

 そうしているうちにふと、糸を鋏で切られたみたいに集中が途切れた。水中に潜っていたような疲労感を感じながら、おれは霞んだ目をデスク上のデジタル時計に向ける。

 深夜、といってももう朝に近い。ここでは朝も夜もないが、適切な生活習慣を保つことは生存に関わるため、一日の区切りはきちんとつけるようにしている。しかし、今日は切りのいいところまで進めようとしているうちに、就寝予定時刻を大幅に過ぎてしまっていた。

 そろそろ休憩しようと思ったときだった。完全に気が抜けていて、注意力が散漫だった。

 不意に――遠慮がちに、研究室の扉が開かれた。

 この地下におれ以外の者はただ一人しか存在しない。一瞬の消去法により、誰なのかわかる。

 おれは慌てて手にしていた書籍を閉じ、入り口まで走った。

「入るなって言っただろう」

「ごめんなさい、でも、電源が――」

 おれはリリを遮って言う。「だったら、ノックでもすればいいじゃないか」

「邪魔すると悪いから」

 あくまでおれを想っての行動だというリリの態度に、強くあたることもできず、おれは諦念とともにため息を吐いた。機械の作動音すらも空気を読んだように途切れ、空間は一時的に完全な無音となる。

おれは無言のままリリの腕を引っ張って研究室を出ると、苛立ちを隠しもせず、過剰に足音を鳴らして廊下を歩いた。

「……二度とおれの邪魔をするなよ」

 おれは低い声で言う。リリは何も答えない。

「邪魔するなら」おれはそこで一度言葉を切って目を伏せ、数秒の逡巡の後、再び口を開く。「ここから出ていけばいい」

 リリの言った通り、充電器は壊れていた。ワイヤレス式の充電器に繋いであったらしいロボットにはほとんど充電が残っておらず、赤いランプがまるで命の危険を知らせるようにせわしなく点滅している。

 高度な人工知能が搭載されているこのロボットだが、土台となっている部分はおれが子どものときに組み立てた少し古い型のものだった。よって、充電器が最近のものと合わない。おれは父の部屋のガラクタ箱の中から、唯一残っていたコード式の充電器を発見した。

 プラグを差し込むと、緑のランプが点灯する。充電が始まった合図だ。

 電源も古くなっているだろう。電池が減るスピードも速くなった。つまり、寿命が近い。

 ロボットの表面に触れると、金属らしい怜悧な温度を返してくる。しばらくそうしていると、充電の進んだ機械が僅かに温度を持ち始めた。

 その間、リリは一言も話さず、じっとおれを見つめていた。


 ◇


 目覚めると、どこか違和感があった。

 それは虫の知らせに分類されるようなささやかな違和感だった。第六感的な感知機能が作動し、脳に「異常事態発生」の信号が絶えず送られている。それは次第に焦燥に似た感情となって、おれは、不可思議な力に突き動かされるように体を起こした。

 何かが、起こっている。

 おれはいつもの生存確認もせず、自分が幽霊かもしれないまま研究所内を駆け回る。嫌な予感が冷たく背中を走った。異分子を探し出すように、原因を追求するように、研究所内を隅々まで確認する。

