第16話
潮騒のような喧騒と、大人たちが慌てふためいて屋敷中を踏み荒らす音が聞こえる。ふすまに手をかけると、女中がそれを制止した。二人で遊んでいると、女中はいつのまにか姿を消していた。視線を元に戻すと、部屋には私だけになっていた。一歩踏み出すと、足元からギィと音が鳴った。見ると畳だった床は無垢材に変わっていた。驚いて後ずさると、壁にぶつかった。部屋が異常に狭い。暗がりのなか、手探りで出口を探すが見つからない。そこで、後ろで音がした。振り向くと、そこに蛇が二匹――
賀茂は悪夢で目が覚めた。まだ夜が明けきらぬ朝方、カーテンからもれた月明りを頼りにあたりを見回した。
どこだろう。
ぼんやりとした視界の中、においや部屋の構造に違和感を覚えた。
身体を包む衣服にも違和感があった。パーカーに長ズボンをはいている。賀茂の少ない荷物の中に、衣類はない。
どうしよう。
立ち上がって出口を探ると、柔らかいものを踏んだ。
「ん……星江、起きたの?」
「あ……」
足元から、女性の声が上がった。目を凝らすと、先ほどバーで大原の相手をしていた女性だった。名前はマコといったはずだ。
「マコ……さんですか?」
「そう。眠れないの?」
マコはうつろうつろに答えた。
「あの、この服、お返しします。私、もう帰りますから」
そう言って賀茂はパーカーのジッパーを下ろしはじめた。
「ちょっとちょっと。なんでそうなるの」
そう言って、マコは部屋の明かりをつけて、星江を布団の上に座らせた。
部屋は四畳ほどの和室で、そこに重なるくらい布団を近づけて窮屈に並べていた。
「ねぇ星江、あなたって今いくつ」
「一五です」
「親は何してるの」
「父は私が五才のときに亡くなって、母は妹を産んですぐに亡くなりました」
そう。マコはそう言って、しばらく星江をじっと見つめていた。
「あの――」
「お父さんが亡くなってからの十年間、あなたはどうやって生きてきたの」
「えっと――」
父が亡くなってから、私は、私は――。
周りの音が遠のいていく。血管の音だけがやかましく耳に残る。背筋は凍るように冷たいのに、頭だけは異常に熱を持ったような感覚。
「星江?」
呼吸が浅くなる。天地が逆転したような錯覚に陥る。そして、
「おええええええぇ」
嘔吐し、力なくその中に倒れ込んだ。
「今日も早いな、大原さん。何かあったのか」
事務所にかけると、すぐに滝沢の声がかえってきた。
「ああ。マコが見つかった」
受話器の向こうに、考えるような気配があった。
「そうか。場所は」
ああ。東京都港区からはじまるスーパーの名前を伝えた。
「そこの数件隣のビルにキャバクラが入ってる。行けばわかる」
「わかった」
滝沢の言葉には、何かを決心するような響きがあった。
「覚えてるよな」
「何が」
「マコに関して、一切を俺に任せていいと言った」
軽く笑うような声がすぐに帰ってきた。
「もちろんだ。あんたが思ってるようなことはしない。絶対だ」
「そうか」
「こっちはまだしばらくかかりそうでな」
「わかった」
「そういや、こないだの資料、預かったままだったな。いったんファックスでコピーを送る」
それじゃ、と言って受話器を置いた。
朝食をとりに冷蔵庫を開けると、いつもより多い食材に驚いた。
そうだ。賀茂の分も考えて買っていたのだ。この量は一人では腐らせてしまう。賀茂を押し付けた手前もある。なにか作ってマコのとこに持っていくしかないだろう。大原はしばらく料理に集中した。
気づくと日は遠くなりはじめていた。賀茂の荷物と鍋、資料をもって家を出た。
「なにコレ。いらない」
「なっ」
マコに鍋を渡すと、早々に拒絶された。
「コレだけもらうわ」
そう言って賀茂のサッチェルバッグだけをひったくってマコは裏に持っていった。
大原はバーカウンターにのる巨大な鍋を眺めた。
「なにしてるの」
「いや」
視線をマコに戻した。
「星江、だいぶ落ち着いたわよ」
「そうか。まだ眠ってるのか」
「いいえ。店の子たちと出かけてる。あの子、外のこと何にも知らないみたいだし」
「わるいな」
なにか飲む?口ではそう言いながら、手ではグラスに水を注いでいた。
「ありがとう」
水を受け取ってカウンターに置いた。
「それで、その鍋おきに来ただけじゃないんでしょ。写真、見せて」
スーツのジャケットから的場の写真を取り出してわたした。
しばらく写真をじっと眺めていたが、急に興味を失ったネコのようになってマコは写真をカウンターに置いた。
「知らないわ。ごめんなさい」
「そうか。オヤジさんとの会話で、名前が出たことは」
「ないわ。父は組の事を一切家では話さなかったの」
「そうか」
ついでなんだが。そう言って今朝ファックスで送られてきた巫礼夫妻の資料をカウンターに置いた。
「この二人について見聞きした覚えはあるか」
マコは資料を取り上げると、ピタリと動きをとめた。
