指切り

椿

指切り


 僕には付き合って三年の彼女がいる。肌は雪のように白くて、緩く巻かれた茶髪が揺れる様子が可愛らしい、自慢の彼女だ。

 そんな彼女とは大学一年生の頃に知り合った。同じ法学部で、いつも教壇の前という嫌われる席に自ら進んで座っていた姿を遠目で見ていた。

 偶然、ペアワークで話すことになったのが、僕が彼女に惚れたきっかけだ。

 初対面で緊張していた僕に、優しく笑いかけてくれた彼女の名前は宮川彩。最近は僕のバイトの都合であまり会えていないが、ずっと連絡を取り合っているため関係は良好だ。

 僕には目標がある。バイト代で彼女に婚約指輪を買うことだ。付き合って三年、彼女の優しさに何度も助けられ、支えられてきた。これからは二人で支えあっていきたいと強く思い、婚約指輪を渡そうと決めたのだ。そのために大学の空コマにバイトを詰め込み、ひたすらに金を貯め続けた。


 もう少しで目標金額に到達する。実物も彼女に似合うものを探すことができた。


 彼女と付き合った当初、僕は彼女に指切りを持ち掛けた。

ずっと一緒にいよう、と言う僕の言葉にかわいらしく微笑んで小指を差し出してきた彼女はとてもきれいだった。

その約束を果たすためにも、指輪を渡したいと思う。


 僕はその日、大学の教務室にいた。卒業論文の提出を終え一息ついていた所に、スマホの着信音が聞こえてきた。彼女からだった。メッセージアプリを開き、すぐに確認すると、「今夜会いたい」と飾らない言葉が映し出されていた。

 彼女の我儘は珍しい。普段は自分よりも僕のやりたい事を優先させてばかりの内気な人だ。僕は珍しさのあまり、今日入っていたバイトを休むことに決めた。


 今日のバイト先は個人経営の料理店だ。店長の谷さんは最近奥さんとうまくいっていないと零していたため、わずかに罪悪感が生まれるが可愛い彼女の珍しい我儘には勝てなかった。

了解の意を込めて彼女とのトーク画面にスタンプを送り、僕は大学を後にした。


一度家に帰った僕は、バイト先の店長に電話をするためスマホをいじっていた。


「店長。今日のバイトを休ませていただきたいのですが……」

『なんだ今野。珍しいな』

「すみません。母親の具合が悪いと連絡を受けて、心配なので様子を見に行きたくて……」

『そうか。それなら早く行ってやれ。また今度空いた時間に入ってくれればいい』

「ありがとうございます。では、失礼します」

 彼女に会える事に胸を躍らせながら、僕は電話を切った。


「別れてほしいの」

 最初、僕の耳に彼女の言葉は残らなかった。

「――え?」

「私と別れてほしいの、一翔くん」

 僕が彼女の家に訪れてすぐ、彼女はそう言った。

 いつもなら僕を呼ぶ声は生き生きとしていて、鈴でも転がしたのかと思うほどかわいらしかったのに。

 今の彼女の声は冷え切っていて、発せられた言葉はまるで鈍器の様に僕を襲った。

「な……何を言っているんだ。僕達、ずっと一緒だって、約束したじゃないか。ほら、指切りをしただろ。忘れたのかい」

「指切りなんて子供の遊びでしょ。くだらない」

 嫌悪感を丸出しにした彼女の視線が僕を刺していく。彼女のこんな顔は初めて見た。目を細めて、眉間にしわを寄せている。


 ああ、可愛い顔が台無しじゃないか。


「もう疲れたの。束縛はひどいし、一人で気楽に遊びにもいけないし。もう散々」

「な、なら直す。君が嫌だった所は全て直す。だからっ」

「ごめんなさい、もう決めたことなの」

「彩!」

 説得を試みる僕を無理やり動かして、彼女は僕を家から出した。


 外の空気はいつも以上に冷え切っているように感じた。藍色の空の中で光る星が、今の僕には鬱陶しく思える。まるで僕を嘲笑っているかのように輝き続ける星から目を逸らし、先程の出来事を思い出す。


