23:1回目①
その日、目覚めると……
優花の世界から、40%の酸素が消失していた。
呼吸を繰り返すたびに、体が重くなるような息苦しさを感じる。
思いっきり息を吸い込んでも、その息苦しさは消えてくれない。
ずっと、胸の奥がずっしりと重い。
そんな体をゆっくりと起こした。
隣のベッドには、規則的な寝息を立てる楓がいる。
布団が小さく上下するさまを、優花は静かに見つめていた。
ふと、楓から視線を外して天井を見上げる。
汚れひとつ無い、真っ白な天井。
その無機質さを瞳に映しながら、優花は小さく息を吐いた。
──一人じゃ、キツかったな……。
青薔薇に通って、楽しい時も辛い時もずっと隣にいた楓。
彼女が隣にいるだけで、あの日から感じている孤独から、少しだけ解放される。
「……ゔーん…………、優花、おはよう」
寝起きの少し掠れた楓の声が聞こえて、優花は隣のベッドに視線を向けた。
「おはよう…………朝になっちゃったね」
「……だね」
二人は視線を絡めて、互いにぎこちない笑みを浮かべた。
今日は、2001年7月7日。
青薔薇の解散ライブの日だ。
青薔薇の最後のライブは、東京で開催されることになった。
名古屋に住んでいる楓は、「解散ライブは、死んでも行きたい」と言い、ライブの前日に東京にやってきた。
いわゆる、前乗りである。
東京に住んでいる優花だったが、楓に便乗して彼女と一緒に会場近くのホテルに泊まることにした。
青薔薇のツアー用に貯めていたお金が、行き場がなく余っていたのだ。
いつもは、シングルで一人で泊まりたい派の二人。
しかし、今回は特に相談しなくても、当たり前のようにツインの部屋を取った。
おまけに、今夜も帰りたくないので、二人とも二泊の連泊である。
いつもの遠征と同じように、並んで朝食の会場に向かった二人。
目の前で作ってくれる、ふわふわのオムレツ。
バターの香りのする、サクサクのクロワッサン。
新鮮な果物に、ジュース。
そんな豪華なブッフェを見ながら、これまでのツアー中に楓と一緒に食べた朝食を思い出す。
遠征でホテルに泊まる時は、二人とも節約して素泊まりを選ぶことが多かった。
たまに、朝食付きでホテルを取った時は、祭り状態だ。
少し早めに起きて、朝からテンション高めに朝食会場のレストランへ向かう。
ブッフェに並ぶ料理を見ているだけで、心が弾んだ。
二人とも、どれを取るかを迷って、何度も料理の前をうろちょろした。
「朝食付きとか、セレブだねー」
「いっぱい食べなきゃ!」
そんなことを言いながら、次々に色んな料理を持ってきては、二人で笑いながらお腹いっぱいになるまで食べた。
そんな日々が懐かしい。
きっと、今日じゃなかったら……。
目の前に並んでいる豪華なブッフェも、笑いながらお腹が破裂しそうになるほど、食べただろう。
暗い表情をした二人は、ほとんど喋らないで、静かに少なめの朝食を食べた。
レストランを出ると、二人は口数の少ないままにホテルを出る。
彼女たちが重い足を動かして、向かった先。
それは、青薔薇がバンド活動の最後に選んだ会場である……日本武道館。
バンギャが
多くのミュージシャンの憧れの会場である武道館は、青薔薇のメンバーにとっても特別な場所だった。
「いつか、俺たちも武道館でワンマンをやりたい」
「絶対に、みんなを武道館に連れていく」
先輩のバンドの武道館ライブを見に行ってから、そんなことを言うようになったメンバー。
彼らにとっても、ファンにとっても、武道館は夢のステージだった。
会場へ向かう坂を上りながら、暗い表情をしたままの二人。
「こんな形で、日武に来たくなかったね」
「本当。ずっと璃桜様が『いつかお前らを連れていく』って言ってたから、青薔薇が日武に立つ日、楽しみにしてたのに……」
「璃桜、いつも言ってたね。紫苑も『武道館のステージに立ちたい』ってよく雑誌とかで言ってたな……」
