第5話 青年、兄を知る
「やぁ、エリス! もう身体は大丈夫なのかい?」
「はい、アレン兄様」
アレンシールの部屋は、エリスの部屋と同じフロアにあった。
といっても、侯爵家の屋敷だ。とんでもなく広い建物の中を危うく迷いかけて、フロアの中でも特に広い部屋をやっと見つけた。
このフロアはいわゆる居住区で、一階層上のフロアが執務室になっていて、一階層下は侍従たちが住んでいたり食堂があったりするフロア。
アレンシールの部屋一つでも、オレの住んでいたアパートが丸ごと入るんじゃないかってくらいに広い屋敷だ。全体がどうなっているのかは、想像もしたくない。
だってそれを歩き回らなきゃいけないだなんて思ったら、それだけで足が疲れてしまいそうだ。
「お茶を呼ぼうか?」
「いえ、アレン兄様にちょっと、お伺いしたいことがありまして」
「私に聞きたいこと?」
「はい……わたくしのことを、どこまでご存知なのかと思いまして」
アレンシールの部屋には侍従の類は居なかった。事前にフラウに伝えておいたから、先に人払いをしておいてくれたのかもしれない……って思ってしまうくらいには、この家の家人たちは有能だ。
そりゃあ名高き侯爵家なのだから家臣たちも有能なんだろうとは思っていたけど、なんだか何でもやってくれそうな気がしてしまって危うい。
こうやって貴族は怠惰になっていくのかもしれない、と思ってしまうくらいだ。
「君は、私の大事な妹だよ?」
「それだけでは……御座いませんでしょう?」
そうなれば、それを従える貴族だってそれなりの質ってもんが要求されるもの。
アレンシールは病弱で、母親に似て線の細い、どちらかというと女性的な男性だ。
なんというか、オレの知識だけで言うなら乙女ゲームだとか少女漫画で描かれそうな類のビジュアル、というべきだろうか。
少なくともアイドルだとかモデルだとか、実在の人間が出来るビジュアルとはちょっと遠い存在だ。異世界だからこそ、というべきなのか、何度も整形を繰り返したとしても作れるタイプの顔じゃない。
だからこそその顔が真っ直ぐにこちらを見ているのは、ただ椅子に座って足を組んでいるだけでもなんだか……迫力がある。
病弱とはいえ流石は侯爵家の長男。
嫡男でなくてもこれだけの気品があるのか。日本人のオレには縁遠い気品なんてものを突きつけられてほんのちょっとだけ怯む。
でも、エリスはそんなものには怯みはしないだろうという気持ちで膝を奮い立たせる。
ドレスで良かった。膝が震える魔女の首魁だなんて、冗談にもならないだろう。
「私は、君が魔女なのは知っているよ。でも、それだけだ」
「……それだけ、とは」
アレンシールはあくまでも普通に、当然と言った風にそんな事を言った。
思わず周囲を見回してしまうと、アレンシールがクスクスと笑う。
「言ってなかったかな。私の病気を治してくれたのは、君だったじゃないか」
「それは……いくつの時のことですの?」
「アレは……君が5歳の頃だったかな。私が流行り病で倒れた時に君が治療してくれたんだよ。私はそれで命拾いして……段々と身体も強くなっていったんだ」
ゆっくりと立ち上がって、アレンシールがエリスに近付いて来る。
5歳の時。エリスが日記に残していたエピソードと彼の話は一致する。それでいてこんな風にエリスに優しくしてくれるということは彼女の味方で間違いない、のだろう。
エリスが「アレンシール兄様をお願い」と言ったのも、ただ血縁だからというだけではなさそうだ。
「……ダミアンの事を気にしているのかな」
「え?」
「いきなり君と婚約破棄するとはね。彼のことは父上もそこそこかっていたのに、残念だよ」
「ダミアン……ですか」
心配そうに頭を撫でてくるアレンシールを見上げながら目を丸くしてしまうと、アレンシールは首を傾げて穏やかな笑顔を見せた。
ダミアン。
エリスの記憶を遡ってみると、一人だけ該当する人間がいる。
ダミアン・レンバス。レンバス侯爵家の嫡男であり、エリスの婚約者……だったけれど、どうやら昨日エリスは彼直々に婚約破棄を申し渡されている。
それも、エルデ男爵家のセレニアという名の女の子を変わりの婚約者にするということも、その場で言い渡されているようだ。
……いや、なんでだよ。
侯爵家と男爵家だぞ? 日本人のオレでも、侯爵と男爵の地位の差くらいはわかる。
同じ侯爵家の一人娘との婚約を一方的に破棄して男爵家の娘と婚約することを決めるなんて、それってつまりは浮気ってやつなんじゃないのか?
