04:ジョブチェンジ
優花は、すぐに行動を起こした。
今の優花は、パティシエになるために通っていた専門学校を卒業したばかりだ。
四月からは、三つ隣の駅にあるケーキ屋への就職が決まっている。
まずは、その内定辞退に向けて動き出すことにした。
前回の人生。
このケーキ屋で勤めたことで、優花は二つの不幸に見舞われた。
一つめは、ヘルニアになってしまったこと。
ケーキ屋の仕事は重労働だ。ケーキ作りはもちろんのこと、重い荷物を持ち上げたりする作業も多い。
優花の勤めた店は、オーナーがケチで超超超ブラック企業だった。
そのせいで、常に人で不足。勤務時間は、早朝から終電間際までがデフォルトだ。
「残業代? 何それ美味しいの?」的な店だったこともあり、給料は超超超激安だった。
労働基準法、最低賃金。
当時はまだネットも普及していなかったので、そんな言葉すら知らなかった優花は、体を壊すまで働き続けてしまった。
そしてもう一つ。こっちの方が問題だった。
既婚者であるオーナーのストーカー被害にあってしまったのだ。
当時、ストーカーなんて言葉が知られ始めたばかり。警察に相談するなど、思いつきすらしなかった。
閉店後の店内に二人きりになるように何度も仕向けられて、「車で送るよ」と言うオーナー。
舐め回すように、優花の体を見る。そんな彼の顔には、いつも嫌らしい笑みが浮かんでいた。
「今日は、母が迎えにきてくれるんです」
「今日は、弟と駅で待ち合わせしてるんです」
身の危険を感じた優花は様々な言い訳を重ねて、恐怖の送迎をなんとか断り続けた。
その翌日は、決まって不機嫌になるオーナー。
そんな彼から理不尽なことで怒られたり、嫌がらせとしか思えない仕事量を押し付けられたりするまでがお約束だった。
そうして、しばらく月日か過ぎた頃。
優花の家の近くで、オーナーの車をよく見かけるようになった。
最初は偶然だと思っていたが、一回、二回と重なれば確信に変わる。
しだいに優花は休日にも家から出ることが怖くなり、ビクビクしながら過ごすようになった。
そんな時、更なる悲劇が優花を襲うのだ。
その日も、前日の誘いを断ったせいで、大量の小麦粉を一人で倉庫に運ぶことを言いつけられた優花。
25㎏の大袋を何袋も運び、最後の一袋を持ち上げた瞬間……腰に激痛が走った。
それでも若さもあり、気合いでなんとか腰の痛みを堪えて一日の仕事を終える。
やっとの事で帰宅して、湿布を貼って眠りについた翌日。
立ち上がれないほどの腰の痛みに襲われた。
事情を話して「仕事を休みたい」と言った時に聞こえた、受話器越しのオーナーの凍えるような冷たい声。
電話を切った時、何かが壊れるように涙が止まらなくなったことを覚えている。
数日後にやっと起き上がれるようになり、病院に通いが始めると少しずつ動けるようになっていった。
それからは昼間に病院に行って、電気を流してもらったり、軽いマッサージをしてもらう日々が続く。
その日も優花は、ゆっくり歩きながら病院まで向かっていた。
その途中で、一番見たくない車が停まっているのが見えた。
優花が車に気がつくなり、ゆっくりとこちらに近づいてくる、その車。
窓が開くと、運転席からオーナーが顔を覗かせる。
「優花ちゃん、偶然だね。腰、大丈夫? これから病院?」
オーナーの顔を見た途端。
今日は店の定休日だったことを思い出して、背中に冷たい汗がつたう。
なんとか笑みを浮かべて、優花は声を絞り出す。
「はい。オーナーはこれからお出かけですか?」
「今日は暇だったから、ドライブしてたところ。よかったら送るよ」
そう言ったオーナーの瞳が妖しく光ったのを、優花は見逃さなかった。
なんとか頭をフル回転させて、断りの言葉を探す。
「いえいえ、悪いので大丈夫です。お医者様からも歩くことも、リハビリだって言われているので……」
「気にしなくていいよ。ついでだし……」
──いやいや、何のついでだよ……。
そんな思いをグッと飲み込み。
優花はひきつった表情で、断りの言葉を紡ぐ。
何度も似たようなやり取りが続き、いよいよ苦しくなってきた時。背後から、救いの手が差し伸べられた。
「姉ちゃん、どうしたの?」
高校から帰ってきた、弟の
「あっ! 優樹、今帰り?」
「うん。あっ! こんにちわー」
そう言って、車の中のオーナーに笑いかける優樹。
一見、愛想よく見えるが、どことなく不機嫌そうだ。
「こんにちわー。弟さんか、高校生? 若いね……」
それから意味のない雑談を少しだけかわして、オーナーは逃げるように去っていった。