「知ってる」
「聞かせてくれ」
マコは視線でうなづき、話を続けた。
「その日、父は普段通りアタッシュケースをもって帰宅したの。父は家の中でもアタッシュケースは必ず視界に入る場所に置いていたんだけど、その日だけは無造作に机に置かれてた。いいのかって父に聞くと、そこじゃないと見えないからって。でも父はいつも台所に立つことが多いから、机には背を向けるのに」
「それで」
「そうこうしてるとこの二人が家に入ってきたの」
マコは資料を見たまま言った。
「君は突然入ってきた二人に驚いたり、悲鳴をあげたりしなかったのか」
「ええ。不思議なんだけど、この二人はそこにあるのが自然みたいな、そういう感じがして、不法侵入なのに、最初は全然気が付かなかったの」
たしか川井も似たようなことを言っていた。
「なるほどな。このこと、当時警察には話したのか」
「いいえ。だって父親が殺されて、私しばらく失語症だったから」
そうだったのか。当時、マコの取り調べは滝沢の取り調べと並行して行われていた。当時のマコについての記憶が薄いのは、滝沢の取り調べに集中していたためと思っていたが、それだけではなかったようだ。
「すまない」
「別に。犯人も捕まえてくれたしね。話、もどしていい」
「ああ。頼む」
大原はグラスの水を一口飲んだ。
「その二人なんだけど、家に入るなりアタッシュケースを取り上げて、わけわかんない事言って出てったのよ」
「わかんない事っていうのは」
「うんと、たしか――これで一歩、不死に近づく、だったかな」
不死、か。またわけのわからない事が始まったな。
とりあえず組に連絡を入れた方がいいな。
「電話、借りていいか」
「うん。そっち」
示された方に進み、電話をかけた。
「お疲れ様です。文護です。こちらにかけてくるのは久しぶりですね」
「ああ。早めに伝えた方がいいと思ってな」
「何かありましたか」
「ああ。マコが見つかったことは聞いてるか」
「はい、聞いてます」
「アタッシュケースの行方もわかった。七年前、アタッシュケースが行方不明になったあの日、巫礼の二人がマコの家に来て、アタッシュケースを持っていったらしい」
「アタッシュケースは今的場が所持しています」
「ああ。お前らの読み通り、高木誠が持ち出した金は巫礼を通して的場次郎に流れていると見ていい」
「アニキに伝えます」
そう言うと、すぐに電話は切れた。
カウンターに戻って、電話の礼を言った。
「もう行くの」
「……そうだな。賀茂はいつ戻る」
そろそろ――。マコがそう言いかけたところでちょうど店の扉が開かれた。
「ちょっとマコ姉みてよ。星江、すんごい可愛い」
「あの……」
「ほらほら、見せてあげなよ」
女たちに押される形で、賀茂はカウンターにはじき出された。
「あの……どうでしょうか。やっぱり、変ですよね」
所在なさげに立ち尽くす賀茂は、黒いロングスカートに白のパーカー。それに金ボタンのキャメルのダブルブレザーを着ていた。ずいぶん大人びた格好のはずだが、不思議と賀茂には似合っていた。
「ふーん。可愛いじゃん、星江。あんた似合うよ」
「ああ、よく似合ってる」
ほらぁ。言ったとおりでしょ。女の一人がそう言うと、また賀茂を中心に、どっと会話が盛り上がった。
「そろそろ時間なんだから、準備しなさいよ」
騒ぐ女たちにマコは声をなげた。
「まったく」
「そろそろ準備か」
「ん。そうだね」
それじゃあ。そう言って席を立つと、再び扉が開いた。
「おはようございます」
そう言って入ってきた二人にマコは挨拶をかえした。この二人には見覚えがあった。
「あんたら、風俗店で清掃員してなかったか。あんたらまで拾われたのか」
清掃員は派遣会社から雇われていたはずだから、身を隠す必要はないはずだ。それともわざわざマコが雇ったのか。
「やってたよぉ。あんた、摘発直前に私達逃がしてくれて人だろ。ほんと助かったよ。ねぇ」
「ほんとほんと」
「……ああ」
「それにマコさんも逃がしてくれてね。隣のビルのあの人、あんたの部下なんだろ。未だにこの店に様子見に来てくれてるよ」
「宮島さんだっけか」
隣のビル?宮島?
「ちょっとまってくれ。なんの話をしてるんだ」
「え。ほら、あんたがビル飛んでくの、あたしらちょうど下から見てたんだよ。そのあとマコさんも隣に乗り移ってさ」
「そうそう」
「それで、一応ほとぼり冷めるまで隠れてたんだけど、落ち着いたようだから一度ビルの様子を見に行ったのさ。そしたらマコさん車に乗せてどこかに送ってったじゃない。てっきりあんたが助けを回したもんだと思ってたけど」
マコに視線を向けた。
「私も最初はそう思ってたんだけど……」
「詳しく聞かせてくれるか」
うん。マコはそう言って摘発の日の事を語り始めた。
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