思わず額に指先を当てて唸ってしまうと、アレンシールが心配そうに肩を撫でてくれた。
なるほどなるほど、それでフラウはまるで壊れ物にでも触れるかのようにエリスを扱ったし、仮病を使った時にも兄と共にすぐに納得してくれたんだろう。
そりゃあ、年頃の侯爵家の娘が男を寝取られたとかなったら、当人だけの問題じゃあないだろうしなぁ。
ダミアンってヤツも、余程の度胸があるのか……
それに今エリスの記憶を遡ってみてわかったことだが、このダミアンとかいう男……夢の中で見た男だ。
『この赤い月の7日という記念すべき日に、魔女とその一派を公開処刑とする!!』
あの、嬉しそうに醜く歪んだ顔――忘れるわけがない。
夢を見た時にはただただ衝撃でいっぱいだったけれど、まさかアレが元婚約者だったとは。
だがそれなら婚約を破棄された理由もわかるというものだ。ダミアンとかいう男は何らかの方法でエリスが魔女であることを知り、エリスを断罪するための準備を着々と進めているのだろう。
今、この瞬間も。
エリスだけではなく、アレンシールや複数の男女もまとめて処刑をする準備を、整えようとしているのだ。
無意識に、ぎゅっと拳を握り込む。
あの夢を見た時にはまだ自分がエリスになっているということは知らなかったし、こんなことに巻き込まれるとも思っていなかったのに、胸の中に燃え上がるのはとんでもない憎しみの炎だ。
オレの弟に直接向けられなかった恨みを、憎しみを、ダミアンに向けようとしているかのようなドス黒い怒り。
「アレンシール兄様、わたくし、未来をみました」
「未来を……?」
「恐らくは、魔女の力です。信じて頂けますか?」
アレンシールが赤い瞳をで真っ直ぐにエリスを見る。
病弱と言うには頼もしいようにも感じる手は、彼が言うようにエリスによって治癒をされたことで徐々に力をつけた結果なのだろうか。
だとしたら彼は敵にはならない。
エリスの記憶が、エリスの信頼が、そう確信している。
だからこそ、ただただ兄を案じる妹の心もまた存在していて、どうしたことか今にも泣きそうだ。
家を追い出された時にも彼女にフラれた時にも涙なんか流さなかったのに、今はどうしてかすごく、すごく泣きそうで鼻の奥がツンと痛む。
味方が欲しい。
心の奥底から、そんな願いがにじみ出ているかのようだった。
死ぬ前の、しょっぱい味の混じったティラミスと発泡酒の味を思い出す。まだ泣いてないのに、今にも泣いてしまいそうだった。
「お馬鹿さんだね、エリス」
アレンシールの、胼胝のある手がそっとエリスの両頬を包む。
親指でそっと目元を撫でられると、もうすでに涙が流れていたのかもしれないと焦ってしまった。
「私はね、誰よりも、いつだって、君の味方なんだよ」
「アレン兄様……」
「君の言う事を疑いなんかしない。疑うことだって知らない。可愛い妹で、麗しの魔女様の言葉だもの」
だから、ね。泣かないで、私の愛しい子。
貴族男ってのはみんなこんななんだろうか。
綺麗な顔をして、声優みたいないい声で、甘く優しい言葉を投げかけるなんてそんな、胸に響かないわけがない。
オレは、エリスがそっと抱きしめられるのと同時にオレのズタボロだった心臓まで抱きしめられた気持ちになって、思わずぎゅっとアレンシールの背中に腕を回していた。
ドクンドクンと、自分のものではない心臓の音が聞こえてくるというだけでとても心が落ち着いていくのを感じる。
あぁ、確か母が子を生んだ直後に子供を胸の上に乗せる……なんだっけ、カンガルーケア? だったかな。そういうものがあるのかとちょっと納得をした。
心臓の音を聞くだけで安眠が出来るとも聞く。
心臓の音に似た周波数の音を聞くだけでも、寝付きがいいのだと。
「兄様、わたくし、未来を見るのです。何度も、何度も同じ夢を」
「未来を?」
「はい……赤い月の7日。ダミアンによって、数多くの男女が殺されるのです」
オレは、兄の心臓の音を聞きながらあの赤い夢の話をした。
まだ彼の腕の中から逃げる余裕はなくって、もし万が一この夢の話が誰かに漏れてしまうかもしれないのも少し恐ろしかった。
ダミアンに殺されたのは、エリスとアレンシールだけじゃない。
エリスの隣には、頭が固定されていたせいで姿はよく見えなかったがもう一人女の子が張り付けにされていた気がするし、エリスの日記を読むとアカデミー生の中にもあの断罪で殺された者が居るようだった。
一番の目玉が侯爵家の兄妹、というだけで、被害者はオレたちだけじゃないっていうことだ。
これはある意味、国家ぐるみでの大騒動……それも、国に許されたものだってことに、なるんじゃないのか?
となると、このノクト侯爵家も一体どうなってしまうんだ?
そもそも、いくら相手が魔女だからって国が許す虐殺なんてあっていいものなのか。
ファンタジーなら許される?
そんな馬鹿なことがあるわけがない。
「なるほど……あの馬鹿者がそんなことを」
「……信じてくださるのですか?」
「私がエリスを疑う理由なんかないんだよ」
ぎゅう、ともう一度抱きしめてから、アレンシールはそっとエリスから距離をとった。だが視線だけは外さず、穏やかに笑みを浮かべてこちらを安心させようとするように肩を撫でてくれている。
それだけで、その手の温かさだけで、ほっとした。
「……聞いてください。兄様。わたくしの視た、未来の光景を」
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