リリ

青葉寄

1話

 地上で炸裂したらしい爆弾の音に、おれの意識は引き起こされた。

 軽く、右手を身体の真横に伸ばす。すると手首の少し手前辺りに段差が現れる。さらに段差の下に向かって手首を直角に曲げる。指の関節を反らすようにピンと伸ばす。――すると、指先にひんやりとしたタイルの触感が確認された。

 そうすることでやっと、おれはこの夜を生き延びたことを実感する。


 寝起きはいいほうだった。すぐに脳が覚醒し、おれは床に敷いたマットレスから体を起こして照明のスイッチを押す。瞬間、室内が明りに照らされ、真っ白な空間があらわになった。

「リリ」

 彼女の名前を口にする。返事はない。立ち上がると同時に二度目の爆発音が聞こえた。

 ここは地下で、爆弾の影響を受けることはないし、爆発の音量はほとんどカットされる。それでも、神経質の気があるおれにとって、不意に聞こえる破壊の音は心臓に悪い。

 センサーに手をかざし、棚のガラス戸を開く。そこから乾燥パンを取り出し、ビニールパックの水と一緒に流し込んだ。これが、半日分の食事にあたる。残り数を数えると、あと一週間分であった。

「リリ」 

 再び彼女の名前を呼ぶ。気丈な彼女がこの程度の音で恐怖することはないだろうが、一応様子を確認しておこうと思った。


 部屋は、壁も床も天井もすべてが白い。これは、この地下研究所の所有者であった父のこだわりだった。

 広大な空間にずらっと配置された三本の白い長机には、電源の落とされたコンピューターが整然と並んでいる。等間隔に配置された薄いモニターは、ここがまだ研究施設として使われていたときからほとんど動かされていなかった。

 床に散らばった書籍や段ボールに足をとられそうになりながら、おれは彼女の元へ向かう。部屋の隅に、――充電中の掃除ロボットと並ぶように、リリがいた。

 おれはしゃがんで彼女と視線を合わせる。

「おい、リリ」

「……ん」

「リリ」

「……おはよう、ルーカス」

 リリがぽやっとした声を発した。

 おれは小さくため息を吐く。これだけたくさんの椅子があるのにも関わらず、リリはいつも、冷たい床の上に猫のように座っているのだ。

 おれがやめるよう言うたびに「どこで寝ようがわたしの勝手でしょう」と我を通してくる。困ったものだ。これでも、おれより一つ歳上である。


「また戦争が始まったみたいだ、最近はおとなしかったのに。爆発の音は聞こえた?」

「いいえ。眠っていたみたい」

「そうか、ならいい」

 やはり爆撃の音が聞こえるのは、おれが神経質なだけなのかもしれない。昔から聴覚過敏の気があった。

 おれは長机の一角に座る。リリは寝ぼけた声で何か言いながら、トコトコとおれの後に続いた。

「気分はどう?」とおれは訊く。

「問題ないわ」とリリは答えた。

 不意に、蛍光灯がわずかに点滅した。部屋のどこかから、機械のモーター音が微かに聞こえる。

 おれはビニールパックを握りつぶし、残りの水を飲み干した。



 隣国との戦争が始まったのは、おれたちが物心ついたころのことらしい。長期化した戦争は、二年前――おれが十五歳のころに、政治のうんぬんでいきなり激化し、多くの死傷者を出すようになった。

 小国であるこの国は、折れた木が朽ちていくように着々と滅びに向かって進んでいる。 


 西のほうにあったおれの実家に爆弾が降ってきたのも、もうずっと前のことだ。近所の家も焼け散り、おれの母と兄、そして近くの家に住んでいたリリの両親が亡くなった。おれとリリは寮生だったため、父はこの地下研究所にいたため、被害を受けなかった。

 おれの実家があった街は都市部に近かったため真っ先に攻撃を受けたが、この研究所の地上である一帯は田舎町であるため比較的被害が少ないらしい。この地下への入り口が隠されている建物もたいして損害はないと思われる。――というのも、おれは約二年間まともに地上に出ていないため正確な状況は知らなかった。