それを見送ると、優樹の顔からさっきまで浮かべていた笑顔が消えた。
そして、別人のような怖い顔をしてこちらを見る。
「姉ちゃん、あの車、最近よく家の近くで見かけるけど、なんなの?」
「えっと……」
「もしかして、ストーカーとかいうやつ?」
その日の夜。
夕食後に怖い顔をした母と弟からの質問攻めにあい、優花はこれまでのことを白状した。
怒り狂った母が店に電話するなどの騒動を挟み、仕事はクビになるような形で退職。
もちろん、その月の給料は振り込まれなかった。
こうして優花は、ブラック企業とストーカー被害から解放されたのである。
それから数年後、そのケーキ屋は閉店した。
風の噂では、オーナーが店の女の子に手を出して奥さんと店でもめたりして、色々と大変だったそうだ。
♪ ♪ ♪
こんな記憶を持っていた優花。
今ならオーナーの誘いもハッキリ断れるので、ストーカー被害には合わない可能性もあった。
しかし、令和を生きてホワイト企業の存在を知ってしまった優花には、あの超超超ブラック企業で働くなんて想像するだけで無理だった。
どう考えても、あれは一人分の仕事量ではない。
せっかく専門学校も出ているので別の店でパティシエになることも考えたが、体と心が前回の記憶を覚えていて拒否する。
ケーキ屋――という場所で働くこと自体が怖いのだ。
優花が内定辞退のことを告げると、母は信じられないものを見るような目をしていた。
ほんの数日前まで、ケーキ屋で働くことを楽しみにしていた娘の突然の変化だ。
それは、戸惑うだろう。
「せっかく専門も出たんだし、もったいないんじゃない?」
そう言う母と何度も話しあい、なんとか納得してもらった。
ケーキ屋に連絡したと報告した時の母の残念そうな顔を見て、胸が痛んだのはここだけの話だ。
すぐさま優花は、新聞に入っている求人広告、街角に置いてある求人情報誌、あとはハローワークに通い。
何社かの面接を受けて、小さな印刷会社に就職した。
土日休みの、定時出勤と定時退社。
月末や月初は忙しく、たまに残業が発生するが、残業代もしっかり支給される。
少ないが、ボーナスまである。
何より、ストーカー兼パワハラ男がいない。
最高の職場だ。
ちなみに給料もケーキ屋より少しだけ良い……バンザイである。
「お先に失礼します」
「お疲れ様でしたー」
その日も定時であがった優花は、職場を出るとPHSをパカッと開いた。
──あ、留守電入ってる。
画面に表示された通知をタップするも、反応がない。
何回かそれを繰り返して、ハッとする。
──あっ。またやっちゃった……。
慌てて、電話機のボタンを押してメッセージを確認する。
「優花ー、母さんだけど、帰りに牛乳と食パン買ってきてー」
優花は少し顔を赤くしながらPHSを閉じると、スーパーがある方角へと歩きだした。
実は過去に戻って一番困っていたのが、電子機器の取り扱いだった。
スマホ、ATM、販売機など……令和の時代、画面の付いているものは、たいていタッチパネルだった。
すっかりそれに慣れてしまっていたので、画面があるものは無意識にタップしてしまうのだ。
何人も後ろに並んでいる銀行のATMで、しばらく画面を押し続けたせいで、係のお姉さんから声をかけられて恥ずかしい思いをすることもあった。
スマホなんてものはなく、携帯電話かPHS。
二つ折りのパカパカが、最先端モデルである。
カメラ機能さえ搭載されていない。
SNSも無いし、メールは文字数を確認しながら打たなければならない。
もちろん、電話機でインターネットに繋げることなんてできない。電話機は、電話と短いメールを送受信するための道具でしかないのだ。
暇さえあれば見ていたスマホが恋しくて仕方ない。
まだインターネットが普及していないので、情報を得る手段は、TVや新聞や雑誌である。
「新聞のTV欄、懐かしい……」
「TVって、こんなに大きかったっけ?」
「ブラウン管の画質、やっば」
「電車の切符買うの、久しぶり……」
「スーパーの袋、有料じゃないんだ」
死に際の最後の夢だと信じこんでいた時は、一つ一つが懐かしくて感動していた。
しかし、これがこれからの日常になるのだと理解してしまうと、話が変わる。
正直、不便だし、戸惑ってばかりだ。
令和の当たり前にあった文明が恋しくてたまらない。
そんなことを思いながら、スーパーを歩いていた優花は、牛乳と食パンを持ってレジに向かう。
支払いは、もちろんニコニコ現金払い。
懐かしの夏目漱石の千円札の登場である。
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