彼女は約束を破った。指切りをしたのに。


「……ははっ」

 気づいたら僕は笑っていた。笑いながら、自分の家に帰っていった。


 指切りげんまん 嘘ついたら針千本飲ます 指切った


 これは単なる子供の遊びなんかじゃない。立派な契約だ。その契約を破った彼女は、あの歌の通りにしなければならない。

「ちゃんと針千本、飲まないとだね。彩」


 その日の夜。僕は彼女の家に向かって歩いていた。ズボンのポケット内で彼女の家の合鍵を握りながら、迷う事なく歩いていく。荷物が多くて肩が痛むが、気にしている場合ではない。僕はひたすら歩いて行った。


 無防備に寝ている彼女の傍らに腰を下ろし、寝顔を見つめる。

 すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている彼女はとてもかわいらしかった。


 けれども、彼女は約束を破った。これは仕方のない事なんだ。


 鞄の中から瓶を取り出し、音ができるだけ立たないようゆっくりと蓋を開けていく。蓋の中身をしばらく眺めたあと、僕は彼女の上に跨った。これだけでは起きないことは知っている。泊まりの時や旅行の時、何度君を起こしたか。

 だから、僕はそのまま彼女の口に手を伸ばした。小さくてきれいな唇をこじ開けると、僕は瓶の中身を彼女の口に流し入れた。

 口の中の異変に気付いた彼女は目を見開いた。僕の姿をとらえた目は恐怖で歪んでいくが僕はそれを気にせず、ひたすら彼女の口に針を流し入れていく。

 喉に針が刺さって痛むのか、口内を針が貫通して痛むのか。彼女は必至に抵抗してきた。

 しかし、男女の力の差は歴然だ。僕は両足で彼女の細い両腕を踏みつけ、身動きを封じた。

「ダメだよ彩。全部飲まないと。君の為にちゃんと千本数えたんだよ?」

 口から血を流し、うめき声をあげようとする彼女を僕は表情を変えずに眺めていた。

「まだ針はいっぱいあるよ。うまく入れられるよう僕も頑張るからね」

 喉を傷つけながら体内に入っていく針が、彼女の口の中でキラキラと輝いている。      小さい口から真っ赤な血が流れていく様が、なんとも愛おしかった。

 傷だらけの口内と喉を必死に動かして、彼女が僕の名前を呼ぼうとしていた。空気が漏れるような音しか聞こえなかったが、僕にはその音だけで、彼女が何を伝えようとしているのか分かった。

 僕は一度針を流し入れる手を止めて彼女の言葉の続きを待った。

「や……て、…ゆう……し、て」

『やめて、許して』 

 彼女はそう言いたいのだろう。掠れた声で血を吐き出しながら彼女は必死に僕に訴えた。

 なんと健気なんだろうと、僕は思った。

 両腕を踏みつけられ、胸に座られ、針を流し入れられる。

 そんな中でも、彼女は目に涙を浮かべて逃げ道を探している。

「彩。逃げないでよ。約束を破った君が悪いんだから」

 僕の声は普段と変わらずにいるだろう。罪悪感なんて生まれてこない。

 ただひたすらに、約束を破った彼女を正さなければ、なんて子を叱る親の気持ちの様なものが僕の中にはあった。

 僕を止めるのは不可能と悟った彼女は周囲に助けを求め始めた。さっきまではあんなに僕にすがってきていたのに妬けるな。そう思った僕は彼女の口に針を詰めたまま、頬を片手で掴み、押し潰した。

 彼女から形容できない声が発せられる。

 何本かは彼女の頬を貫通し、僕の手まで届いていた。

 涙を大きな目からぼろぼろ溢し、傷だらけの喉を動かそうとする。

 僕は一度、彼女の頬から手を離した。

 一瞬の隙に身を捩り逃走を試みる彩に容赦なく体重をかければ、一度に大量の血を吐き出した。

「彩は血まできれいなんだね」

 その血を掬い、ぺろりと舌で舐めとる。口の中に鉄の味と、微かな甘さが広がっていく。

 


 どれほど時間が経ったかわからない。一時間か、それとも十分か。長いような短いような時間の中で、千本の針は彼女の中に入りきった。

 彼女は喋らなかったし、動かなかった。肌は冷たくなっていて、少し残念だった。

 ベッドのシーツには血が点々としており、まるで最初からその模様だったのでは、なんて思えてくる。


彼女は死んだ。僕が殺した。……いや、違うな。


彼女は正しくなれた。僕はその手助けをしたのだ。


「もう間違えちゃダメだよ、彩」

 僕は彼女の頭を優しく撫でながらそう呟いた。

 外に出ると、先ほど彼女から家を追い出された時より温かく感じた。


もう星は、僕のことを笑わなかった。

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