 家が焼け、戦況がまずいと悟った父は、おれたちに地下研究所に来るよう言った。

 小さな国だ、逃げ場も多くはない。外国につてもない。父の研究室には高度な設備が揃っているため、シェルター代わりに避難生活を送るには十分だった。

 地下で暮らすようになり、気づけばおれも十七歳、とっくにスクールを卒業するような年齢になっている。父は一年前に感染症で亡くなった。遺体は処理のしようがなく、父の自室にあった冷凍庫にしまってある。


 当初は安全だと思っていた地下での生活も、だんだんと翳りを帯びていくようになった。

 大量にあったはずの食料ももうすぐ尽きる。死へのカウントダウンは着実に進んでいる。いつ敵兵が地下への入り口を見つけるかわからない。いつ殺されるかわからない。

 そんな生と死の狭間のような場所で、おれは、リリと二人で暮らしている。



「じゃあ、おれは研究室にいる。何かあったら呼んでくれ」

 この地下には今いる部屋とは別に、実験用の部屋(研究室)が五つ、書庫、印刷部屋、バスルーム、父の自室だった部屋がある。ここは元々、名誉教授であった父の半ばわがままで作られた研究施設だった。父の広大な趣味部屋と言っても構わないだろう。

「ルーカス、いつも言っているけど」

「なんだ」

「一人でいるってこと、あなたが思っている以上に息が詰まるのよ」

「……そうか」

 リリの言わんとしていることはよくわかっていた。彼女がこの話をするのはこれでN回目、Nは百以上の自然数である。つまるところそれは「もっとわたしに構ってよ」を少し遠回りに表現した発言だった。

 おれは立ち上がって言う。

「そんな時間はない。一秒でも無駄にはできないということは、君にもわかるだろう? 早く研究を完成させないと。食料だって限られている」

 水のほうはまだ余裕があるが、パンはもう一週間で尽きる量しかない。食事の頻度を減らしたとて、それは悪あがきに過ぎないだろう。カウントダウンは確実にゼロに近づいている。

 それまでになんとしてでも研究を完成させなくてはならない。だから、リリに構っている暇などないのだ。 

 リリは数秒黙った後、再び抗議の声を上げる。

「このままだと退屈でおかしくなりそう。ここには暇つぶしの道具もないじゃない。部屋は真っ白、書庫の本はわけのわからないものばかり」

「ロボットに相手してもらえばいい。ここのやつは賢いから十分話し相手になる」

「嫌、ルーカスがいい」

「困らせないで、おれにはやらないといけないことがある」

 呆れた声でそう言うと、リリはわかりやすく拗ねた様子を見せた。


 おれは自分より低い位置のリリを見下ろす。寂しがりという性格もあるだろうし、外向性の強い彼女にとって、長時間一人で過ごすということは精神健康に支障をきたすレベルの悪習慣なのだろう。一日中会話をしないことにも抵抗がないおれにはよくわからないことだ。

「……どうして研究室に入っちゃいけないの?」

 可能な限り音量を抑えたような華奢な声で、リリはぼそっと呟く。その音を拾えなかったふりをして、おれは手元の空になった容器をじっと睨みつけた。

 おれは一日の大半を研究室で過ごしており、部屋の中にリリを招くことは決してしない。彼女がいると気が散るし、実験用の材料には危険物も多い。それに――見せたくないものもある。

「こんな部屋で一日中ぼーっとしてると気が狂いそう」

 リリはそっぽを向いてそう言った。


 おれは少し大袈裟にため息をついて肩をすくめる。

 希望を叶えられなくて申し訳なく思うが、何度も繰り返されるこのやり取りにイライラしているのもまた事実であった。

「……そんなに嫌なら出ていきな。好きにすればいいよ、おれは止めない」

 口から出まかせでそう吐き捨てる。もちろん本気で思っているわけではないし、それはリリもわかっているはずだ。戦争が行われている地上は危険なことで溢れていて、ここに留まることが最も安全だった。外に出ることは死に直結する。

 突き放す言葉に抵抗はない。そもそもおれたちの関係はそんなものだった。友人ではないし、ましてや恋人でもない。親を亡くした者同士、仕方なく二人で暮らしているだけだ。それに加えて、最近は早く研究を進めなくてはならないと焦っていて、苛立っていた。