ぽつり、ぽつりと、そんな事を話しながら、会場へ向かう。
会場に近づくにつれて、ファンの子の姿が増えてきた。
会場前に設置されたテントから伸びている、長い列が見えてきた。グッズを求める人たちの列である。
それを見て、驚いた表情で優花は口を開く。
「まだ時間前なのに……結構、並んでるね」
「本当。早めに来て、正解だね」
「みんなは、まだ来てないんだよね?」
「うん。お昼過ぎに東京着くらしい」
列の最後尾に並ぶと、見知った顔がいくつもある。
化粧をして完璧な状態の人もいるし、優花たちのようにすっぴんメガネの武装前の人もいる。
武装前のバンギャと、武装後のバンギャはびっくりするほど別人である。
そんな武装前の状態でも、お互いに持ち物とか着ている服で誰だかわかってしまう。
喋ったことはなくても、全国を一緒に駆け巡り、何度も顔を合わせてきた同志である。
好きな人もいるし、嫌いな人もいる。
それでも、これまで一緒に戦ってきた同志である。
そんな戦友のような同志たちと一緒に列に並び、優花たちは青薔薇の最後のグッズを買った。
ホテルに戻った二人は、いつも通りに武装準備を始めた。
太陽光の下で化粧をしたい派の楓は、窓際を。
立って化粧したい派の優花は、洗面台の鏡前を。
二人は、いつもと同じ場所を陣取った。
最初に風呂場に行って、湯船に湯を張った優花。
湯が溜まると、湯船にいつもの入浴剤を落とす。
この入浴剤は前にラジオで琉華様が使っていると言っていたのを聞いてから、ずっと愛用している優花のお気に入りだ。
──こんな風にライブ前にお風呂に入るのも、今日で最後か……。
透明だったお湯が少しずつ白くなっていくのを眺めながら、なんとも言えない寂しさが込み上げてくる。
それを振り払うかのように、優花は勢いよく服を脱いで、湯船に体を沈めた。
嗅ぎ慣れた香りを吸い込みながら、いつもより深く湯に潜る。
──このまま、時間が止まらないかな。
そんな考えが何度も頭に浮かび、そのたびに大きなため息を吐いた。
湯から上がると、顔に冷やしたパックを貼りつける。
こうすると、肌がもっちりして化粧のりが良くなるのだ。
遠征の時、時間に余裕があればいつもやっているルーティンである。
パックを貼った顔をパタパタ叩きながら、なんの気なしに部屋を見渡すと、楓も顔にパックを貼りながら、コテを当てて少し癖のある髪を伸ばしているのが見えた。
パックを終えた優花は洗面台の前に化粧道具を並べて、いつも通りに化粧を始めた。
二時間半後。鏡に写った顔は、自分史上、最高の出来だった。
♪ ♪ ♪
「やっぱり前乗りして正解だよね」
「本当! 会場まで歩いて行けちゃうしねー」
開演の30分前に部屋を出た二人は、ホテルの廊下を歩いている。
「みんな、もう来てるかな?」
「あー、来てるっぽいよ。さっき、メール来てたし……」
そう言って楓が携帯を開き、メールを確認する。
「もう、中、入ってるの?」
「いや、会場前にいるらしい。メールしておくねー」
「そっか。頼んだ」
くだらない話をしながら、ゆっくりと歩く二人。
会場に向かう途中にある坂は、青薔薇ファンだらけだ。
ホールのせいか、いつもより気合いの入った服を着ている人が多い。
メンバーのコスプレをした人も、チラホラいる。
「優花―。あの人って、一檎のファンだっけ?」
楓の視線の先を見ると、真っ黒い着物に、青い薔薇の髪飾りを着けた人がいた。
最近、会場で見かけることが減っていたが、インディーズ時代からの一檎ファンの女性だ。
「そうそう。一檎ファン。あの人、久しぶりに見たねー。着物なんだ……カッコイイ」
そんな話をしていると、前から見慣れた顔が近づいてくるのが見えた。
「もー、二人とも遅い!」
「ごめん、ごめん」
「ごめん。久しぶり!