そうしておれは数分もせずにこの妙な感覚の正体を悟った。――リリがいなくなっていた。

 心臓の拍動が一瞬にして加速する。

 一度大きく脈打ったような気がしたと思うと、くらりと視界が揺れた。身体中から冷たい汗が噴き出てくる。

「リリ」

 名前を呼んだ。いつもの朝と同じように。

 真っ白な床を蹴って廊下を進む。焦る気持ちに比例して早足になる。

「リリ!」

 扉を開き、叫ぶ。真っ白な壁が声を僅かに反響させ、肌の表面を叩いた。空間を裂くように並べられた三本の長机は、何事もなかったように沈黙している。

 部屋中を歩き回って視線を走らせる。勢い余って机の直角にくるぶしをぶつけたが、鋭い痛みすら別の次元での出来事のように気にならなかった。

 おれは駆け足で研究室に向かった。五つある部屋に隅々まで目を行き渡らせる。心臓が大きく鼓動する。リリはどこにもいない。

「リリ!」

 父の自室、書庫、印刷室、バスルーム。すべての扉を開き、リリの痕跡を確認する。

 首筋に汗が流れた。騒ぎたてる心臓を抑えるように着ているTシャツの胸倉を掴んで深呼吸する。

 おれはもう一度、長机の部屋に戻った。そうすればさっきまでのことは全部おれの見間違えで、いつものように部屋の隅で猫みたいに眠っているリリがいるように思えた。

しかし、そこにあるのは空白だけ。

 何度も廊下を行き来し、リリの姿を求めた。つっかえそうになりながら荒い息を吐き、名前を呼び続ける。喉はかれ、たたみかけるような激しい咳に襲われた。

「リリ」

 次第に、自分の声に迷子の子のような切実さが混じってくる。眉間の奥に鈍い頭痛が走った。

 研究所内をくまなく探したことにより、消去法的に、考えられる結論はただ一つになる。それは、研究所の外、つまり、地上。

 ぞっと頭から血が引いていく気がした。震えるような感覚が背筋を立ち上がる。

 昨日、自分が吐いた言葉を思い出す。――そんなに嫌なら出ていきな。

 まさか。そんなことがあるわけない。おれは頭を振って幻想を振り払う。

「リリ!」

 何度叫んでも返事はない。胸をかきむしられるような焦燥に、なにがなんだかわからなくなってくる。

 おれは一度立ち止まり、呼吸を落ち着かせようと試みた。胸に手のひらを押し当て、深く息を吐きながら、頭の中であらゆる可能性を検索する。

 連れ去り? 誰かが地下に入ってきた? あるいは、リリが自分で出て行った? なぜ? ――やはり、おれがあんなことを言ったから?

