03:目覚めると

「優花ー、起きなさい。バイト遅刻するわよー」


 母の大きな声が台所から聞こえる。


「優花! いい加減にしなさい! 知らないわよ!」


 繰り返し、自分の名を呼ぶ母の苛立った声。

 意識は目覚めてはいるものの、まぶたが開くことを拒否する。

 それをなんとかこじ開けると、真っ白な天井が見えた。


 ──知っている天井だ。


 でもそれは今の家の天井ではない、実家の懐かしい天井だ。

 何かを握りしめている手を開くと、赤くなっている手の平の中に真っ白なピックがあった。


 ──あー、これ、よくあるやつだ。


 臨死体験をした人が、過去の追体験をしたと語るのをTVで見たことがあった。

 それだろうと当たりをつけた優花は、壁のカレンダーに目を移す。


 1998年3月


 チューリップの写真の下に沢山の書き込みがしてあるカレンダーは、優花が20歳の時のものだ。


「ははは……、懐かしい」


 そう呟いて、部屋を見渡せば……

 壁にかけられた、コート

 本棚に並んでいる漫画やCD

 勉強机の上に置かれた、雑誌

 CDデッキ

 枕元のくたびれたクマのぬいぐるみ


 見覚えのあるものばかりが目に映る。


 若い頃の自分の部屋を懐かしんで見ていると、こちらに近づいてくる母の足音が聞こえてきた。

 いつもより荒々しいその音で、母が怒っていることがわかる。


「あんた! 本当にいい加減にしなさいよ! 十時過ぎたって言ってるじゃない!」


 久しぶりに聞いた、今にも角が生えそうな母の声。

 実家を離れてから、こんな風に大きな声で怒られることなんてなかった。

 その懐かしさから、顔には笑みが浮かび……瞳からは大粒の涙が落ちた。

 何粒も、何粒も、涙をこぼしながら、子供みたいに袖口で乱暴に目元を拭う。


 ──母さん、ごめん。


 心に浮かび上がったのは、そんな想いだった。


 きっと、今頃、警察や病院から母に連絡がいっているだろう。


 女手ひとつでここまで育ててくれた、母。

 ろくでなしの父親と離婚してからも、子供の前ではずっと優しくて笑顔を絶やさなかった、母。

 パートで朝から晩まで働いて、専門学校まで出してくれた、母。


 そんな母に、ろくな親孝行もできずに死んでしまったのだ。


 胸の中に次々と子供の頃からの思い出が巡り、小さな嗚咽おえつが部屋に響いた……。

 そこに、勢いよくドアを開けて、鬼のような顔をした母が飛び込んできた。


「あんた、いい加減に……なに、泣いているの?」


 そう言って、さっきまでとは別人のように心配そうな表情を母は浮かべた。

 優花はそんな母に子供のように抱きつき、泣きながら何度も呟いた。


「母さん、ごめん。母さん、ごめん…………」


 そう言いながら、しがみつき泣きじゃくる優花に、戸惑いながら手を伸ばす母。

 温かい手がそっと背中を撫でる感覚を感じながら、優花は母との最後の時間を過ごした。



 ♪ ♪ ♪



 それから、一日、二日、、、、一週間と過ぎ、優花は困惑していた。


 ──長……過ぎない?