 リリはしばらく黙っておれを見上げていたと思うと、突然ふっと笑い声を上げる。そして、不機嫌なおれに向かって囁くように言った。

「嘘。あなたはきっとわたしを止める」

「なぜ」

 おれが問うと、リリは子どもの屁理屈を受け流すみたいに笑う。

「だって、ルーカス、あなたがわたしに『ここにいて』と言ったのだから」

 リリの言葉に、おれはぎゅっと眉根を寄せる。普段は子どもっぽい彼女が、不意に見せる年上っぽさが嫌いだった。発達がゆっくりなタイプだったという理由で初等スクールへの入学が一年遅れ、おれとは同学年だが、現在は明らかに彼女のほうが精神面で一段上にいる。

 勝ち誇ったリリの声色に、おれは彼女にも聞こえるように舌打ちする。するとリリはさらにおかしそうにするから、おれは「研究室に行く」と吐き捨て彼女に背を向けた。


 ねえ、というリリの声がおれの足を止める。人間の声とは思えないような清廉な音。無機質な空間に広がる凛とした響きには、リリがすべてを見透かしていると思わせるような力が備わっている。視界がくらりと揺れたような気がした。

 なんだ、とおれは言った。

「ルーカス、あなたはどうして世界を終わらせたいの?」

 リリが訊く。おれは振り向かずに答えた。


「価値がないんだ、この世界には。もちろん、おれにも、――君にもね」


 ◇


 ずっと、世界が嫌いだった。

 嫌いなものがたくさんあった。人が嫌い、物が嫌い。それらが積み重なって、最終的に「世界が嫌い」になってしまう、そんな苛烈で傲慢な子どもだった。


 子どもの頃のおれは、この世の多くの物事に意味がないと思った。

 証明のある数式や経験則によって定められた物理法則はいい。ちゃんと論理的な理由によって定められたものだから。しかし、世の中にあふれかえる多くの物事や人々の言動は、おれを納得させるような意味や価値を持っていなかった。


 この世界が嫌いだった。納得のいく理由のないものが許せなかった。それらはまるで、正誤のわからない定理を使った証明のようで、イライラする。

 だからおれは、この世界をぶち壊すことにしたのだ。そうすることは、おれにとってちゃんと意味のあることだった。――この意味のない人生を終わらせたい。そんな破壊願望がおれの心に芽生えていた。

 今思えば、自殺でよかったのかもしれない。人生を終わらせたいだけなら、なにも世界を巻き込まなくてもいい。そっちの方が健全だろうと今となっては思う。おれは傲慢な子どもだった。


 世界を終わらせるための爆弾を作ろうと思った。幸いおれは賢い子どもだったため、こんな大それたことも不可能だとは思わなかった。科学の知識はどんな大人よりも自信があったし、プログラミングも得意だった。例えば、小さなロボットに知能を与えることもできたし、コンピューター上に架空の人格を作り出すことだって容易かった。


 世界を壊すことくらい、おれには簡単だと思った。


 ◇


 五つある研究室の一つ。おれはそこで一日の大半を消費する。

 部屋の中は、機械音が微かに響く静寂の空間で、空気は冷たく静止している。

 床には大量の書籍が散らばっていた。父が集めていたもので、おれが読み終えたものがそのまま地面に積み重ねてある。壁に沿うように立ち並ぶ棚には様々な実験器具が埃をかぶって在りし日のまま並んでいた。


 部屋の中央には大量の管が繋がれた水槽が置かれている。父の実験で使われていたものだ。水槽を満たす液体は小さな泡が立ち昇り、わずかに発光している。

 おれはアームチェアに深く腰掛け、水槽に背を向けるように巨大なモニターをじっと見つめていた。――そこには世界を終焉に導くのに必要なプログラムが並んでいる。

 部屋は静かだ。自分の喉が鳴る音すらも、安っぽいドラマの演出みたいにはっきりと聞こえる。棚の工具や使っていない機械はひっそりと沈黙し、その静けさがホワイトノイズのように耳障りだった。


 薄暗い研究室の中で仄かに光る水槽が、キーボードに触れるおれの指先を淡く照らしていた。


 


 

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