 頭を回転させ、何百通りもの予測を導く。不穏な可能性が連鎖反応のように無限に広がっていく。脳が焼かれたような頭痛が走り、鼻の奥がじんと熱を持ち始めた。

 ゆっくりと周囲を見渡しながら、肩で呼吸を繰り返す。途中、くらりと眩暈がして、よろけそうになるのを足を踏み出して堪えた。

 拳を強く握った。爪が手のひらに食い込む。ぶち、と皮膚が裂ける音がする。指に何かが伝うような感覚が走る。

 人差し指の関節で小鼻を強く押した。溜まっていた鼻血が飛び出し、白い床にまだら模様を作る。

もう一度他の部屋を確認するため、素早く方向転換した、が、――何かにつまずいて身体が前に倒れた。

熱を持った右膝に手を当てながら振り返ると、昨日取り換えたばかりの電気プラグが外れているのが見えた。コンセントに差し込む金属部分が大きく歪んでいる。

 おれは立ち上がり、足を前に踏み出す。 

「リリ――」

苦痛から喘ぐように、溺れるなか必死で水面から顔を出すように、名前を呼んだ。

しかし、いつまで経っても、あのぽやっとした声が返ってくることはなかった。


 結局リリは三日後に戻ってきた。

いわく、やはり彼女は地上にいて、それは食料を取りに行くためだったらしい。近くにあった敵基地まで、一人で赴いたのだと言う。

「リリ」

 名前を呼んだ。努めて落ち着いて発したつもりでいたが、自分の声を音で聞いて、その怜悧さに気が付く。隠しきれず滲み出る怒りの感情を、リリは当然感知したようだった。

「ルーカス、わたし――」

「……外に出たんだな」

 遮っておれは言う。落ち着いた対話を努めようと思ったが、おれは自分が思っているよりもずっと感情的になっているらしい。

しばらく無言でリリを見下ろしたが、リリが言葉を継ぐことはなかった。

「おれに何も言わず?」

 思わず強い声が出た。

「おれが頼んだか?」

 捲し立てるように続ける。リリはじっと固まったまま、何も言わない。

「勝手なことをするな」

「ルーカス」

 落ち着いた声で名前を呼ばれた。おれを鎮めようとしているみたいだ。あくまでも毅然とした態度を貫くリリに、つい、――かっとなった。

「ふざけるなよ」

 大きな熱を持った何かが全身を駆け巡る。頭の中が沸騰し、こらえていた感情が濁流のように溢れ出た。 

「おれのためか? おれが、おまえに何か求めたか?」

神経が興奮状態に陥り、内臓が震えるような激情が沸き上がる。視界が白く明滅し、キーンと耳鳴りがした。

「ルーカス、落ち着いて。感情的にならないで」

 諭すようなリリの言葉を、耳に入れまいと頭を振る。年上ぶりやがって。こんなときでも、子ども扱いするようにおれの言葉を軽く受け止めてくる。目の奥がぎゅっと熱を持った。

荒くなった呼吸を落ち着かせるように間を置いた後、おれは静かに言った。

「なんで、そんな危険な真似をしたんだ」

 地上は戦争の地で、爆撃なんて日常茶飯事。常に死が身体の横で息をひそめている。研究所の外に出ることは死に直結する。――そんな危険なこと、絶対にしてほしくなかった。

 おれは目元を雑に拭い、リリに背を向けて廊下へ向かって歩き出す。鼻の奥が熱く痛んだ。

ふざけるな。なんでおれがこんなに感情的にならないといけないんだ。

「おまえなんか――」

 ニセモノのくせに。そう続くはずの言葉は、喉の奥で詰まって、重い息だけが唇の隙間から漏れた。

 おれは、少し冷静になった頭で「ごめん」と呟く。そして、逃げるように研究室へ向かった。


 ◇

 

 校舎から、生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。

 おれは手元の本の文字を追いながら小さくあくびをした。木の間を伝って柔らかな光が降り注ぐ中庭は、教室の喧騒とは打って変わって穏やかな時間が流れている。昼休みの時間にこの場所のベンチに座って読書をするのが最近のおれの日課だった。

スクールに入学して四年経ち、おれは十五歳になった。背はぐんと伸びたし、声変わりもして、入学前とは別人のように成長したと自分でも思う。

「ルーカスは将来科学者になるの?」

おれの前に立つリリは、おれの顔を覗き込むようにして言った。

「どうだろう、将来のことは特に考えてないな」おれは本をたたんで言う。「なんでそう思うの?」

「だって、いつも難しい本ばかり読んでるじゃない」

 リリはおれの手元を指差した。白い指先に、木の葉の影が映る。

「科学の勉強は大事だからね」

「それは将来に役立てたいからじゃないの?」

リリに問われ、考える。なんでおれは科学を学んでいるのだろう。学ばなくてはならない、何か強い思いがあったような気がする。大切な使命感があったような気がするが、うまく思い出せない。