 あの朝から、まるで親鳥について歩く雛鳥のように。

 暇さえあれば、優花は母の近くに寄り添っていた。


 母が買い出しに行くと言えば、スーパーまでついて行き。

 母が洗濯をすれば、隣に並んで洗濯物を干し。

 母がキッチンに立てば、隣に並んで手伝い。

 食器洗い、家の掃除…………。


 たまに実家に帰った時も、ほとんどしなかった手伝いを積極的にこなす。


 弟からも「姉ちゃん、気持ち悪い」と散々言われながらも、やり続けた。


 最初は戸惑っていた母も、二日目には慣れてしまい。

 どことなくご機嫌な様子で「何か欲しい物でもあるの?」と聞いてくる始末だ。


 そんな風に過ごして、四日を過ぎた頃から優花の胸に「?」が浮かび始めた。

 それは日を追うごとに大きくなっていき、ひとつの可能性に行き当たる。


「これって……もしかして、ループってやつだったりする?」


 漫画なんかで、少し前から流行っているループもの。

 漫画好きの優花も、もちろん読んだことがある。


 ヨーロッパ系の世界で、悪いことをした王女様や貴族令嬢が婚約者にこっぴどく捨てられて処刑される。

 そして目覚めると、子供の頃に戻っているっていうのが定番だ。


 それが、どうやら自分の身に起きているような気がしてならない。


 夢や死後の世界とは思えないほど、手に触れるものの感触はしっかりしているし、何かを食べればちゃんと味がする。

 それに、階段を落ちて意識を失う寸前に感じた死の気配。あれが全くないのだ。


 あの時、遠ざかる意識の中で体と自分の結びつきが薄くなっていくのを感じて、これが「死」なんだと漠然と思った。


 しかし、今。

 手を開いたり閉じたりして感覚を確かめてみるも、体と魂の距離が感じられない。

 普通に生きている気がする。


 長年苦しめられていた首や腰の痛みも全く感じないし、本当に20歳の頃に戻ったかのように、目覚めた瞬間から元気いっぱいだ。

 たぶん、朝ごはんにカルビ定食大盛りくらいは、余裕で食べられる。


「そんなことあるの?」と、否定する自分。

「いやいや、わかっているくせに」と、肯定する自分。


 そんな二人がせめぎ合うなか、日増しに優花の中の天秤は肯定に傾いていく……。


 そうして十日目。優花はさすがに認めた。


「これ、本当に、時間が巻き戻ってるわ」


 王女様でもない、貴族令嬢でもない、悪役令嬢でもない、ただのおばさんの優花。

 世界を変える力や使命なんて100%持っていない、しがない女に起こった物語のような奇跡。


 目の前に突然広がった無限の選択肢が、優花の脳裏を駆けぬける。


 親孝行……もちろんする、大事だ。

 友達……うん、やり直そう。

 恋人……うーん、いらない気がする。

 仕事………………

 …………………………青薔薇。


 真面目なことから、バカみたいなことまで、あらゆるプランを考えた。

 でも、結局、最後はそこにたどり着いてしまう。

 普通だったら、前回バンギャに全振りしたせいで、手に入れられなかった人生をやり直すものなのだろう。


 そっちの方が賢い選択だって、わかっている。

 それでも優花は、どうしようもない馬鹿野郎で、死んでもバンギャでしかないのだ。


 実は優花にはバンギャとして、たった一つだけ心残りがある。


 いわゆる璃桜リオ様のガチ恋勢だった優花は、鬼のように青薔薇のライブに通っていた。


 ライブは楽しかったし、ファン同士の交流も楽しかった。

 青薔薇が解散した直後は、「我がバンギャ人生に悔いなし」と言い切れるほど本気で追ったのだ。


 そんな優花は、なんだかんだでバンギャを続け、いくつものV系のバンドを渡り歩き……最後にはお化粧をしないバンドに流れ着いた。

 野外のロックフェスに出るような、邦ロックと呼ばれるジャンルのバンドだ。


 そのバンドに通うなかで、優花は衝撃を受けた。


 V系のライブは、オシャレをして行くのが基本だった。

 しかし、邦ロックのライブに同じ格好で行けば、浮いてしまう。


 鏡を何時間も見ながらする化粧もやめて、ナチュラルメイクに。

 ヒールは徐々に低くなり、最後にはぺたんこのスニーカーに。

 ヒラヒラの可愛い服やセクシー系の服から、バンドが売っているグッズのTシャツ、いわゆるバンTを着るように。


 青薔薇のファン時代は、場所取りに夢中でライブ中に移動するなんて発想はなかったが、アンコールの間にドリンクを引き換えてビールで喉を潤すようにもなった。


 そうして、少しずつ染まっていった優花は、ある時思ったのだ。


 ──青薔薇のライブでも、一回くらいこんな風に純粋にライブを楽しんでみたかったな……。


 優花が数えられないほど行った、青薔薇のライブ。

 思い返せば、璃桜様に会いに行っていただけだったように思う。


 璃桜様の歌を聴いたり、パフォーマンスを見ることに夢中で、一度として「Blue Rose」という、ひとつのバンドのライブを純粋に楽しんだことはなかった。


 それは一度思ってしまえば、おりのように積み重なり、やがてバンギャ人生で唯一の後悔となっていた。


 バンTが汗まみれになるほど熱く、心から楽しんだライブ終わりに何度も思ったこと。


「こんな風に、青薔薇のライブを楽しんでみたかったな」


 どんなに願っても叶わなかったはずの、それを掴むチャンスが目の前に転がっている。

 ここで行かなきゃ女がすたるだろう。


「もう一回、青薔薇を追うか……」


 過去に戻ってから、十日目。

 優花は、二度目の人生をどう生きるかを決めた。

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