拝啓、魔女より海底から
ミスミシン
第1話 敬具、死者よりあなたへ
オレはどうしてか、子供の頃から海が大嫌いだった。
波が怖かったわけじゃない。
だって波のプールは大好きだったし、そもそもプール自体は平気だったから泳ぐのだって得意な方だ。
温泉もお風呂も平気。
でも海は本当にだめで、海となると途端に泳げなくなって泣き喚いて両親をイラつかせてばかりだった気がする。
それ以外は親の言う事を素直に聞いていた優等生だったのに、とにかく海だけはだめで、怖くて、ある程度の年齢になって臨海学校へ行く事になった時も、海への恐怖のあまり具合を悪くして新幹線で先に教師と帰宅するという、完璧主義でエリート思考の両親にとっては頭の痛い事件まで起こしてしまった事もあった。
特に夜の海が駄目で、夜闇から聞こえる波の音にすら泣いてしまったこともある。
でも、なんでそこまで海が怖いのかは、分からない。
海で溺れた経験もないのに、初めて家族で海水浴に行った日にはもう海が駄目だったようだと祖父母に聞いた事があるのでもう本能みたいなものだったのだろう。
それが学生時代に水泳部で海を愛していた父の癪に障っているのは分かっていたけれど、どうすることも出来ない恐怖もあるのだという事をオレに叩き込んでいた、気がする。
思えばオレは、海の件に限らず両親の目の色ばかりを気にしている日々を送っていたのじゃないかと思う。
何しろ幼少期なんかは勉強して勉強して、とにかく成績を気にしていた記憶しかないし、そんなヤツに学校の友達が居るわけもなく知人だって塾で出会った同じような勉強の虫的な同士がちらほら居るくらい。
幸い大学では彼女も出来たし文芸サークルもそこそこ楽しかったけれど、大学における「良い記憶」や「楽しかった記憶」っていうのはその辺でストップしてしまっている。
というか、そこで永遠にストップしていて欲しかった。
彼女は一つ年下の後輩で、可愛いタイプの子だったと思う。
文芸部に入ってきて、当時大学内でも成績がかなりいい方だったオレに「すごい」と目をキラキラさせて勉強を教えて欲しいと積極的にテキストを開くところがとても可愛くて好感が持てて、勉強が出来る方の人間であることに感謝したのはその時だけで。
でも結局彼女は、オレが公務員試験に落ちた途端に「ダッサ」と一言だけ残して去ってしまった。
当然「彼女は慰めてくれるはず」だなんて思っていたオレは驚いたなんてもんじゃなくもう呆然としてしまって、そこでようやく彼女が好いていたのはオレの将来性というものだったんだっていうことに気がついた。
じゃあ彼女はオレが試験に落ちなければ一緒に居てくれたのだろうかと考えることもあるけれど、そんな未来は二度と来ることはないので考えるだけ無駄だ。
公務員試験に落ちたのは、本当になんというか、間が悪かったのかもしれない、と思うようにしている。
あの時会場には偶然同じ大学の別のゼミの奴も居て、緊張しきっていたからか顔見知りが居たことに安心したオレは何も疑わずにソイツが差し出してきた自販機の紙コップの飲み物を受け取って飲んで……
それから、記憶がない。
気付いたのは、ベンチで爆睡しているところを試験終わりの誰かに起こされた時だった。
もちろん、もちろん、前日まで必死になって勉強はしてて、寝不足だったのは、ある。
だってこの試験はオレにとって人生の重大事で、これに落ちたら両親に何を言われるかわからないし、一気に「出来損ない」の烙印を捺されてしまうかもしれないという本当に、本当に重要な試験で。
だって、両親はずっと言っていたんだ。
お前も父親と同じように官僚になるんだ、って。
我が家は代々そういう家だから、お前と弟も最低でも医者にならなければいけないんだ、って。
だからオレはいつも弟の成績と比べられ続けてきたし、テストは満点でないとほんの一問の間違いだって延々と叱られ続けた。
手の甲には何度も鉄の定規で叩かれた傷跡が残っているし、塾のテストで問題をふたつ間違えたオレを見る弟の嘲るような眼差しは忘れられない。
だから、オレは震えながら家に帰って、それでも結果が出るまで親に嘘をついたり黙っていることなんか出来るわけもなかったから、体調不良でテストを受けられなかったということを正直に話した。
その時の両親の眼差しったらない。
オレは何故か子供の頃から海が嫌いで、海を見ているとその海の底からなにかに見詰められているような気がして必死に目を背けてきたのだけれど、そんな海の底から睨みつけてくるような、オレを陥れようとするような、そんな眼差しだった。
唯一弟だけは爆笑していて、オレがキャリーに入る程度の服と日用品と、それからほんのわずかな手切れ金と共に家から放り出された時にも膝を叩いて笑っていた。
面白くってたまらないと言いたげな弟は、父に叱られて一度笑うのをやめてもすぐに吹き出してニヤニヤし始めて。
「認められるまで戻ってくるな」
最後に聞いた父親の言葉は、たったそれだけ。
母はため息を吐いて無言でドアを閉め、弟はまた少しの間爆笑した後にニヤニヤしながら「ぐっすり眠れた?」なんて言ってまた爆笑して……
オレは家族に、捨てられた。
弟の言葉の意味を噛みしめる暇なんてない。
その言葉の意味を考える、そんな余裕もない終わり。
家の鍵すら奪われていたオレはとにかくフラつきながらその場から立ち去ると、塾のサークルで親しかった友人の家に少しの間身を寄せさせてもらい、大学だけは卒業した。
卒業までの間に必死に就活はしたけれど、時期的なものもあって公務員試験に全力集中していたオレにはそんないい働き口もない。
結果、彼女にもたった一言で捨てられた挙げ句、オレは当時ブラック企業と名高かった企業になんとか滑り込んで、今を過ごしている。
ブラック企業と言われるだけあって給料は安いし仕事量は多いのに、バイトもしないと生活は成り立たない。
でもオレはどうしてか勉強をやめることも出来なくって、誕生日を明日に控えた今日もなけなしの金で最新の公務員試験のための参考書を購入すると、フラつきながらボロいアパートに帰宅した。
最新の参考書なんて言っても、買えるのは二十四時間やっている古本屋で買える中での最新なだけで、新品のものじゃない。
そんなものを買う金も本屋がやっている時間に本屋に行く余裕だって、今のオレにはないんだから。
それでも勉強をしなくちゃ、公務員試験に受からなくちゃという気持ちだけは強かったオレは、コンビニで買った安いカップのティラミスと発泡酒を自分のために買って座卓に並べた。
今日はこのケーキとも呼べないケーキと発泡酒があるから、夕飯はなしだ。
それでも、誰にも祝われない誕生日をオレくらいは祝ってやりたい。
買い物をしている最中にとっくに誕生日になったのにシーンと静かな格安の携帯からは目をそらして、オレは何度か失敗しながら発泡酒をあけてカップケーキの蓋を開くとそれらをチビチビと口にした。
甘さも苦さも、よくわからなかった。
涙なんだか鼻水なんだかわからない液体が混じり合って胸が痛くって美味しくなくて、これは甘いものなんだ、これはアルコールなんだと自分に言い聞かせながら口に入れた。
そう思わないと、味なんかしなかったのだと思う。
でも確かに、そのふたつがオレの……
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