 まあいいや、と思っておれはリリを見る。きっとどうでもいいことで、リリと話しているほうがよっぽど楽しいのだから。

 風に揺れる木の枝を見つめながら、おれは無意識に「リリ」と呼んだ。

「なあに?」

色素の薄い髪をそよ風に流し、リリは身軽な動作でおれの横に腰掛ける。

「……リリ」

「なに?」

「リリ」

「だから、なに!」

むっとしたリリに、おれは「ごめんごめん」と言って微笑んだ。

「なんだか、君の名前は声に出して呼びたくなるんだよ」

 おれがそう言うと、リリはなぜか自慢げに目を細めた。なんだよ、と問うと、リリは笑って話し出す。

「ほら、『リリ』って言うと、自然に口角が上がるの」

 リリは人差し指で自分の口の端を触れて言った。いまいちピンときていないおれを置いて、リリは続ける。

「名前を呼ぶだけで、自然と笑顔になれる。素敵な名前でしょう?」

「別に、口角を上げなくても言えるよ」 

おれは口の端を固定したまま「リリ」と発音した。

「全然違う」リリは顔をしかめて抗議する。「音に深みがないじゃない。もっと気持ちのこもった呼び方じゃないと嫌。もう一度呼んでみて」

あまりに真剣な様子のリリに、おれは思わず吹き出した。

「呼んで!」

 リリに急かされ、おれは「リリ」と大げさに口角をあげて発音する。それが癇に障ったのか、リリは「もう!」と言っておれを睨んだ。おれは再び吹き出した。

「リリ」と、今度は優しく微笑むみたいに呼んだ。「なに」とリリが首をかしげる。

そんなささやかなやり取りが幸せだと思ったとき――


 ――遠くで爆発音がした。


 ◇


 次の日も、その次の日も、おれは研究室に篭り続けた。

 あの後、特に言い合いになることはなかったが、リリとはギクシャクしたままだ。元から少なかった会話がさらに減り、おれはいっそう研究に没頭するようになった。

 思考を重ね、生まれた案を実行する。結果を研究ノートに殴り書きで記述し、データを分析して次の段階への道筋を組み立てる。あと何回これを繰り返せば完成にたどり着くだろうか。

 おれは疲れた目をこすり、モニターを睨みつける。視界が一瞬、二重にぼやけ、少し経って輪郭を取り戻した。

ここ数日、眠っても疲労が取れなくなっていた。酷い倦怠感が常に両肩に張り付いていて、気を抜くと体が前に倒れてくる。慢性的な眠気に思考が鈍ってきた。常に胃が痛み、指先は微かに震えている。

それでも、心を無にして研究を続けた。

リリにも変化があった。反応が鈍くなり、話しかけてもぼんやりとした声しか返ってこなくなった。少しずつ電池が減っていくみたいに元気がなくなってきて、いつも無機質で味気ない部屋で一人虚空を見つめている。

 それでいい、とおれは思った。

 目を覚ましている間のすべての時間と思考を研究に費やそうと思った。

 データの並んだモニターを睨む。

 液体をビーカーに移して数値を計測する。 

キーボードを叩く。

 行き詰り、父の遺した本を開く。

 視界が霞んで中断し、数秒目をつむった後、作業を開始する。

 機械が低い音を立てている。

 不具合を示すコマンドを修正する。

 体が前に倒れ、キーボードに額をぶつける。

 一瞬意識が飛びかけたが、すぐに体を起こして画面を元に戻す。

 机の上にあったデジタル時計の電池を抜いた。これで時間がわからなくなる。食事は空腹で頭がおかしくなったときに取った。

 数時間眠って、アラームに叩き起こされる。この頃は研究室で寝泊まりするようになっていた。

 アームチェアに腰掛け、コンピューターを起動する。微かな機械音がして画面が明るくなった。

 脈打つような頭痛がどんどん強くなっていく。

視界が揺れたかと思うと、突っ伏すように体が倒れた。

すぐに作業に戻ろうとするが、身体は電池を失ったロボットのように動かなかった。

「リリ」と、下がったままの口角で呟く。

 かすれた自分の声を聞いたのを最後に、意識が途切れた。


 元々地下にあった分の食料が尽きた。

 起床後の食事を終えると、おれはリリとともに研究室に向かう。いつものように研究を進め、時計の針が就寝時刻を指すと同時に椅子から立ち上がった。そして、静かに背後を振り返る。