「ありがと。もう、みんな揃ってるよ!」
頬を膨らませて怒ったふりをしながら文句を言う、一檎ファンの一華。
優花がワンピースを褒めると、一華は軽くスカートをつまんでおどけた表情をした。
ライブの時、いつもはバンTなどのカジュアルな服を着ていた彼女だが、今日は一檎の髪の色みたいな赤い色の上品なワンピースを着ている。
彼女の白い肌に似合っていて、綺麗だ。
いつもおろしていた髪も、今日は綺麗にセットされている。
耳には、彼女がいつも着けている一檎のピックで作った手作りのピアスが揺れていた。
「二人も、今日はいつもと違うねー」
そう言って笑う一華に、優花と楓は微笑む。
今日の優花は、白の上品なワンピースだ。
黒と白で迷ったが、店員さんに勧められて白にした。
髪は軽く巻いていて、自作の青い薔薇の飾りを着けている。
首元には、今回の人生で手に入れた白いピックのネックレス。
耳には、青い薔薇のビアスだ。
楓は、レース素材の黒のシックなワンピース。
髪には黒いヘッドドレスを着けていて、長身の彼女に似合っていてカッコいい。
一華に案内されてみんなと合流した優花たちは、会場前で記念撮影をすることにした。
「こんな風に、ライブ前にみんなで写真撮るのも最後だね……」
「言わないで! 泣いちゃうから」
「ははは……」
他愛のない話をしながら、何枚かの写真を撮ってからみんなで入場の列に並ぶ。
「優花、今日は最前で楓と並んで見るんでしょ?」
「うん。最前なんて、初めて来たよ! 一華は?」
「神席、いいな……。私は5列目の上手」
「一檎前じゃん!」
「うん!」
お互いにチケットを見せ合いながら会場に入ると、正面にプレゼントボックスが設置されていた。
それぞれが、手紙やプレゼントを箱に入れていく。
「それじゃ、終わったら会おうね!」
「うん。あとでね」
二人きりになると、楓が会場を見渡しながら口を開く。
「やっぱり日武、でかいね」
「だね」
「スタンドはガラガラだったらどうしようかと思ってたけど、結構埋まってるね」
「本当だ。こんな箱でできるのにね……」
会場を見渡しながら、歩いていく。
そこら中に知っている顔がいる。
デビューしてすぐに上がってしまった、インディーズ時代のファンの人も多い。
黒服とか、コスプレとか。
それぞれが思い思いの恰好をしている。
そんな人たちの横を通り過ぎながら、自分たちの席を目指して歩く。
「ねー優花。前の方って通ってた人が多くない?」
「あ、それ思った。全通してる人とか、遠征でよく会う人ばっかだよね?」
「最後くらいってやつかな?」
「かもね……。頑張ったご褒美的な」
前に向かうにつれて、見知った顔が多くなる。
そんな客席を進みながら、二人はまっすぐと前に向かう。
「あっ! ここだ」
「近いねー」
最前列のセンター、少し下手寄り。
そこが、優花たちの席だ。
左右を見ると、知っている顔ばかりだ。
偶然にしては、出来過ぎた顔ぶれである。
そのことに少しだけ笑いながら、ローディーたちが忙しそうに行き来しているステージに目を向ける。
ホールのライブらしく、高めのステージ。
見慣れた楽器やマイクが置かれたステージ。
こんな光景も最後かなと思い、胸の奥が
それを閉じ込めるように、優花は胸を両手で押さえて、小さく息を吐いた。
……青薔薇の最後のライブが始まろうとしている。
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