第7話

 ぼんやりとしている。感覚の輪郭がぼやけて、自己と外界がなにかで隔てられたような感覚がある。しばらくそのままでいると、沈んでいたものが戻ってきた。


 冷たい感触が顔にあった。つかんでみるとそれは濡れたタオルだった。体を起こしてあたりを見回すと、そこは西村組の事務所だった。


「起きたか」

 振り向くと滝沢がこちらを覗き込んでいた。


「何があった」


 投げ出されていた足を地面につけ、ソファに座りなおした。


「あんた、一家の奴に殴られて気を失ったんだ」


 そう、最後にあったのは痛みだった。あれは殴られた痛みだったらしい。


 痛む箇所を確認するように頬をさわった。そこで、煙に巻かれていた記憶が少しづつ戻ってきた。


「この件、どう収める気だ」

「どうにもなりゃしないさ。もう済んだ話だ」

「どういうことだ」


 真昼間に発砲、道路には男たちが倒れている。簡単に収められる話ではないはずだ。


「事件にはならない、ということです」


 言ったのは文護だった。


「いつからいた」

「今です」


 滝沢がタバコをくわえると、文護はすぐに火をかざした。


「どういうことだ。あれだけの事をやったんだ。事件にならないはずがない」


「もちろんすぐ警察は来ましたが、事情を説明して退散させました」


「そんなはずないだろう」


「わかれよ大原さん。やつらはこっちの餌につられてんだよ」


 痛む頬の熱が上がった。


 握るとは、話を聞くうちに相手に丸め込まれて事件化しなかったり、警官の怠慢であったり、もしくは取引などによって現場の警官が事件をなかったことにしてしまったりすることを表す言葉だ。


 三年前の事件の捜査が難航し、被害者を増やし続けた一因に、事件の発端にあったある相談を握ったことにあった。


「そう怖い顔するなよ。大事になれば、お互い引けなくなるのはわかるだろ」


 組と一家の小競り合いは今のところ世間ではあくまでウワサ程度で済んでいるかもしれない。今回の事が事件化されれば、ウワサは警察の折り紙付きとなってそこら中に知れわたるだろう。


 そうなれば組もメンツのために早急に一家を潰さねばいけなくなる。しかし三木を殺した犯人、アタッシュケースを持つ的場次郎の行方がつかめないままで大立ち回りをすることはできない。いま事が公になれば、結果的に組の看板に泥を塗り、未解決のまま事が流れることは理解できる。


 しかし、三年前にあれだけの事件があった後でも、いまだにその悪癖が警察に存在することに心底苛立った。


「どこいくんだよ」

「……タバコだよ」


 事務所の階段を下りて外に出た。


 三年前の事件もこの歌舞伎町で起きた。


 四人の死亡者を出して幕を閉じたあの事件は、一本の一一〇番からはじまった。患者が院内に見当たらない。とある病院からの通報だった。調べに行くと、精神科に入院していた患者がいなくなったという事だった。


 担当した警察官は仮眠の最中に通報を受けたらしい。それが彼を苛立たせたのかもしれない。あるいは勤務交代まじかの通報が彼に陳腐な絶望感を与えたのかもしれない。


 いずれにせよ、担当した警察官は下卑た思考そのままに行動したのだ。結果として、この通報は後に連続殺人事件に発展する最初の手掛かりとなるはずだったが、手掛かりとして捜査線上に浮かんだのは最後の死亡者が出る直前だった。


 この通報がもっと早くにわかっていれば、最後の死亡者は出ずに済んだ。


 煙草の煙を吐き出すと、頬の熱だけを残して体温が下がるような感覚が残った。二本目を取り出すと、脇から火を出された。文護だった。


「……」

 無言で火をつけた。


「かけつけた奴らに渡した餌はこれです」


 文護がライダースジャケットから取り出したのはさきほど大原が渡したゴールデン街でのメモだった。


「どういうことだ」


「三木のアニキが殺されたことで、捜査本部が設置されたそうです」


「……いいのか」


 警察にこの情報を流すという事は、三木殺害の犯人や的場がひっぱられる可能性が出てくる。


「ええ」

 文護それきり口をつぐんだ。


「見かけない男女、そいつらを見た奴にお前の電話番号を教えた。摘発のあった店で受付やってた川井って男だ。何かあれば連絡する様に伝えてある」


 文護はうなずくだけだった。


 大原は事務所を見上げた後、文護に言った。


「今日は助けられた」

「いえ」


「……一家の、今日シマを襲った男はどうなった」

「死にました」


 大原は煙を深く吐いた。


「殺したんだろ」


「いえ。殺すつもりでかかりましたが、殺せませんでした」


「バカ言うなよ。撃ったんだろ。それとも、一発も当たらなかったのか」


「当たりました。すべて」


 なら――。そう言いかけてバーのマスターとの会話が思い出された。なんでも銃弾くらってもびくともしないんだとか。そう言っていた。


「一家は最近、そういう連中が多いです。撃たれても身じろぎ一つせずにこちらに向かってくる。拳も刃物も歯牙しがにもかけない。まるで痛みを感じていないような、そんな連中が」


「でも死ぬんだろ」


「ええ。彼らは人間離れした大暴れをしたかと思うと、突然動かなくなります」


「それで」


「それで終わりです。医者にも確認させましたが、脈はありませんでした」


 痛みを感じず、人間離れした力を発揮したかと思ったら突然停止する。まるで神話の狂戦士ベルセルクだな。違うのはその命が短命という事くらいか。


 煙草をもう一吸いしたところで、長くなっていた灰がもろく散った。


「……殴られた頬が痛んでな」

 煙草を捨て、溜息がちに言った。


「滝沢にも伝えといてくれ」


 大原は文護の返事も聞かずに歩き出した。後ろで頭を下げる気配があった。

 まったく、わからない事だらけだな。


 大原は靖国通りに向かって歩いた。通りを渡り、向かった先は小さなスーパーだった。


 あの摘発の日から、異常な出来事が多い気がする。オカルト団体に転属したかと思えばヤクザと協力。そうかと思えば撃たれても死なない男。正直うんざりしていた。


 大原は食事に癒しを求めた。かつては酒におぼれていた時期もあったが、今となっては食事がそれと取って代わった。大原はいっぱいになった袋を両手に下げて家に向かった。



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