「リリ」

 呼びかけると、部屋の端でぼーっとしていたリリが僅かに反応を示した。おれはゆっくりと彼女に歩み寄り、少しだけ距離を置いて立ち止まる。

「終わりだ」 

 おれは笑ってみせる。笑ったのはいつぶりだろう。しばらく動かさなかった筋肉が微かに震えている。

 リリは何も言わなかった。笑い返してくるはずもなく、ただ真っ黒な目をおれに向けている。

 おれは微笑みを浮かべたまま、囁くように言った。

「やっぱり駄目だった」

 静かな研究室に、おれの声が小さく響く。

「おれには無理だった。かなわなかった」

 諦念の言葉を吐きながらも、どこか清々しさを感じる。もう疲れていた。疲れていたんだ。

 リリが持ってきた食料は七食分。一日一食として、あと七日もつ。

「ルーカス、もう希望は持てない?」

 おれは黙ったまま頷く。

体は疲労で悲鳴をあげているのに、頭の中は夏風に吹かれたように穏やかだった。ずっと背負っていた重い鞄を下ろしたような、そんな開放感に似た諦観が、脳に伝達する疲労感の情報を微かに軽減させているのかもしれない。

「リリ」 

 名前を呼ぶと、リリは逡巡するように数秒固まった後、ゆっくりと体を動かした。

小さな鉄の塊が、微かなモーター音とともにおれの足元に近づいてくる。

「リリ」

 舌の上で飴玉を転がすような、甘い語感。そんな柔らかい響きが乾いた口内に優しく広がった。  

 おれは騎士のように膝を立ててしゃがみ、リリと視線を近づける。

「リリ、君を救うことはできなかった」

「……ルーカス」

 内蔵されたスピーカーから、少女の声でそう発せられる。小型カメラの黒いレンズが眼球のように機敏に動き、おれの姿を捉えて制止する。

研究所に溶け込むような白いフォルム。三十センチほどの立方体をした小さなロボットが、おれの靴の先にこつんと触れる。

「終わりにしよう」

 リリの――白いロボットの側面からアームが伸びてきて、金属らしい冷たさがおれの手の甲に触れた。

 変わってしまった――おれの手で変えられてしまったその姿を見下ろしながら、おれは、「リリ」のことを思い出す。


 ◇


 一年前、父が死んでから少し経ったころだった。父を殺した感染症の症状が、おれの身体にも現れ始めた。

 ありえないくらい熱が出て、酷い倦怠感に、身体が床に張り付けられたように動かなくなった。激しい咳とともに鮮血が喉奥から溢れ出す。耳元でサイレンが鳴っているような耳鳴りが鋭い頭痛を呼び、睡眠をとることすらままならない。

 父を死に追いやった感染症は、この国では割とよくある病気だった。薬があれば致死率はゼロに等しいが、こんな地下の研究所に都合よくその薬があるはずない。少し離れた距離に診療所があったが、この戦況で機能しているとは思えないし、外に出るのは危険すぎる。

 おれは研究室の一つに篭り、リリには絶対に入らないよう言った。この病気の感染力はそれほど高くないが、侮って父の看病をしたおれは現在こうして症状に苦しんでいる。

 高熱に浮かされた自分に、臥せる父の姿が重なった。朦朧とした意識の中、死を悟りながら、ただ時間が流れるのを待つ。

 しかし、一週間ほど経った頃、症状に改善が見られ始めた。薬を摂取しなかった際の致死率は決して低くない。それでも若さによる免疫力が勝ったのか、奇跡的に回復の兆しが見られた。

 さらに一週間ほど経つと完全に症状がなくなり、体力も戻り始めたようだった。おれは部屋と自分を消毒した後、ずっと閉ざされていた研究室の扉を開いた。

 白い廊下を渡り、長机の部屋に向かう。リリはいつもこの部屋で寝泊まりしていた。

「リリ?」

 なぜか部屋には電気がついていなかった。研究室の時計によると、まだ昼の時間であるはずなのに。おかしいなと思いながら照明スイッチを押し、再び「リリ」と呼びかける。

 リリはいなかった。

 バスルームか? そう思って探しに行ったが、呼びかけに応じない時点でおかしい。 

 おれは研究所内を走り回った。心臓が嫌な音を立て始める。

ただ眠っているだけなのかもしれない。昼寝をすることだってあるはずだ。あるいは、体調を崩して寝込んでいるのかもしれない。だったらなおさら早くリリを見つけなくては。

しかし、リリはどこにもいなかった。

 まさか、外に?

 そんなことはありえないだろうと思いながらも、もう他に選択肢はない。

 おれは恐る恐る廊下の突き当りにある扉を開いて地上への階段を上り始める。

段が途切れた先からは迷路のような道を進む。再び現れた階段をさらに上って、隠し扉を開き、短い梯子を登る。要塞のようなこの道のりは父の遊び心から生まれたもので、設計当初はこの仕組みがシェルターの安全性につながるなんて思ってもみなかっただろう。

 最終的にたどり着いた先は行き止まりだった。そこには押してスライドさせるタイプの扉が、周囲の石レンガの壁の中に溶け込むように隠されている。

 おれは意を決して壁に手を触れる。石でできた扉が冷たい温度を返してきた。ぐっと力を入れる――しかし、扉は動かなかった。

 扉が開かない。おれは、力いっぱい押してみる。瓦礫か何かで塞がれているのかもしれない。

さらに強く力を入れると、何かが引きずられるような音がして、扉が動いた。

瓦礫ではない、もっと柔らかで、動物的な何か。嫌な汗が流れ、心臓が騒ぎ始める。頭の中で異常事態のサイレンが鳴り出した。

 扉をスライドさせていくと、何かがおれのほうへ倒れてきた。――その色素の薄い髪には、嫌というほど見覚えがあった。

「……リリ」

 震えた声がこぼれる。おれは恐る恐る腰を落とした。

 たしかに、リリだった。以前の可憐さも透明感も失った、まるでゴミ捨て場に転がされた人形のような寂しさを携えた姿で、リリが倒れていた。

頬には血が滲んでいて、顔全体が腫れあがっていた。服は引き裂かれ、白い肌が冷えた空気にさらされている。床には這ってきたような跡が残っていた。髪には砂が混じっている。

「なんで」

 視界が明滅した。頭の中が真っ白に塗りつぶされ、脳が情報を処理できずエラー信号を出している。

兵士に乱暴される少女の話は、最悪なことに、この世にありふれていた。

身体中の痣と、首に残された手の跡と防御傷。乱れた髪。どこかで襲われ、ここまでたどり着いたが、寸前で力尽きたのだろう。変な方向に曲がった指先には、――錠剤のシートが握られていた。

それを目にした途端、息ができなくなるほどの悲しみに襲われた。 

 震える指先で、リリの手首に触れた。――まだ、脈がある。

 おれはリリを丁寧に抱きかかえ、地下に運び込んだ。梯子の部分は少し手こずったが、リリを傷つけることなく研究所までたどり着く。

 父の研究は瀕死の人体を回復する装置を作ることだった。完成させる前に戦争が悪化し、研究員を失い、ついに研究を完成させられないまま感染症でこの世を去っている。

 おれは父が作った試作品の生命維持装置を改良した。

父の研究ノートが残っていたため、仕組みを理解するのは容易く、回復させることは厳しくても、生命を存続させることができるくらいにはすぐに仕上がった。おれは装置の水槽部分にリリを入れ、機械を稼働させた。

 おれは憑かれたように次の行動に移る。 

 ロボットにリリの情報を与えようと思った。おれは、リリの記憶をコンピューター上に模倣し、人工知能にトレースする作業を行った。――半年後、リリの人格を持ったリリのニセモノが出来上がった。

 動くことも話すこともなくなった少女の人格を持った、小さなロボット。おれはそれをリリと呼んだ。


 それからおれは、新たに研究を始めた。この腐った世界を終わらせるのだ。

 本気だった。この世界を地球ごとぶっ壊してやろうと思った。

リリをこんなふうにしたやつを特定することは難しい。ならば、そいつのいるこの星ごと殺してしまえばいい。リリが傷つくような世界など、死んでしまえばいい。

怒りで沸騰した思考に突き動かされながらおれは世界を滅ぼすための計画を立てようとした。絶対に、この命をささげてでも、世界を殺してやる。――そう考えてはいても、頭脳の芯の部分は驚くほど冷静に現状を分析していた。

 不可能だ。

 世界を破壊できるほどの爆弾が、材料も何も揃っていないこの研究所で作れるはずがない。道具もなければ、適切な実験装置があるわけでもない。試しに研究所内にあるものだけで小規模な爆弾を作成しコードも組んでみたが、家一軒すらも壊せないようなもので限界だった。こんなものでは世界はびくともしない。

 おれは世界を破壊する計画を一日で諦めると、一瞬で思考を切り替え、研究をチェンジした。

 リリを回復させる。

 父の研究でもあった未完成の生命体回復装置を、おれが完成させようと思った。それなら研究用の素材もたくさんあるし、機械だって揃っているだろう。

 詳しく学んだわけでもない分野の知識を、父の遺した研究ノートを頼りに埋めていった。そうやって装置を改良することまではできたが、生命の回復ができるほどまでに作り上げることは極めて難しいだろう。食料が尽きるまで、しかもたった一人で完成させられるとは思えない。

 リリを生き返らせることと、世界を終わらせること。――どうせどちらも叶えられないのならば、おれはリリを取る。

 おれはリリを回復させようと思った。リリさえいればいい。たとえ奇跡が起こってリリが意識を取り戻しても、戦争はきっと続いたままで、状況は最悪のままだ。それから先の未来は見えない。それでも、リリさえいればいいと思った。

 父の書いた論文を読み、足りない知識を本を読んで埋め、装置の改良を進める。  

 駄目だった。維持は可能でも回復は難しい。無理だ。わかっていたことじゃないか。

 叶うはずがない望みを抱き、完成の目処がつかない研究を続け、絶望しないようにまがい物に縋る。研究が完成しないまま、時間だけは無残に過ぎ去っていく。

 とうとう研究は完成せず、このまま研究を続けてもリリが回復する見通しもとれなかった。食料ももうすぐ尽きる。この命も、きっと。


 ◇


 七日間はあっという間だった。変わらず会話は少なく、おれたちはぎごちない静寂を共有し、二人で過ごした。

 最終日、おれは研究室を訪れた。

機械は沈黙し、最低限の音だけが聞こえる。おれは、散らばった大量の書物をそのままにして、部屋の中央まで歩み寄った。

 研究室の中央にある大きな水槽――生命維持装置を満たす培養液の中は、一人の少女が沈んでいた。吹き上がる泡沫にさらわれ髪が揺れている。

「おやすみ、リリ」

 静かにそう呟くと、おれは装置の電源を切った。

振り返ると、そこにはもう一人のリリがいる。白くて小さい、生き物の温度を持たない、おれが作ったニセモノのリリ。

「……ルー……カス」

 少女の声にノイズが絡んでスピーカーから発せられる。

 おれが電気プラグを壊してしまったため、リリにエネルギーを補充することはできなくなっていた。数日間リリはほとんど動かず省エネモードで過ごしていたが、すでに充電はほとんど残っていなかった。赤いランプが救いを求めるように点滅している。

「リリ」

 彼女の名前を呼ぶ。その声に呼応するように、機械音がおれの鼓膜を僅かに揺らした。

 

 リリにはもう、自力で動けるだけの充電が残っていなかった。

おれはリリを両手で抱え、研究所を出る。もうこの部屋に入ることはない。

 真っ白な廊下を渡り、長机のある部屋に向かった。

 冷たく無機質な床に足を延ばして座り、そのまま上半身を倒して真っ白な天井を仰いだ。しばらくぼーっとした後、腕の中にあったリリを頭の横にそっと置いた。

 だんだんと眠気がさしてきた。

 おれは瞼の力を抜き、ぼんやりとした頭でこれまでのことを思い返す。

 リリは、もっとおれと会いたがった。一人でいるのは息が詰まると毎日おれに訴えてきた。おれの作ったリリは、本物のリリと同じで、寂しがりのかまってちゃんだった。

 真っ白な空間で一日中孤独に過ごすのはつらかっただろう。リリが研究室に入ってきた日のことを思い出す。充電器が壊れたと言ったときリリの電池はほとんど残っていなかった。研究室には入るなという言いつけを守っていたのだ。充電切れを起こす寸前まで。リリはどんな気持ちでいたのだろう。――そこまで考えて、リリにおける感情はただの電気信号にすぎないのだと思い出す。

ニセモノのリリは、機械に繋がれて生きる自分を見てなんと思っただろうか。コンピューターはこの状況をどの感情に結びつけたのだろう。

「リリ」

 名前を呼んだ。返事はない。

おれはずっと子どものままだった。いろんなことにイライラして、傲慢で、結局は何もなせないまま終わりが来るのを待っている。

 結局、おれは何がしたかったのだろう。リリを水槽に閉じ込め、ニセモノの人格まで作った。そんなものは所詮まがい物で、子供騙しで、おれが大嫌いだった「意味がないこと」なのに。

「リリ」

 意味のないことが嫌いだった。それなのに、意味のないことに縋ってしまう自分に嫌気がさした。心を消そうと思った。整合性のない感情に心を揺さぶられるのが怖かった。

 この世界は最悪だ。理不尽なことで溢れていて、大切な人が最悪な形で殺される。こんな世界に価値があってたまるか。

「リリ」

 幼い頃のことを思い出す。

 苛烈で傲慢だった自分に世界を見せてくれたリリ。リリが大切だった。リリにいてほしかった。それは、敬愛と同時に、執着で、依存で、甘えでもあったのだと、今になってようやく気が付く。

「リリ」

 名前を呼ぶと、そっと口角が上がる。「リリ」の二個目の「リ」で、柔らかく、微笑むみたいに口の端が持ち上がった。

 リリが大切だった。リリに幸せであってほしかった。

 リリの欠けた人生に意味を見出せなかった。

 リリを傷つけた世界なんて死んでしまえばいい。

 深く、ゆっくりと息を吸って吐く。胸が最後まで沈むと同時に、おれはリリの電源を切った。

「愛してるよ、リリ」

 この世界を悪くないと思わせてくれた。おれの知らないたくさんのことを教えてくれたリリ。 

 リリの表面に触れる。ひんやりとした金属の冷たさを感じた後、微かに熱が伝わってきた。それは、機械が作動した後に残った仄かな熱量にすぎない。

「リリ」

 おれはどうすればよかったのだろうか。何が正しかったのだろう。水槽の中にリリを閉じ込め、模倣品のリリの魂に縋って。すべておれのわがままで、甘えで、最適解が見つからないまま終わりを迎えようとしている。

「リリ――」

 どうせこの国は滅びる。

 リリは死んでしまう。

 結局おれは世界を終わらせることはできなかったし、リリを取り戻すこともできなかった。

 それでも、もうすぐおれが大嫌いだった世界はいなくなる。おれの身体は徐々に栄養を失っていき、手足が動かなくなり、心臓は役目を終えて眠りにつく。その先でもう一度、リリに会えるだろうか。

 ルーカス、と遠くで呼ばれたような気がした。透明な、ぽやっとした優しい声がおれの名前を呼んでいる。

 やがて瞼が下がってきて、おれは抗うことなく目を閉じた。

 リリ、と声に出さずに口を動かす。リリがいた日々を思い出しながら、無意識に口角が上がった。



〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リリ 青葉寄 @aobasan0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